【転載】[たか☆ひ狼] ある獣人傭兵の手記 第01-81話 (2019-12-08)

大物なろう作家のたか☆ひ狼さん、ノベラ大賞受賞で書籍化確約も過去のヘイト発言が発掘されアカウントを消して逃亡… : 色々まとめ速報
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獣人傭兵、過去を語る

1話

 戦争は終わった……だけど、自由ってなんだ? 
 それをずっと考えながら俺は書いている。

俺が生きてきた今までの事を。

 しかし、書けと言われたはいいんだが、なにをどうやって書けばいいのかいまいち分からねえ。生きてきた事っていうか、まだ俺は生きてるし。 
 要は自分の今までを振り返ってみればいいとも言われたんだが、あいにく俺には振り返って話せるほどの過去……そのものがない。 
そう考えてみると、改めて何を書けばいいのかなって、真剣に悩んでしまう。
ガリが言うには、この年になってようやく読み書き覚えることできたんだから、その勉強もかねてでいいんじゃないの、なんて気楽なことを笑って言ってきやがるし。ムカついたからとりあえず一発殴って黙らせた。
 
 しかしまぁ……そうかもしれないな、親方に拾われた時から、俺は戦うことと生きるための訓練しかしてこなかったわけだし、こうやって学んだ文字を書いて残すのもいいかもな。

 さらにトガリは、字が読めるようになれれば、お店でなにを売ってるのかもわかるし、なんか買う時も値札が読めればお金ぼったくられないで済むとか……そうか? 外の店に並んでる食い物とかは、大抵お金とか払わずにもらえるものばかりだし。それに金は今まで稼いできたものがそれなりにある、今ここで寝ているチビにも不自由はさせていない……と思う。

いや、今はそんなことじゃない、俺のことだ。それを書くんだったよな。 

……………
………
……
 そう、俺には親ってものの思い出が全くない。物心つくよりもっと前、俺は親方に買われたんだ。 
俺のいた村はひどい飢饉だったらしく、大人たちは生まれたばかりの子供を売ってどうにかしのいでいたらしかった。 

 で、俺もその一人ってわけだ。 
親方は俺を抱き上げて、身体の隅々を調べて一言「こいつなら将来いい戦士になれる」と直感したらしい。 
まぁ、この話がホントか嘘かは分からない、しかし現に俺はここまで生き残ってこれたんだ、もし生まれ故郷にそのままいたとしても、このチビの歳に行く前にはすでに飢え死にしていただろう。 

親方は、俺に戦うための術を叩き込んだ。 
訓練はすごく厳しかったことだけは覚えている、俺の身長よりもっと長くて重い鉄の棒を朝から晩まで素振りすることから始まって、日が暮れる頃にはもう立ち上がることもできないくらい、身体じゅうがガタガタになっていた。
 剣の振り方や構え方で徹底的にしごかれた、だけどきちんとメシは一日3食、しかも他の奴らよりたっぷり食わせてくれた、唯一の俺の楽しみだったのかもしれない。 
親方は事あるごとに言ってたな「戦士は身体が資本だ、だからお前にいいものを腹いっぱい食わせてあげてるんだぞ」って。そう話してる時の親方の目が、やけに優しかったのを今でも覚えている。 
だから、俺もその言葉に応えなきゃなって思い、辛い訓練の毎日を耐えた。 

 2年ほどして、親方が使い古された小さな革の胸あてと短剣を俺にくれた、これを身につけてお前はこれから仕事に行くんだって、周りの奴らが怯えた目でじっと見てた。 
仕事ってなんだ? その時の俺には全く分からなかった。 

 翌日、俺たちや何人かの人間は暗く湿った馬車に揺られて、目指す戦地に着いた。 
だだっ広い公園みたいな場所で降ろされたとき、大きな声がどこからか聞こえてきたんだ。
「向こうから向かって来た奴は手当たり次第みんな殺せ!」と。 
瞬間、周りのやつらが一気にざわついた。中には震えてるのもいた。 
相手を殺すやり方っていうのはさんざん習わされた、要はそれを実践すればいいことだろ。別に俺は怯えも胸の高鳴りもしなかった、ふんって一言うなづいただけ。やればいいだけだ、早く親方のところに帰ってメシ食いたい。
 
 そう、それが俺の生まれて初めての戦いだったんだ。これは今でもはっきりと覚えている。  
 
 その直後、雄叫びとともに敵が襲ってきたんだっけな。その声にかき消されたように、俺の記憶は消えた。  
 時間がどれくらい過ぎたかは分からなかったけれど、俺は全身血だらけになりながら、さっきと同じ馬車に揺られていた。

 馬車の中には誰もいなかった。俺一人だけ。
俺の身体もあちこち傷だらけだったが、不思議と痛みは感じなかったな……
馬車から降りる時「これがお前のだ」って、太ったおっさんが俺に革の小さな袋を投げ渡してきた。 
じゃらっ、と重いお金の音。 
俺は帰宅して、それを親方に渡した。すごく喜んでいたっけな、やっぱり俺が見込んだ通りだった。なんて言いながらな。  
 そして身体中にひっついた血を洗い落とすために、親方は近くの川に俺を投げ込んだ。 
その時、俺もいっぱい切られていたのがようやく分かった、冷たい水が傷に染みて痛む……でも大したことない、頭の中から傷の痛みを切り離せばすぐに消え失せる、そう親方に言われた言葉を思い出しながら、俺はさっさと屋根裏のベッドで寝た。 
 疲れていたのか案の定、すぐにぐっすり眠れたっけな。 
そんなことを繰り返しながら、何年もの時が流れていった。  

 そしてだんだんと分かってきたんだ、戦争のこと、俺が今いる場所のこと。 

俺たちが周りの奴らとは違う「獣人」っていう種族だってことに。

 俺が今ここで住んでて、訓練して、メシ食ってる場所。ここはどうも傭兵舎って呼ばれているみたいだ。人によってはギルドって名前で呼んでいる。俺は、ここから様々な戦場に行かされ、戦って、行きて帰れるか勝利できたら金をもらって帰る……正規の兵士じゃない、いわゆる雇われ戦士ってやつだ。そして、俺がここの一番の働き手。稼ぎ頭の扱いを受けているらしい。受け取るカネがいつも多いのはそういうことみたいだ。 
だが俺には関係のないことだ。カネなんかもらったって別に使い道があるわけじゃない、武器や鎧はいつも親方からもらうか、戦ってる最中にで拾ったり奪ったりした物を使うだけだ。それに寝るところなんてどこだって構わないし。親方にしてみれば、安上がりで高い儲けを誇っている商品。それ以上でもそれ以下でもない。今生きてることだけで満足だ。  
さらに俺自身のことだが…肉体的に秀でた種族だということだ分かってきた。いや、分かってきたというより、今までそんなこと考えてもいなかったんだ。それに、鏡で自分の姿を見たことなんてなかったしな。 

親方が以前話してくれたんだが、獣人というのは、はるか昔にこの世界を作った神様って偉い人が、四本足で歩いてる獣たちに知恵を授けて、さらに人間と同じ二本足で歩けるようにさせた種族のことらしい。  

 人間。

この世界に最初に作られた生き物がそれだとか。
あぁ、考えて見れば確かにそうだ。俺が今まで戦ってきた戦場じゃ、確かに人間って種族がいっぱいいたっけな。 
頭くらいにしか毛が生えてなくって、ひょろっとした身体つき。オマケに俺たちにいつも悪態ばかりついてくる、あいつらが人間か。 
いつもそうだった、人間たちは俺を嫌っているような、ゴミを見るような目つきで、メシ食う時もいつも離れてたり、ツバひっかけようとしていたな。  
てっきり、それは俺のことを怖がってるのかなと思ってはいたんだが、嫌っていたんだ。 
でもそんなことは関係ない、あいつらは俺らより弱い連中で、群れないと何もできない存在だしな。 
戦場で俺が食ってたメシをいきなり蹴りあげてひっくり返した人間もいたっけか。「獣人が俺たちと同じメシを食うんじゃない!」なんていきなり言うもんだから、俺は思いきりそいつの顔面を殴った。当たりどころが悪かったのか、そいつはもう二度と動くことはなかった。メシを邪魔した罰だ。当たり前だろ、って俺は思いながら。 
 
 他にもいろいろ人間たちと違うところが分かってきた。  
手足の指が人間たちのほうが細くて、しかも1本多いところとか。そして鼻や口が突き出てないし、しかも黒くない。耳も頭の左右に張り付いている感じだ、あれで聞こえるのかな、なんて時折思ったりもした。 
身体が毛に包まれてないから、すごく柔らかい。だから鎧なんかも俺らより厚そうで、しかも豪勢なものをみんな着ていた。身体じゅう重くて硬そうなやつを。あんなモン着てよく動けるな……人間っていうのは。まぁ俺たち獣人には必要ない、兜とか、靴とか全て妨げになるもんばかりだ。  

これもいつだったか…戦地で行進している時だったか、俺の足を鉄でできた硬い靴で思い切り踏んづけた人間もいたんだ。
「けっ、獣人は靴も履かせてもらえねえとはな」だなんて周りの人間どもが笑いやがるから、そいつら全員動かなくなるまで叩きのめしてやった。もうその時は戦いどころじゃなかったな。
まぁ、あとでそこの軍団長にはこっぴどく叱られたが、その答えは戦場で全部返してやった。 

 そして何年か経ち、いつしか俺には「ラッシュ」って名前が付けられていた。いや、名前じゃないか、あだ名だな。
 そう思い返してみると、俺には名前というものがなかった。いつも犬野郎だのデカブツだの毛むくじゃらだのと呼ばれていたし、親方にも「おい」としか言われてなかった。 

ラッシュって言葉には、向こう見ずとか、突進って意味があるらしい。どうやら俺の戦い方から付けられたようだ。悪くないな、けどまぁ名前が付けられたところで、俺のこの生き方が変わったわけでもないが。 
だけどそれ以降「鮮血のラッシュ」「鼻白ラッシュ」「戦鬼のラッシュ」とか、いろいろ名前が増えた。 
 
 そうそう、なんで「鼻白」って変な名前が付けられたか……これは俺が今までの間に唯一付けられた傷跡によるものらしい。 
 俺の鼻づらには、X印の大きな傷跡がある。
何年か前での戦いで、知らないうちに俺の鼻が斬られていたことがあって、それから一週間あまり、ひどく痛くってロクにメシも食えなかった。誰に付けられたんだか……記憶になかった。 
しばらくして傷は治ったが、この鼻づらに刻まれた傷跡は消えることがない。でも、いい目印に見えるなって親方は笑って言ってたっけな、この傷跡は勲章だって。
 しかし、この傷跡ができて以来、俺の嗅覚がちょっとだけ鈍った気がする。人間よりかははるかに俺らのが優れているとは聞いたが、それでも今までより、メシの匂いとかイマイチ分かりづらくなってきた気がする…  

そしてまた何年かが過ぎていって、このギルドにも、様々な獣人が来るようになってきた。親方いわく「お前の戦いっぷりのおかげだ」って言ってたっけ。 
俺と同じく耳が立っている奴、垂れている奴。様々な格好の獣人がとっかえひっかえやってきた。 
短い鼻面に大きな鼻、そして丸っこい耳な奴…獅子族とか言ってたか。そいつは別のギルドの方が給料や条件がいいと知るや、とっとと夜逃げでもするかのように消えていったな。
同じなんていっても、所詮は生きるか死ぬかの2つだ、仲良くなる気もなかった。

 でも、そんな俺を慕っているのかどうかは知らないが、仲間っぽい存在が二人出きた。  

一人はトガリモグラ族とかいう小さくこげ茶色の肌をしたやつだ。 
手には鋭く長い爪が伸びてて、こりゃちょっとは役に立つかなと思って親方が拾ってきたらしい。ところがこいつは血をみるなり、俺の前でいきなり失神しちまった。さらにこいつと話してみて初めてわかったんだが、ひどく訛りが強い。本人が言うには仲間はみんなこんな感じだって言うが……ちゃんとしゃべれって何回殴ったか、もう数え切れないくらいだ。 
使えないやつだって親方も手を焼いてたが、だけどこいつは唯一、すごい特技があった。
メシを作らせると絶品だってことだ。ちょうどここのメシ当番が辞めてしまい、今後のメシはどうしようかと親方が思いあぐねていた時に、こいつはすぐに手を上げて「ぼぼぼ僕、りり料理、ででできます!」って例の口調で言ってきた。 
 試しに厨房に入れて適当な食材を与えたら、両手に生えた長い爪を見事に駆使して作っちまった。
 鶏のトマトシチュー……一口食った直後、親方は即言った「お前、今日からここのコックになれ」ってな。 
 以来トガリは、一人でこのギルドの食事を切り盛りしている。相変わらず俺をイライラさせるしゃべりっぷりは治らないが、だがどんな奴にもすごい特技のひとつくらいはあるもんなんだな、なんて感心した。俺も、親方も。 

 もう一人は、ジールっていうネコ族の女だ。 
そして俺が初めて知った、女というまた別の種族…でもある。
折れそうなくらい長く細い手足に、ふわりと長い栗色の髪の毛、丸みを帯びた耳。 
親方が言うには、こいつはすばしっこくて戦場じゃいろいろ役に立っているらしい。要は見えないように敵陣で情報をつかむとか。って裏方の仕事みたいだ。俺みたいに剣を振り回すのはちょっと苦手らしいが、そのかわり音を立てずに走ったり、物陰で気配を隠したりする特技があるそうだ。 
あと、投げナイフ。  
この仕事を知る前には、サーカス団でナイフ投げをしていたらしい。とはいってもサーカスなんて見たこともない、見世物の一種だ、いつか見せてやると親方は言ってた。  

そうそう、ジールのやつ、妙に俺に興味があるらしく、事あるごとに俺に話しかけてきた。正直うざったい気もしたが、俺も嫌々ながら話したさ。 
でも、俺には前にも言ったとおり、会話するほどの話題なんてない、それに周りの世界も知らない。それを少しづつジールに聞かせてやると、あいつは突然、悲しそうな目をして言ってきたんだ。
「ラッシュ、あなた一生それでいいの?」って。 
俺は普通に首を縦に振った。そしたらジールは俺の手を引っ張って、夜の街へ連れだしていったんだ。 
仕事のない時に時々ぶらついて、店先に並んでいるりんごを買ってくくらいしか縁のなかったこの街に。しかも昼間のざわつきとは打って変わって、閉まっていると思われていた店には色とりどりの明かりが灯されていて、たくさんの人間が、でっかいコップを片手に騒ぎまくったり、踊ったりしている。

「一杯おごってあげる、お酒ってわかる? 飲んだことある?」ってジールは擦り寄りながら俺に言った。
 その時見せた顔が、夜の明かりに照らされてすごく喜んでいたのが印象的だったな。
それに、丸い瞳がいつもより大きくって。初めて俺は「かわいい」って感情を知った。 

 ジールは突き当りのこじんまりとした店に入り、お酒ってやつを手にした。なるほど、さっきから他の店で人間たちが飲んでたやつって、これのことか、変な匂いするな、なんて思いながら、俺は一気にそれを飲み干した。
……飲んでいった部分が次々に火の中にさらさせるような、そんな奇妙な熱さが胃袋にまで届いてった。しばらくすると天井がぐるっと回転しだし、まるで頭の中にまで心臓が動いちまったかのような……激しいドキドキ、まるで、初めて戦場へ赴いた時のような、いや、あん時は別に心臓はこんな動かなかったな、なんて思ってたら、胃袋がひっくり返った感覚が一気に襲ってきやがった。
路地裏でジールは俺の背中をさすりながら「う~ん。もうちょっとお酒強かったらね…いいお付き合いできたんだけど」なんてため息混じりに、残念そうに話してたな。

 くそっ、もうこんな変なもん飲むもんか、って心の奥で誓いながら、俺は胃袋の中のもんを全部吐いた。

2話

ジールが夜に言ってた「一生それでいいの?」の意味が全然分からないまま、今度はガンガンとくる頭痛に悩まされて……いつのまにか寝ていた。  
ギルドの連中は「酒飲みゃイヤなことはみんな忘れられるぞ」と同じ事ばかり言いやがる。
くそっ、あんな気持ち悪いモン、もう二度と飲まないって俺はもう決心した。  
ガリは血がダメなように、俺にもダメなものが分かった。そう、酒だ。くだらねえ、好きなやつらは勝手に飲んで浮かれてろ。 
 
しかし……本当に分からねえ。「それ」って一体何のことなのか。
それ以来頭の中に晴れない霧のようなモヤッとしたものが出来た気がする。
ジールはあれからまったく姿を見せていない。何でも隣の国へなんかを探りに行く仕事だからっていう話だ。しばらくは会えないだろうと親方は話していた。
だから俺は「それ」を忘れようと仕事で暴れまくった。相変わらず何人殺したか分からないほどに。 
ガリには「最近イライラしっぱなしだね」と言われたりしたが、こいつの場合は一発殴って黙らせればいつも通り済むことだ。  
そんな毎日が続いているうち、いつもは一週間に2.3回はあった仕事が、一週間に一回、半月に一回と、だんだん減ってきていることに気が付いた。  
親方になぜかと聞いたら「戦争が終わりに近づいてきている」と、ボソッと元気のない一言だけ呟いて、後はずっと窓の外ばかり眺めてた。  
そういえば、ここんところ親方の背が、なんか小さくなってきたように感じられて、髪も白くなってきて、そして口数も、覇気もなくなっちまった。  
周りの奴らは、年齢のせいだとか、戦争が生きがいだったからなど口々に言う……
年齢ってなんだよ、生きがいってなんなんだよ。あの時みたいに、俺を訓練で毎日のように殴り倒して、でもメシの時はいつもメシを大盛りよそってくれて、事あるごとに「お前は最高だ」って笑顔で言ってくれたあの親方が、なんでこんなに静かに、腑抜けたようにになっちまうんだ……

そんなある日、俺は親方の家に呼び出された。  
親方の住んでいる家は、俺たちがいるギルドの兵舎からは少し離れたところにある。 
そこからいつも兵舎にきて、みんなを訓練したり、依頼の内容を話したりする。だから俺たちは基本的に、親方の家には行くことが無い。俺もここに来てから、まだ数回くらいしか入ったことがないし。それに行く必要もなかったから。だが俺としては、この家というか、親方がいる部屋があんまり好きじゃなかった。理由は入ってみればすぐに分かることだ、特に俺ら獣人には。  

訳の分からない葉っぱや花のような彫刻が施された、重く厚い木のドアを開ける……
どういう趣味かはわからないが、これが親方のいつもいる、書斎って名前の部屋だ。  
直後、むわっと俺の鼻の奥へ、様々な花が入り混じったお香の匂いが拡がってきた。どっかの国から取り寄せてきた、高級なお香だとは聞いていたが……俺たち獣人の嗅覚にはかなりキツい。いくら俺の鼻がちょっと鈍ってはいるとはいえ、ずっとここに留まっていると頭痛がしてくるくらいだ。  
あと、床を覆っているジュウタンとか言う敷物、こいつはもっと嫌いだ。  
親方の部屋に敷き詰められているジュウタンってやつは毛が長くて、ふわふわしやがってとても歩きづらい。おまけに足の裏や、指の間にもぞもぞ入ってきてくすぐったいのなんのって……
以前にも話したが、俺たち獣人は靴なんか履かない。人間どもの足がヤワすぎるんだ。とは言っても俺たちの足の裏が奴らに比べて頑丈…とは言い難いが、何日間も石だらけの荒れた道を歩き続ければ、足の裏に血マメだって作るし、尖った石を踏んずけりゃ飛びあがるくらい痛い。しかし石畳の上や戦場の血に濡れた地面を走り慣れている俺には、この感触は、それ以上に気持ち悪い。  
それを我慢しながら、親方の座っている豪勢なテーブルのところまで行くと、親方は寂しそうな笑顔を浮かべながら、俺に小さな革の袋を渡してきた。
いつも親方にお金を渡す方なのに、今日はなんでまた…? 
しかも、普通なら金貨や銀貨のジャラっという重い音がするのに、この革袋からは、ザラリとした違う音が響いてくる。  
俺の手のひらにちょこんと乗っかるくらいの小さなその袋の中には、きらきら光る小さな石が、たくさん入っていた。 
これ…確か宝石って言うんだっけか。カネよりか価値が高くって、なおかつジールみたいな女性に渡すと、すごく喜ばれるって聞いたことがある。  
だけど、なんでこれを俺に……?
親方に思い切ってそれを訪ねてみた。
「お前は今までずっとよく働いてくれたからな。これは俺からの小遣いだ、好きに使っていいぞ」
「今まで……? 今までって一体どういう意味だよ? 俺はこれからもまだずっと働いてくぜ、親方のためならな」 
だけど俺のその言葉に反して、親方はゆっくり首を左右に振った。
「いや、もうすぐ終わるかも知れねえんだ、長かったこの戦争がな。だからこいつはある意味餞別の金かも知れんか……その宝石は小さい粒ばっかだが値打ちモンだ。そんだけありゃあ酒場や宿屋くらいならすぐに建てられる。だからこの金で、お前は自由に生きろ」

……自由? 自由ってなんだ? はじめて聞く言葉だ。

「そうか、自由なんてお前にゃ全く縁が無かったことかもな。まぁいい機会だ。ついでだからその答えをおまえ自身で見つけてみろ。こいつは俺からの宿題だ。でもお前のバカな頭じゃ、そう簡単には見つけられないかもな」 
そう言って、親方は大口を開けてガハハと笑った。すごく弱々しかったけど、久々に親方のでっかい笑いが見られて嬉しかった。自由の意味なんて、笑い顔を見たらもうどうでもよくなってきた。 

……しかし正直言って、俺にはこの宝石を何に使っていいかが全く分からない。だからとりあえず二番目に世話になっているトガリに、宝石1個だけ手元に残し、あとは全部奴にくれてやった。今までぶん殴ったお詫びってことで。 
ガリの野郎びっくりして「ここここんなのぼぼぼぼぼ僕どどどどどどどうしたらいいいいいいかわわわわわ分からないよ!ここここれってたたた大金だよ!」っていつも以上に騒ぎ立てやがったから、いつも通り一発殴って黙らせてやった。 

さて…残ったこの宝石1個。どうしようか、なんか市場で買い物でもするか。なんて思いながら、いつもリンゴをもらっている果物売りのおばさんに、これやるからリンゴくれと言ったら、いきなり腰を抜かしやがった。 
しかたない、いつも通りリンゴを1個だけもらっていった。  

……困った。何が俺に必要なのか、さっぱり分からない。家といっても今の場所で満足しているし、服は…もう半年以上着たまんまだが、別に問題無い。  
ちょっと前だったか、戦地で他の連中に「ラッシュってすごく臭くねぇか?」っていきなり言われたもんだから、ついカッとなってそいつを叩きのめしたことがあったな。俺の鼻には別に何も感じちゃいない、お前らの鼻が変なんじゃないかって最後に言ったさ。まぁ、俺が変に思わなきゃそれでいいじゃねえか。いちいち口を出すなってあの時思ったっけ。 

……となると、あそこしかないか。  

俺が足を運んだ先……それは武器屋だ。 
よくよく考えてみたら、俺は自分専用の武器ってやつを、今まで一度も持ったことがなかった。だからこの宝石で、俺の使いやすい最高で最強の武器を作ってもらおうか、ってふと思ったんだ。  

はじめて入る武器屋……案の定、店のオヤジは人間たち同様、獣人の俺を値踏みするような目でジロジロ見てきやがった。
だが持っていた宝石をポイと投げ渡すと、たちまち態度を一変させやがった。所詮人間なんてそんなもんか。
「その宝石をやるから、俺に見合った武器をくれ」ってな。
だがオヤジは、お前のような獣人の使える武器となると、最初っからオーダーして作ったほうがいいと言ってきたんだ。
俺らみたいな獣人の力に耐えられる強度の金属が今ここにない。ってことで。
だから鉱山まで行って最高の鉄を採ってきてやる、それまで、1か月待ってくれ、立派なのを作り上げてやると。  
オヤジの言葉を信じ、俺は店の壁にたくさん立てかけてあるいろいろな武器を手にし、手に一番合う武器を試してみた。  
両手剣、槍、弓矢、カナヅチ……  
その中で一番しっくりと来たのが、斧だった。そうだ、俺の身長くらいの、長くて、大きくて、重くて、そして切れ味が鋭い斧だ! 
俺の山のような注文を、オヤジは分厚い帳簿に書き取っていた。残念ながら俺は字が読めなかったんで、何が書いてあるのかさっぱり分からなかったけどな。  

…そして、大した仕事もないまま一か月が経とうとしていた。  
俺はあの武器屋へ出向くと、オヤジは気持ち悪いくらいにニタニタと笑みを浮かべて、お望み通りのものができたって言ってくれた。 
店の奥……棺桶みたいな大きな木の箱に入っていたそれ。
中を開けると、白い布に包まれた、巨大な一振りの両刃の大斧が入っていた。 
白銀色に輝く太い柄の先に、同様に白く輝く2つの刃。そしてずっしりと重い。
オヤジ曰く、あまりに重くて馬車でないと運べなかったそうだ。 
さらには、この大斧を背中にしっかりと固定するための厚い革製の鞘もあつらえてくれた。しかしこれでも金が余るというから、俺は壁に掛けてある一本の大きなナイフを取り、これで十分だと言って店を出て行った。
こんなデカい斧、店じゃ振り回せないしな。  

帰り道は胸が高鳴った。生まれて初めての、俺専用の武器がこの手にあるんだから! 
俺はさっそく、この大斧を見せに行こうと親方の家へと走っていった。 
……が、そこには今まであったこともないたくさんの人間の連中が、親方の家の玄関に集まっていたんだ。  
なんなんだ一体。祭りでも始まるのか、と思いながら俺は、一番手前にいた黒い服を着たひときわ体格のいいおっさんに聞いてみた。親方の家に一体何で集まっているんだ…ってね。 
そしたら、そいつはその体格に似合わないくらいの小さな声で、ぽつりつぶやいたんだ。


……親方が死んだって。

他の奴らにも同じことを聞いてみた。 どうやら親方の死因は老衰だということらしい。  
老衰ってなんだ? ああそうか、殺さなくても死んでしまう病気のようなもんか。だなんて思いながらも、俺はそいつらを押しのけ、親方のいる部屋へと走っていった。  

……静かだ。夜以上に。
いや、戦いが始まる時以上にひっそりとした部屋の奥のベッドに、親方は寝ていた。 
すごく小さく、肉のない骨だけのような身体で。 
俺は周りの人間に、一人にしてくれと頼んだ。親方にたくさん言いたいことがあったから。 
しばらくしてみんな消え、親方と二人っきりだけになれた。  
俺は仕立てあがったばかりの大斧を持ち、親方の前でブン!と大きく振った。
「親方、どうだいこいつ、カッコいいだろ。この前もらった宝石で、武器屋のオヤジに作ってもらったんだ。生まれて初めての俺専用の武器だ。誰にも使わせねえぜ。今度からこれ持って戦いに行くんだ。この斧さえありゃあもっともっと相手をぶった切ることができるぜ。今まで以上に戦果を上げられる。だからさ、いっぱい仕事を仕入れてくれよ、な、親方」 
……だけど、親方の目は落ちくぼんだ穴の奥で閉じたままだった。 
手を取り握ってみる。寒い日に降る雪より、ずっと、ずっと冷たい。
「なんでこんなに冷たい手してるんだよ、慣れない水仕事でもしてたのかよ、じゃなきゃこんなに冷たくなるわけねえよな、親方の手のひらは…こう、大きくって、ゴツゴツ固くって、それに火山みたいにいつも熱かったじゃねえか。そうだろ? なんか言ってくれよ親方。血も流れてないのに、斬られてもいないのに死ぬわけなんかないだろ。老衰? ンなモン知るか。いつもみたいに「俺がそう簡単に死ぬか、ボケナス」って言ってくれよ。なんだったらここでさ、昔みたいに俺をゲンコツで殴り飛ばしてくれて構わないよ。痛けりゃ痛いほどいいよ。木に逆さに吊るしたっていいよ。川にほっぽり投げてくれたっていいよ。だからさ、いまからいっしょにいっぱいめしくおうよ。ねえおやかた、なんかしゃべってよ。だまってちゃいやだよ、だからおきてよ、きらいなふろもこれからいつもはいるからさ、おまえはさいこうのせんしだって、おまえはおれがうんださいこうのせんしだって、いつもいつもいってくれたじゃないか。またおれにどなってよ、ねえおやかた、おやかたがいなくなったらおれこまるよ、これからどうすればいいんだよ、おれひとりぼっちじゃいやだよ、さびしいよ、だから、だから、だからめをあけてよ、おやかた。ねえ、はやくおきてよ!」 

……俺の目からたくさんの何かが流れ出てきた。  
手で拭ってみると……やっぱり水だ。なめてみるととっても塩辛い……
煮詰まったトガリのスープのクソまずい味みてえだ。なんなんだよ、これ……  
そんな水が、延々と目からあふれ出てきて止まらなかった…… 

そして、俺は吠えた。身体が張り裂けるくらいに大きく。 

翌日、親方の身体は墓に埋められた。
上にはこれでもかというくらいデカい石碑が乗っかっている。
相変わらずなんて書いてあるのかは分からないが、もう親方は戻ってこないって、ようやく俺はそれを見て分かってきた。 

親方が埋められた次の日から、俺はそれを忘れようと、毎日一心不乱に大斧を素振りしていた。しかしそれでも仕事は来ることはなく、ヒマを持て余していた。
そんな矢先のことだ。最近ここへ来た新入りが、驚きの顔で俺の部屋へと飛び込んできたんだ。
「おいラッシュ喜べ! 仕事だ! 俺たちに仕事が入ってきたぜ!」
「どんな仕事だ、内容と場所は?」
久々とも言える仕事の依頼に胸は高鳴ったが、あえて俺は冷静に問いただした。
そいつは手にしていた依頼書に目を通しながら、一言「えっと、掃除だってさ…」って呆けた顔で答えた。
「掃除」… 正直、俺らの受けるの仕事の中じゃ一番避けたいものの一つだ。
しかし全く仕事の入ってこない今となっては、こういう仕事も受けざるを得ないところまで俺たちは切羽詰まっていた。 

そして、この一件が、俺の今後を…さらには頭の中のモヤモヤを、そして親方が言った答えを、少しずつ晴らしてくれることになるとは、この時はまだ全く分からなかった。

3話

 今回の仕事…それは俺たち獣人連中でもかなり嫌がられている、通称「掃除」ってやつだ。 
 しかし掃除とは言ってもどっかの家や屋敷を綺麗にする仕事じゃない。もっともっと面倒で、不潔で、危険で、おまけに得られる報酬もごくわずかという最低最悪の部類だ。 
 でも、終戦という噂が俺達のいる街中でもかなり伝わっているさなか、俺たち傭兵が駆り出されるくらいの大規模の戦争はほとんど無くなってきているのが現状。 それに親方が死んで以降、ギルド長を失った俺たちはもう誰に頼っていいのかすらわからない。いつ解散されてもおかしくない今の状況の中で、こういう仕事が舞い込んでくるだけ、まだ少しは救いがあるのかもしれない。 
 そうそう、掃除のことだったか。この仕事はいわゆる戦場の後片付けのことをいう。 
 大きな戦いが終った後に、戦場に打ち捨てられた武器なんかを拾い集めることが、いつしか掃除と言われるようになったらしい。
 しかも内容によっては、死体をまとめて埋めたり、その場で焼き捨てるような片付けもあれば、ただ単に鉄クズを拾い集めたりと言った簡単なことまで、色んな種類がある。 
 ここ最近は掃除を横取りする盗賊まがいの奴らもいれば、死んだ兵士を蘇らせる奴も出てきたって冗談みたいな噂も流れてきた。まあどっちにしろ俺はそんなもんは信じない。もし仮にいたとしても、俺を邪魔する奴はみんなぶっ殺すだけだ。

「なあ、死んだ奴ってどうやったら生き返るんだ?」 「うーん……私に聞かれましても、こればかりは実際に見てみないと分からないですねえ」 
 目的地へと向かいつつある馬車の中で、俺はギルドに入ってきた新入りのルースってやつに尋ねてみた。 
 よくよく考えてみたら、死んでる奴が生き返ったとしても、そいつらは元通りの人間なのかどうかすら分からない。だとしたらどうやって倒すのか……なんて疑問が俺の頭の中に湧いてきたから。 
 ルースはトガリと同じくらいの小さな背丈に、ひょろ長い身体をしているイタチ族とかいう種だそうだ。
 しかもこいつの身体はほぼ真っ白な毛に包まれている。わずかに手足の先が黒いくらいだ。 
 さらに驚いたのが、こいつが得意としている稼業は「調合師」。
 要は毒とか薬を作る仕事なんだそうだが…… 以前はこの小さな身体を活かして暗殺の仕事も幾度かやっていたらしいが、生まれつきのこの純白の毛が災いし、相手に見つけられることもかなり多かったとのこと、だから今は暗殺に使う毒造りに転職し、軍や貴族相手に売りさばいていると本人は言っていた。
「一口に毒と言っても実に多種多様なんですよ。まずメジャーなのは香水やお酒なんかに混ぜる水溶性。料理に振りかける粉末のものなんかもあります、あと特殊なものとしましては、教会にあるお香と一緒に燃やすことによって毒の煙を発生させ、それを相手に吸わせるタイプの毒もあるんです。あ、そうそう、塗るタイプのものは古来から暗殺業で結構使われてますよね、僕も今ナイフに塗ってますし、ラッシュさんも使ってみますか?」
「いや…遠慮しとく……」
 俺の目の前に出されたそれ。小さな試験管に入っている青緑色のその毒液は、色といいドロッとした粘度といい、風邪をひいたときの鼻水そっくりだった。 
 今のところ俺の斧はまだ一度も敵に対して振るわれていない、というか、まだ戦いで使ってもいない。さらにこんな鼻水みたいなものを刃に塗られて、錆びたり切れ味が落ちたりでもしたら散々だ。 
 しかしとにかくこいつ、毒のことを語りだすと饒舌になって、一向に黙る気配を見せない。トガリの例の口調も結構イライラするが、こいつみたいなのもかなり苦手だ。 
 いつもだったら一発殴って黙らせれば済むことなんだが。骨太なトガリと比べるとかなり華奢な身体つきなので、おそらく殴ったら死ぬんじゃないかと思う…ガマンガマン。

「そうそう、効果や効力なんかも成分の調節によって無限に近いバリエーションが出せますよ。最初は軽い風邪と思わせておいて、だんだん症状を重篤にする遅効性や、体内に吸収された瞬間に全身の穴という穴から血を吹き出して、惨たらしく華麗な死に様を回りに魅せつける即効性。これなんかも芸術の域に達してますからね~、オススメです! あ、ラッシュさんはもうお仲間ですし、もし気に入らない方やすぐに殺したい人がいましたら、ぜひ私にこっそりご相談くださいね。初回一人は無料でお望みの死を提供して差し上げますから。なあに、遠慮なんていりませんから」
 もし最初にその毒で殺すやつがいるとしたら、俺はお前を殺したいんだけどな。 というイライラをぐっと腹の奥で押さえ込みながら、馬車が目的地へと到着した。
 もし最初にその毒で殺すやつがいるとしたら、俺はお前を殺したいんだけどな。
 というイライラをぐっと腹の奥で押さえ込みながら、馬車が目的地へと到着した。
 
 ルースだけじゃない、親方の死後、数名の獣人がこのギルドを頼って入ってきた。 
 一人はゲイルといって、以前他のギルドのほうが待遇がいいからって逃げた獅子族のやつだ。そいつが言うには、他の傭兵ギルドも解体させられたか縮小を余儀なくさせられたとかで、居場所がなくなってまたここに戻ってきたそうだ。  
 しかしこいつは俺のとこで以前逃げ出した前科がある、よくもまあ平気な顔して戻ってこれたもんだな、と俺は一発顔面を殴り飛ばしてやった。 でもひたすら頼み込むので俺は勝手にしろと言って許してやった。だけど、今度逃げたら容赦しねえぞと釘を差しておいたけどな。  
 その他にも何人か加わってきたんだが、正直戦いに適した人材には見えない。おおかた職探しがてら入ってきたんだろう。名前すらもう忘れた。

 馬車から降りた時、ふと天井から、トンと小さく蹴るような音が聞こえた。 
 音もなく俺たちの目の前に着地してきたのは、見慣れた姿……ジールだった。
「お久しぶり、元気にしてた?」 「うっわー! お久しぶりですジールさん!」 真っ先に答えてきたのは俺じゃなく、ルースの方だった。しかもいきなりジャンプしてジールに抱きついてきやがったし。いったい何なんだこいつは。  
 ジールが言うには、仕事が終わって帰路につく途中、俺たちの馬車を発見したらしい。でもって屋根に飛び移ってずっと揺られてきたそうだ。全然分からなかったな。
 だけどなんで、俺たちが馬車に乗ってるってわかったんだ…? でもそんなことはどうでもいい、ジールには話したいことが山ほどある。 
 親方が死んだこと、戦争が終わりつつあること、そしてあの時の言葉の意味を。
「うん。聞いたよ、おやっさん、ここんとこだいぶ身体弱ってたしね……」 親方のことを話すと、ジールは寂しそうな顔で遠くを見つめていた。
「以前いたサーカス団が火事でダメになっちゃった時にね、そこの団長がおやっさんと旧知の仲らしくて、それ経由でとあるギルドの人があたしを買ってくれたんだ」 
 ジールはあまり自分のことを話したことがなかった。サーカス団に拾われてナイフ投げの腕を磨いたことくらいしか俺は知らなかったし。
「そうそう、ルースとは結構古い仲なんだ、こいつ毒薬のプロフェッショナルでしょ、だから任務で一緒に組んだりとかけっこうあるしね」小さなルースを抱え上げ、ジールは明るく話し始めた。
 そうだな、湿っぽい話はまた今度にでもするか。
「ルースはこういう毛の色でしょ、だから暗殺の仕事とかはそこそこだけど、間接的な数を加えると、たぶんあんたと同じくらい人を殺してるよ」
「いやだなあジールさん、僕の功績なんてラッシュさんほどじゃないですから」  
 しかし、ほんとに仲いいなこの二人。
「ついたあだ名が《冬毛の堕天使》だからね、ラッシュもあんまり彼を怒らせないほうがいいよ」  
 冬毛はわかるがなにが堕天使なんだ。つーか堕天使ってどういう意味だと俺は悩んだ。難しい言葉を出されるのは苦手なんだよな。
「戦場での二つ名が数多くあるラッシュさんと違って、僕は一つだけですし…まだまだですよ」 ルースは照れくさそうに頭をポリポリかいている、だが俺にそんなに二つ名ってあっただろうか。俺は思い切って二人に聞いてみた。
「赤黒毛のラッシュに白鼻のラッシュでしょ、いや、鼻白だったかな」 「戦鬼と共食い、血煙とも言われてましたよ、それと獣臭のラッシュって」 「あー、獣臭は仲間内で言われてたんじゃなかったかな、ラッシュは風呂嫌いだからね、今日も相変わらず汗臭いし」 ジールが鼻をつまんで手をパタパタさせてきた、オーバーなんだよ全く。
「そうそう、確かに。ラッシュさん結構臭いますもんね。ここまで臭いとジールさんにも嫌われちゃいま…」 
 俺は我慢できずにルースの頭を一発殴りつけた。これでこいつも黙るだろう。 
「な、殴るってことは全部認めたってことに…ラッシュさ…ん」  頭を押さえてうずくまるルースをよそに、俺たちは目的地である戦場の跡地へと足を進めた。

 ここから先はかなり道が荒れている。馬車から降りて歩いて行ったほうが手っ取り早い。  
 それに、さっきっから妙に焦げ臭さが鼻をつく。
 今回の依頼をしてきた軍の人間は、もう一週間前に撤退をしたと聞いたんだが……この臭いはまだかなり新しい。 
 ちなみに、掃除の仕事自体に報酬はない。代わりに回収してきたモノーいわゆる戦場の落とし物ーが、ほぼ俺たちのものになるって寸法だ。
 鍛冶屋に拾った武具を持って行って換金してもらう。しかしそんなものを集めたところで大した額になるわけがない。だから掃除仕事は嫌われているんだ。親方なんていつもこの仕事を突っぱねていたしな。 

 そうだ、親方が掃除が大嫌いなのには、金にならない他にもう一つ大きな理由がある。
 はじめて親方の身体を見たときだったか……左足が無かったんだ。ひざから下が。 杖こそついていなかったけど、いつも歩くのがぎこちなかったのを覚えている。
 木製の義足をつけて、それに靴を履かせていたんだっけ。だからはた目から見てもあまり違和感がなかった。歩かなければ……な。 
 最初、親方は「戦いのさなかにぶった切られたんだ、まあ名誉の負傷ってやつだな」なんて言ってガハハと笑って答えていたけど、後になって他のギルドの奴らから聞かされた答えは、全く違っていた。 
 親方はあんまり自分の過去を話さなかった。 だけどはち切れそうなくらいの筋骨隆々なその身体には、数えきれないほどの深い刀傷が刻まれていたのを見たことがある。 
 そいつらが言うには、全盛期の親方は岩石みたいな身体つきで、右手に斧、左手に大鎚を持って戦場で暴れまくっていたそうだ。その姿に敵からは「鬼砕きのガンデ」と恐れられていたらしい。  
 そうそう、ガンデって言うのは親方の本名だからな。俺は結局一度も名前でなんて呼ばなかったけど。だけど、それほどまでに強かった親方がなんで……? それ以上に強大な戦士と戦って足を切り落とされたのか、それとも馬車に轢かれたのか……なんて思ったりもしたんだが。 
 結局のところ、親方は「掃除」で負傷したことがきっかけで左足を失ったそうだ。 無論俺はその時聞いて「ウソだ!」って思った。 しかしそれ以降、仕事で戦地に赴くたびに他の人間にも聞いてみたんだが、やっぱり答えは同じ。  
 俺が親方に拾われる数年位前のこと。相手方の国と少しの間休戦条約が結ばれていたらしい。俺と同じく傭兵として生活していた親方も、仕方なく掃除を含めた雑用で日銭を稼いでいたそうだ。その掃除の際、戦場に散乱していた槍か何かの切っ先を、親方は誤って踏み抜いちまったらしい。身体にたくさん刀傷がある親方のことだ、こんな傷大したことないって言うんで、家にさっさと帰って酒を消毒薬代わりにぶっかけて寝ちまった……
 しかしその翌日、踏み抜いた足のひざから下が、酒樽みたいに腫れ上がってしまい、さらにお湯が沸くほどの高熱を出してしまったんで、親方の友人たちは大急ぎで医者を連れてきた。  
 親方の様態を見るなりその医者は、持っていたナタで親方の腫れた足を即座に切り落としたんだ。もう少し遅かったら、腐った血が全身に回って死んでたぞ……って。 
 それ以降親方は傭兵の仕事をやめて、逆に傭兵を雇う仕事にまわったんだとか。その結果がこれだ。 あちこちで傭兵として使えそうな人材を集めて、一人前に鍛え上げて…って養成所も兼ねて。そして今に至っている。  
 まあ確かに、そんな事故が無けりゃ親方はまだまだ凄腕の戦士でいたかもしれない。しかし逆にその事故があったからこそ、後々の激しい戦争で命を落とすこともなくなり。そして、この俺が拾われた…なんて思うと、出会いってどこでどう変わってしまうのかなんてちょっとした運命を俺でさえ感じずにはいられない。

 そう、これから始まるあの出会いも、また親方の代から続いてきた運命の一つであったかも知れない……ってわけだ。 

「ラッシュさん、ラッシュさーん!」 後ろから、ルースの小さな足音と声が近づいてきた。
「臭いませんか?」 追いつくなり唐突なその一言。俺はまたカチンときた、今度は殺されたいのか⁉︎
「いやいやいや違いますってば! ラッシュさんのことじゃなくって、なんかここ一体焦げ臭くないですか?」俺の睨みに焦ったルースは、必死に首を左右にブンブンと振って否定した。
「ンなこと分かってる、行くぞ」

 だが、俺がそう言って着いた時には、もはやその場所には焦げた草くらいしか残されてはいなかった。 
 やや遅れたゲイルが、地面に残された形跡らしきものを調べている。 そっか、あいつ確かここに来る前は狩りで生活してたって言ってたな。足跡から推測できるんだっけか。
「靴の足跡だ。要は人間連中の盗賊団ってとこかな……人数は5人。地面の乾き具合からして、まだ半日程度か」 ゲイルが淡々と俺に説明を始めた。というかまだこいつ、俺に怯えている感じすらするが。 
 ふと、空を見上げてみる。鉛色の雲が立ち込め、遠くから雷の音がゴロゴロと鳴ってきた。こりゃ嵐が来るな。万が一のことを考えて、ジールは馬車に待機させてある。あいつは剣の腕はそこそこ立つんだが、それ以上に投げナイフの腕は抜群だ。もし待ち伏せしてた盗賊連中が何十人でも沸いてこない限りは、あいつ一人でなんとかなる。 とりあえず、この場所での宝探しはゲイルと遅れてきた連中に任せ、俺とルースこの先にあるだろうと思われる、キナ臭さの発生元へと向かった。

「なーんかありそうですよね、ほら、聞いた話によるとドラゴンって種類によっては火とか酸とか吐いてくるらしいですね。もしかするとこのキナ臭さはドラゴンが襲ってきたとか……それにこの雷の音もドラゴンの咆哮かも知れないじゃないですか。そうなると私たちだけじゃ対処しきれないですよ」
「心配ねえ。俺にはこれがある」 ルースの相変わらずの長ったらしさに一言、俺は大斧を指して答えた。 

 焼け焦げた臭いのする方角へと10分ばかり走り続けただろうか、俺たちが着いた場所……それは焼け落ちた小さな村の跡だった。足元を見ると、かなりの数の足跡が残っている。ここは人間の住む村だったのだろう。
「目と鼻の先で戦いがあったのにもかかわらず、まだこの場所に残りたい人はいたわけですね……でもって運悪く、おこぼれを狙いに来た連中に見つかり、略奪され、証拠隠滅のために燃やされた……誰だってそんなこと推理できますが。まあこんなこと考えてたって、ここじゃ全然意味なんてないですけど」 焦げた柱に手を置きながら、ルースはぽつりぽつりと俺に話した。 おそらくその推理で間違いはないだろう。だがこんな間近で大きな戦いがあったというのに、この場を離れたくなかった奴なんているのだろうか? わざわざ死ぬようなもんだぞ。
「盗賊たちはもうおそらくいないとは思いますが、念のためです、偵察だけでも簡単にしてみましょうか。曲がりなりにも私たちの商売敵ですからね」 
 そうだな、確かにこんな地図にも載ってないほどの小さな村、潰されたことなんて正直俺たちにはどうだってかまわない。問題は俺らのなけなしの仕事…いや、収入源を根こそぎかっさらっていったクソな連中どもだ。いたら皆殺しにしてやる。というか、いない可能性の方が大なんだけどな。

 一回りするのに10分とかからない規模の村だ、それに家のほとんどはもう焼け落ちている。 俺とルースは二手に分かれて、それぞれ探索を始めることにした。嵐も徐々に近づいてきている、手早く済ませないとな……なんて思い、数少ない残された家を順に探していく。 
 しかし見事に何も残ってはいなかった。割れた食器が散乱しているくらいだ。
 
 だが……ふと、雷の音に混じって、誰かが呼んでいるような声が聞こえてきた。 ルースか? いやもっと遠くのような、近くのようなあいまいな場所。ここからじゃイマイチわからない。 
 外へ出て耳を澄ませる。話し声でもない、叫んでいるかのような声が、向かいの家から聞こえてきた。
 罠かも知れない、と思い俺は背中の斧に手をかけた。 いつでも抜ける体勢。一歩一歩ゆっくりと足を進めていく…… 

 その時、俺の足にぬるっとした触感がした。 下に目をやると、おびただしい量の血が地面に広がっている。 それが引きずられるように、問題の家へと続いていた。血はまだそれほど凝固していない。 
 ケガ人でもいて、そいつがうめいているのか? いや違う、もっと泣きわめいているかのような声にすら感じられてきた。 
 壊れかかった家のドアを蹴り破って、俺は声のする家へと足を踏み入れた。 
 中はかなり暗いが、俺たちはそもそも夜目の方が効く。これくらいなんてことない。
 突然、ドン! と大きな雷が家の近くに落ちてきた。大きな衝撃が家中に響き渡る。 
 その時、暗闇の中の、俺の目の前に映し出されたもの……

 人間だ。

ラッシュ 子を拾う

1話

 人間だ。

 

 人間の子供…いや、ルースやトガリよりもっと小さい子供が、俺の前で泣きじゃくっていた。

 暗闇に慣れた俺の目の前に、小さな、小さな人間の子供が座り込んでいる。それも頭の中がキンキンするくらいの大声で泣きながらだ。
 周りを見渡してみるが、ここは家じゃない。小屋だ、おそらく小さな物置小屋か何かだろう。しかしもう中には何も残されちゃいない。

 そして子供のそばに、うつぶせで倒れている人間が一人。
 背中には何本もの矢が深々と突き刺さっていて、こいつを中心に大きな血だまりができている。
 …案の定、脈は無い。氷のように冷たくなっていた。

 つまりは、さっきルースが言ってた、この廃村に最後まで残ってた人間ってことか。

「おい」俺はこの子供…いや、チビに話しかけてみた。

 だが、チビは変わらず泣くことをやめない。というかさっき以上に鳴き声がデカくなってきてるし!
「泣くのやめろ!!!」
 俺はたまらず、チビに一喝してしまった。正直こういう場合どう言い聞かせていいか分からない。
 いつもみたいに一発殴れば楽に終わらすことできるんだが、相手は石頭のトガリじゃない。それにこんな小さい子供の頭を殴っちまったら、まず即死確定だろう。イライラが募るばかりで、つい大声を張り上げてしまった。

 すると、チビの鳴き声がピタリと止んだ。

 俺の言いたいことが分かったのか?それとも俺の声が大きすぎたのか…いや、今はそんなことはどうでもいい。まずはこのチビを外に連れ出さないと。そろそろ嵐が来てもおかしくない頃合いだし。

 隣の死体はどうしようか…後でいいかなと思いつつ、俺は泣き止んだチビに手招きした。一緒にここを出るぞ、ってな。
 だがチビは俺の方を見ているだけで、一向に来ようともしない。

 …あ、そっか。ここ真っ暗闇だったんだ。俺はすぐに察し、チビを両手でそおっと掴んだ。今はもうこうするしかない。

 …小さい、それに軽い。でも、すごく暖かい。

 瞬間、俺の胸がいきなり高鳴りを始めた。どっどっどっどと、一気に。
 なんなんだこの高鳴りは!? ああそうだ、これ、ジールと初めてお酒ってやつを飲んだ時の、あの感覚そっくりだ。

 でも俺は今そんなモンを飲んだ覚えは無いぞ。一層高鳴る心臓。
 なんなんだよ!留守番してるトガリが朝飯に何か入れたのか? それともルースの奴がこっそりなんか仕組んだか?  それともジールが…いや、まさかな。

 いや、そうじゃねえ、こいつか? このチビを手にした瞬間からか?
 鼓動が全然治まらない、そのうちこのドキドキが頭の中にまで侵略を始めてきた。ヤバい、熱病みたいに頭がクラクラしてきた。

 暖かくって小さなチビの身体は、微かに震えている。怖いのか?
 俺は思い切って、その身体を胸に抱き寄せた。すると、今度はこいつの小さな五本の手の指が、俺の胸をぎゅっと掴んできた。

 毛をしっかりと握ってきたからすごく痛い。だけど…さっきまで破裂しそうだったドキドキが、今度は言葉に表せないような、ムズムズとした触感に変わり始めてきた。耳の先から爪先まで、目の奥、鼻の中…ゾワゾワともムズムズとも言い難いものへと。

 目を固く閉じ、ブルブル小刻みに震えるチビの身体。
 その時ふと「…大丈夫だ」って俺の口から無意識に言葉が漏れ出した。

 分からねえ、誰に言ってんだ俺? このチビにか? それとも俺自身にか?
 とにかくここを出よう、と元いたところのドアへと向かおうとしたその時だった。
 またもや雷が、ドン! と近くに落ちた。いや違う、今度は近くなんてもんじゃない!火の匂いがする、そしてたちまち屋根から広がり始める炎、煙…!
 冗談じゃねえ、今度はこっちの方が焼け死んじまう!

 ドアを蹴破ると、空は絶え間なく明滅し、大粒の雨が身体を濡らしてきた。
 やめてくれ、濡れるのは大嫌いなんだから。

 チビが濡れないように俺は手で覆い、俺はひたすら走った。ルースも天候の急激な異常を感じ取っていたので、合流地点ですぐに会うことが出来た。
 ここの嵐は厄介だ。大量に落ちてくる雷と、滝のような雨、そして踏ん張ってないと飛ばされるくらいの風。
 幸いにして通りすぎるのも早いが、今はとにかくここから逃げて、ジールの待つ場所へと行くのが先決だ。あそこは深い森のなかにある、茂った木々が防いでくれる最良の避難場所だ。

 走る、走る。

 途中でルースが勢い良く頭から転んだので、泥まみれの奴も小脇に抱え、ひたすら走って行く。
 そして先程の場所でゲイルたちとも合流し、全員でジールの元へと走っていった。
 俺はゲイル達を横目で確認したんだが、掃除の収穫物はやはりゼロだったみたいだ。手に何も持っちゃいない。

 走り続けて5分ほど、ようやくジールのいる森が見えてきた。嵐もそこそこ弱まってきている様子だ、雷の音が少なくなった。

 そろそろルースを降ろそうか、と思っていた矢先の事だった、小脇に抱えっぱなしだったルースが消えていた。いや違う、俺の頭の上にいた。
 俺の頭に乗るな! と払い落とそうと思ったが…
「ラッシュさん、止まってください」頭上からルースの小さな声がした。
「なんなんだ?」だがその言葉には答えることなく、やつは背負っていたザックから何かを取り出し、カチカチと組み立てていた。
 しかたなく足を止める。大粒の雨が俺の身体をバチバチと叩く…いや、俺の頭の上にいるルースはもっと打たれているだろう。大丈夫なのかこいつ? 一体何を…?
 直後、ルースがフッと鋭く息を吐く音が聞こえた。
 俺の視線の先から見えたもの…ルースが手にしているのは、細く長い吹き矢だった、組み立てていたのはそれだったのか。しかし一体誰に向けて?
 前に目を向けると、ゲイルの仲間のうちの一人が突然、首筋を押さえ、その場に倒れこんだ。

 あいつの名前は確かガグだったっけな、ジールと同じ猫系のやつで、3日くらい前に俺らのギルドに職探しに来た無口な男だった。それだけしか覚えてない。
 しかしそいつを、一体なぜルースは…?

「ルース、お前なんでこいつを…」だがルースは俺の問いかけにはいまだ答えず、ピクリとも動かなくなったガグの身体を入念に調べ始めた。その顔はさっきまでのお調子者づいたものとは違う、鋭く真剣な目。

「ゲイルさん、ガグさんになにか変わったことはありませんでしたか?」
「ああ、俺とはかなり離れて歩きまわってたな、姿は殆ど見なかった、あまりしゃべらないしな、俺も干渉はしないようにしていたし、だけどなぜ…?」

 ルースは小さくため息をつくと、俺に向き直って一言、ポツリと話しかけた。落ち着き払った口調で。

「…急ぎましょう、ジールさんの身が気がかりです」

2話

 おいおい、一体なんだって言うんだ⁉︎ 仲間をいきなり殺すわジールが危険だと言うわで、俺の頭は一気に混乱しちまった。
 難しいことを考えるのはとにかく苦手だ。俺はすぐさまルースを問い詰めた。
「ラッシュさん、ゲイルさん。私をこれからどうするかはお二人にお任せします……だけど今だけは信じてもらいたいんです。私はここへ向かう馬車の中から、みなさんの容姿はひと通り目に焼き付けてました。むろんガグさんもです。だけどその時の彼とは服や装備すら同じでしたが、顔つきと体格が違っていたんですよ、それもパッと見た限りではわからないほどに」
「なんだと…じゃあ俺とお前が村に行ってたとき、こいつは…」
 ゲイルがまん丸な目をさらに丸くして問いただす。
「恐らく、ゲイルさんの見えないところでガグさんは殺されました。そこにいる奴の手によって」 
 俺は落ち着いて思い返してみた。つまりガグに化けていたやつは、掃除の上前を奪おうとしてた野盗かなにかか⁉︎
 確かに暗殺業に通じているルースならば俺と二人でいたとき、いや、俺が抱えていた時にでも十分殺せるチャンスはあったはずだ。だがそんなマネをしないということは……
「ルース、今はお前を信じるしかないようだな……しかし盗賊の連中は人間だけじゃなかったのはうかつだったな」
 俺の隣にいたゲイルが申し訳なさそうに話した。だがここで感傷的になっているヒマはない。一刻も早くジールのところへ行かないと。 
 と思ったとき、俺の胸に掴まっていたチビが、またえっえっと泣きだした。
「ラッシュさん……一体?」
 その泣き声でようやくルースとゲイルが気づいた。チビの存在に。
「えっと、ラッシュさん、その…」
「な、なんだよ、話は帰ってからするから待て!」
「ま、まさかラッシュさんの隠し子…ぐはっ!」
 隠し子なんて言葉は知らないが、俺はつい条件反射でルースの頭を思いきり殴っちまった。
「な、殴って済ませるということは、その事実を認めたがゆえの行為です…よ…」 

 俺たちがジールのいる合流場所へと着く直前だった。ひときわ太い大木を背にして身を潜めている奴がいる。
 ジールだ。やっぱり盗賊共はこっちに来ていたってことか。 
 ジールは俺たちが来たことに気づくと、まず手で制し、指によるサインで人数を伝えてきた。
 1…5人いるのか、あとは何を言いたいのかサッパリ分からねえが。
「相手は5人。馬車に3人と付近で見張りが2人。何かを探している。ですね」
 俺の頭のてっぺんからルースがひょっこり顔を出して教えてくれた。
「分かるのかお前?」
「私たちの仕事じゃ、あんなサイン基本中の基本ですよ」 
 その言葉にかなりイラっと来たが、ここで殴るのはやめておこうと思い、俺は一気に馬車へと走っていった。 
 5人程度ならすぐ蹴散らすまでだ。
 気配を隠して挟み撃ちとか役割分担とか。そんな小難しいモン俺には一切必要ねえ。 
 やるときはいつも正面からだと俺は決めている。戦場ではいつも俺はそうやって戦ってきた、あっという間に済ませてやる……なんだったら100人でも構わねえ! 
 ……ふと、さっきまでむず痒かった気分がウソのように消えて、代わりに全身に熱い血が駆け巡ってくる感覚が久々に蘇ってきた。
 そうだ、この感覚! 俺の前に立ちはだかる奴らは全て斬り殺してやるだけだ。
 俺は背中に負った大斧の止め具を外し手にとった。
 ズッシリと、だが心地よい重さが両腕にかかってくる。 
 よくよく考えてみたら、これを使うのは初めてだな……なんて今更ながら思った。 
 そうそう、泣き止まないチビは茂みに隠した。それを遠目でみていたジールの顔、すごい驚いてたな。
「なにこの子⁉︎」って声が聞こえそうなくらい、あいつも同じ猫獣人のゲイル同様目をまん丸くしてたな。
 つーか、なにと言いたいのは俺も一種だ。

 馬車の前では人間が3人、保存食しか入ってない俺らの荷物を全部ぶちまけて、何かを相談してた。こいつら山分けでもする気か。 

 さて……と。俺は上体を低くして相手に向かってダッシュ。まず手前にいる一人目に向けて、斜め下から上へと、大きく斧を振り上げる。 
 相手は俺に驚く間もなく宙に舞っていった、身体が脇腹から斜め半分に分かれて。 
 そして斧を持ち替え、すぐさま隣にいる二人目を、横一文字に一気に切り裂く。 
 一瞬「見つけた!」「奴か⁉︎」って言葉がどっかから聞こえた気がしたが、そんなことは知るか。まったく警戒もしていないお前らが悪いんだ、死んでから反省してろ。 
 そして三人目。
 慌てて腰に付けている剣を抜こうとするが、もう遅い。俺は正面から突き飛ばした後、仰向けにひっくり返ったその首元にすとんと刃を落とした。 
 すると今度は上から奇声が。 
 ナイフを構えた四人目が、馬車の屋根から俺の所へと飛びかかろうとしていた……のだが、突如、そいつは力無く地面にぼとりと落ちた。 
 絶命していたそいつの背中には、ナイフが3本、きれいに深く刺さっている、ジールがやってくれたのか。まったく要らん世話しやがって。

 さて、残りの一人は……

「うっわ、もう4人済ませちゃったんですか、早っ!」 
 いつの間にか俺の頭の上から消えていたルースが、後ろから遅れてやってきた。 
 さっきまでの険しい表情はいつの間にやら消え失せている。
「さすが! 疾風のラッシュの異名はダテじゃないですね」  
 おい、さっきとまた名前が変わってるぞ。 

 そんなルースに残りの奴のことを聞くと「それならもう大丈夫です。私とゲイルさんで挟み撃ちにして仕留めましたから」と、あっさり答えやがった。
 早ぇなこの二人も。いや、ジールもか。
「これで全員だな」と、ルースに続きゲイルが最後の一人を、俺の目の前に放り投げてきた。
 これで5人…いや、ガグに化けてた奴も含めて6人か。全員ぶっ殺して終了となったわけだ。 
 一応調べてみはしたが、めぼしいものは何も持ってない。要は掃除して俺たちを狩ろうって魂胆だったのか。まあ相手が悪すぎだったけどな。 
 ……しかし、よくよく見るとこいつら、なんか変だ。
 最初は人間の盗賊連中かと思ってたが……いや、人間のようで人間に見えない。
 やや青緑色がかった肌に細長い枯れ枝のような手足。そして……
「な……⁉︎」死体を調べていたルースが言葉に詰まった。
 いわゆる白目が真っ黄色なんだ。ギラギラと光を反射していて、まるで月みたいな怪しげな輝き。
「人間……なのか、これ」同じくゲイルも言葉に詰まっていた。
「気持ち悪いですけど、これは研究するに値しますね」と言ってルースは、比較的綺麗な怪物の身体ージールが仕留めた奴ーをザックに詰めていた。なにするんだこいつ?

 しかし奴らが言ってた「見つけた」って、一体何のことだったんだか。誰か賞金首でもいたっけか?

「よく切れる斧だな。かなり腕のいい職人がこさえた物と見たが」
 ゲイルが俺の大斧の第一号の犠牲者の身体を見て、感心している。 
 そうだ、今まで戦場でいろいろな武器を使ってきたが、こいつの切れ味は正直予想以上だった。 
 重さでぶん殴る斧じゃない、斬るための、剣のように鋭い大斧なんだ。どんな名の知れた鍛冶屋が作ってくれたのかは知ったこっちゃねえ。こいつにはキラキラの宝石1個分の価値が、価値が…… 
 って、ま さ か⁉︎ 
 俺の背中に冷や汗が走った。
 そうだ、きっとこいつだ! 
 盗賊共はこいつを狙ってきたんだ! 俺のこの斧を!
 だとしたら、奴らが「見つけた」って言ってたのもうなづける。そんだけ値打ちが付いちまってるってことか……この大斧に。 
 となると、あの時行った武器屋のオヤジが、こいつの価値とか、誰が持っているのかを言いふらしでもしたのか!
 冗談じゃねえ! 俺はあのオヤジにまんまとハメられたってことじゃねえか。許せねえ。帰ったらすぐにあのオヤジを捕まえて叩き斬ってやる! 
 ……いや、殺したら意味ねーか。二.三十発殴ってシメておくとするか、それとも……
 なんていろいろ考えてた時、草むらからジールが姿を現した、手にはチビを抱いて。

「ほーらよしよし、泣き止んだねいい子いい子。もうすぐお父ちゃんと代わりますからね~」 
 あいつ、子供の扱い手慣れてるな。ちょっと感心した。しかし……
「はいラッシュ、あんたの子供でしょ、パス」
「いや、俺の子供じゃねーし」
「どこから拾ってきたのかは分からないけどさ、でもこの子あんたのでしょ? ラッシュお父ちゃん」
「だ! か! ら! 俺は父ちゃんじゃねえって!」 
 その言葉に、またチビはつんざくような声で泣き始めた。
「おーこわっ、お父ちゃん短気だし声はデカいしで最低でちゅね~」
 ルースがジールの足元でけらけら笑いながら言ってきた。
「お前ら…」

 殴りたい気持ちをぐっと抑えながら、俺たちは結局収穫ゼロのまま帰路についた。

 だが、この人間ともつかない盗賊の存在が、俺たちの運命……いや、この戦争の勝敗を左右する事になろうとは、まだ全然わかってはいなかった。

ラッシュ 父になる

1話

 結局、帰りの馬車の中では、俺たちはほとんど会話しなかった。 
 気味の悪い盗賊共の罠によって仲間を一人失ったとか、仕事の収穫がゼロだったとか、様々なトラブルもあったにはあった。が、それ以上に問題だったのがこのチビだ。
 さらに……
「背丈からして4.5歳くらいかな…」なんて、俺が抱いているチビを見て、ジールがボソッとつぶやいていた。子供の扱いには詳しそうだから、こいつにチビを任せたかったんだが…… 
 やっぱり最初に目があったのが俺だからだろうか、ルースに預けてもゲイルに渡してもすぐにわんわん泣いちまう。
「ラッシュさんを親だと思っているんでしょうかね」 
 なんて涼しい顔してルースは言うし。 
 最終的には俺の手に渡る始末。
 案の定わめき疲れたのか、今度はずっと眠りっぱなしだ。 
 俺の毛の色に似た黒い髪。撫でると、土ぼこりにさらされていたせいかかなりゴワついている。
 大きなボロボロのシャツを一枚身につけているだけで、むき出しの手足は泥とすり傷だらけだ。身体に毛が全然生えていない人間だからよく分かる。
「明かりが見えてきた、もうすぐだぞ」
 馬を手繰っているゲイルの声が、馬車の外から聞こえてきた。 
 ほとんど会話しなかったからか、やたらと時間が長く感じられたな……なんて思い、俺は大きく背伸びした。チビをずっと抱いてたからか、身体中が縮こまって痛い。 

 外を眺めてみるとすでに陽は落ちかけ、薄暗くなり始めている。この分だと掃除の報告は明日だな、それと武器屋のオヤジに会わなきゃならないし……いや、それよりこのチビをどうするかだ。
 じゃない、その前に……腹が減った。
 帰ったらまず、トガリにメシ作ってもらおうか。 
 この前作ってくれた豆の辛い煮込みは最高に美味かったな。あとジャガイモだ。ふかしたての芋にバターをたっぷり、それだけで美味しい。そうだな、今の俺の腹の減り具合なら10個……いや30個は楽にいける。それから、焼きたてのパンを……
「ラッシュ、ちょっといいかな」
 突然、俺の妄想に割り込むジールの声が。「家に着いたら、話したいことあるんだけど、いい?」 
 その時、俺はようやく思い出した、ジールが以前話してたあのことを。そうだ、俺も聞かなきゃいけない。
 あの時、問いただせなかった言葉の意味を……

 家へと着いた頃には、辺りはもうすでに暗闇に包まれていた。

 当然のことながらトガリの奴も驚いてた。
 俺を見るなり、まるでルースと申し合わせたかのように「ラッシュ、いいいつここここどもなんかつつつつくったの!?」ってな。
 いつも通り殴って黙らせようかと思ったが、腹が減ってたからやめにした。たまにはこういうこともあるさ。
 
 ランプ一つだけがともる家の食堂。 
 1年前まではそれこそ何十人もの傭兵でごった返していたっけな。今じゃもう片手で数えられるほどにまで減っちまった。 
 端っこのテーブルにはうっすら埃も積もっている。 
 隣の台所からは、ふかしたジャガイモと塩ゆでしている貝の匂いが漂ってきた。 
 貝は美味いけど面倒なんだよ。殻をいちいち取らないと食えねえし。だからいつもバリバリ殻ごと俺は食っている。トガリはお腹壊すよといつも注意されているが、しかし俺の腹のなかはいたって健康そのものだ。
「待っててねチビちゃん。今あたしがご飯作ってあげるからね」トガリの横にはなぜかジールがいた。ってなんであいつが料理を⁉︎ エプロンまで付けてやがるし。
「ああ、残念だけどあたしはあんたたちの食事作ってるんじゃないからね。この子のご飯だから」 
 なんでこいつに別のもの食わせるんだ? 俺らと一緒じゃダメなのか?
「チビちゃんの身体をよく見て……かなり痩せてるでしょ。おそらく数日ははロクなもの食べてないと思うから」 
 ジールの言葉に、俺は寝ているチビの身体を観察してみた……
 しかし、そんなこと言われても全く分からない。
「まあ、ラッシュには無理かな」なんて言ってジールは笑ってやがった。 
 妙に腹が立つ……けど、いいか。腹が減るととにかくやる気が失せちまうんだ。 

 煮込みだなんだで少し時間がかかるとのことなんで、 俺はとりあえず、みんなにこのチビの経緯を話した。小屋にいたもう一人の亡くなっていたやつのことも含めて。
「要は、あの村の唯一の生き残りってわけか……しかしこの子の親がもうこの世にいない以上、何にも聞き出せないな。まあ、あの村がどうかなろうと、我々には一切関係ないことだが」 
 ゲイルがランプに油を足しつつつぶやく。 
 そうだよな、こんなこと今の荒れた世の中じゃ大した事件にすらならない。村が一つ略奪で消えることなんて日常茶飯事だ。 
 だけど、問題はこのチビ……望まず手に入れちまったこの子供だ。
「さて、まずはこの子をどうするか……ね」ジールが俺に聞いてきた。しかしいきなりどうするかと聞かれてもな、俺には全く分からねえし。
「大きく分けて二つあるの、一つ目は、この町にある教会か孤児院に預け渡すこと。幸いにここは両方を兼ねた施設があるしね」 
 孤児院か……確かにこの戦争で、子供たちがたくさん来ていたのは見たことがある。それにならってあそこに預けるのが一番いいだろうな。同じ人間がたくさんいるんだし。

「二つ目は…う~ん…これは正直お勧めできないんだけど」
「私の毒で…ぐはっ!」
 直後、ジールのパンチがルースの顔面を直撃した。まだ言い終えてもいないのに⁉︎

「この子に罪は無いんだからね、ルース。それにあたし、その手の冗談は大っっ嫌いなんだ、覚えときなさい!」
 鼻面を押さえたルースの口から、はいともひゃいとも言えない言葉が聞こえた。
 冗談だったのか本気だったのかは分からないが、意外と過激なこと言うんだな。
「で、もう一つはなんだ?」
 俺のその言葉に、チビがぱちりと目を開けた。 
 ジールは軽く深呼吸をした後、俺に向かって話した。 
 ゲイルでもルースでもなく、俺に。真剣なまなざしで。

「ここで、チビちゃんを育てること」

2話

無理だそんなこと!
第一俺たちは人間とは違う、獣人なんだぞ。いまだに毛嫌いしている人間連中だっているのに。ましてや子供がいるなんて知られたら、ヘタすりゃ誘拐だなんて疑われてもおかしくない。絶対にごめんだ。
「まあ、今のはあくまで最悪のパターンかな。それにラッシュだってこの先仕事してたらチビちゃんが足手まといになっちゃうしね」俺は無言でうなずいた。
つーか、もう腹が減りすぎて、しゃべる気も起きてこねえ……
こんなチビがいつも俺のそばにいるなんて、無理……じゃない、無理だ。

目の覚めたチビは、じっと俺の顔を見つめている……なんなんだよその目は。何か言いたいのか? 獣人だから珍しいのか? なんか一言くらいしゃべったらどうだ。
「…おとうたん」
その時、チビが初めて口を開いた。
その言葉に釣られるかのように、突然、周りが一斉に爆笑しやがった。
くっそ、何が楽しいんだよ。完全に俺だけそっちのけかよ! 怒りと空腹が危うく頂点に達する直前、ようやくトガリが夕食を持ってきてくれた。
ふかしたジャガイモと、貝の入ったシチュー。
「昨日のののこりのアアアアレンジだけど、味は保証するからね」
続いてジールが持ってきた、謎のシチューらしきもの……これは一体?
木製の小さなシチュー皿によそられたそいつは、中に小さなアリみたいなこげ茶色の粒つぶがたくさん入っている。
そして煮詰まったミルクの匂い。
……うん。正直言っちゃなんだが、色といい中身といい香りといい…まるで吐いた後のアレみたいだ。
「押し麦をミルクで煮込んだお粥よ。味はイマイチかも知れないけど、お腹の弱った子にはこれが一番」
ジールが自慢気に俺たちに説明してくれた。しかし肉と芋くらいしか食ったことのない俺には、こいつは未知の食い物だ。
この匂い……ちょっと食欲削がれそうだな。

サイズこそまちまちだが、全員に行きわたった皿には、トガリ特製のチャウダーが溢れるくらいに盛り付けられている。
そうだ、みんな今までメシ食ってなかったんだもんな。
チビの前には、ジールが作った例の粥。見るだけで食欲が失せそうになるから、俺はちょっと目をそらした。
しかし…みんな食い方全然違うんだな。
ゲイルはスプーンで一口ずつきちんと食う。まあこれが普通か。
ルースは食べつつも、大切りのニンジンをそっと器の脇に集めているし。あいつニンジン嫌いなのか。
そういや親方にさんざん言われたっけな、ニンジン残すと大きくなれないぞって。だからこいつ、トガリみたいに背が小さいのかな。あとで一発脅してやるか。
なんて思いながら、向かいに座っているジールの方を見ると、あいつは目を閉じ、手を合わせて何かに祈ってる。なにやってんだこいつ、メシ冷めるぞ。
でもって俺は……というと、もう3皿目に突入だ。スプーンを握りしめ、まずはとにかくかきこむ。空っぽの胃袋にとっとと詰め込まないと、力が全然出ねえからな。
昔から俺は思ってるんだ、メシと戦いは一緒だって。食ったら食った分だけ自分の力になる。だから食える時はとにかく腹いっぱい食うんだ。周りにいるどんな奴らよりも早く、ってな。
あれ……? これって親方が事あるごとに俺に言ってたんだよな?
まあいいや、次は蒸したジャガイモだ。目の前の大皿に高く積まれたイモを鷲掴みにして、口に詰め込んで……
「相変わらず豪快って言うか汚い食べ方するわね、ラッシュは」
ジールがあきれ顔でそんなこと言ってるが気にはしねえ。これが俺流の食い方なんだから。
「ほら、熱いんだからそんなにがっつかないの。まだおかわりたくさんあるからね、大丈夫」
ジールが今度は隣の席で食ってるチビに注意している。チラッと見てみると、小さいのにすげえ食いっぷりだ。皿を抱え込んでガツガツと、無我夢中で口の中に掻き込んでいる……
テーブルの周りは飛び散った食いもんだらけだ。
こいつ、そんだけ腹減ってたのか。
「ふふ、誰かさんと食べっぷりがそっくり」なんて皮肉めいたことを言いながら、ジールは腰に巻いていたエプロンで、チビの汚れた顔を拭っている。
しかしほんと子供好きなんだなこいつ。そう思いながら、俺は5皿目を食おうとした…そんな時だった。

突然、食堂の中が、まるで大仕事を終えた時のような喧騒に包まれていた。
さっきまでランプが一つ灯っていただけなのに、今はもう、周りは暖かい明かりで満ち溢れている。
…そして、隣にいたゲイルも、ルースも、そしてジールまでもがいなくなった。
不思議に思いつつ正面に目をやると、小さくて黒っぽい毛の、まるで俺を小さくしたかのような獣人の子が、皿に盛られたシチューを無我夢中でがっついて食っている。
そう、さっきまで俺の前でドロドロの飯を食っていたチビのように。汚い食いっぷりだけど、精いっぱい。
でも、こいつどっかで見たことあるような……
シチューを平らげると、今度は小さな手でパンを、左手でチーズのかたまりを握りしめ、交互にまたがつがつと食い始めた。
こんなちっこい身体なのに、食い方は大人顔負けだ。
「いい食べっぷりだな、うめえだろう」
ふと、このチビの頭の上に、大きな岩のような手が乗っかってきた。それに聞きなれた、野太くて懐かしい声。
「うん、おいしい!」そいつは満面の笑みでその声に応えた。
「そうか、よおっしどんどん食え! 何杯でもおかわりしていいからな!」
チビの後ろに立っているこの大きな人影……そうだ、親方だ! まだ全然年とってねえし、髪だってまだ黒い。肌も全然シワだらけじゃないし!
それに、すげえ嬉しそうな顔してる……!
その若い親方はチビ犬の隣に座って、メシの食いっぷりをじっと眺めていた。
時折、持っているハンカチでチビの顔を拭いてて……まるでさっきのジールみたいだ。

「いいか、俺が明日っからお前を一人前の戦士にするためにバシバシ鍛えてやるからな、覚悟しておけ、でもうまいメシもたらふく食わせてやるからな」
「せんしってなんだ?」チビは親方の言葉に、たどたどしい言葉で問いかけてきた。
「そうだな、戦士って言うのはな、一番強いやつのことを言うんだ。この長い戦争で生き残れるには誰よりも強くなきゃダメだ。それにな、お前を初めて見たとき分かった、こいつなら絶対強い戦士になれるってな。それにメシもいっぱい食ってるからな。そう! メシを食うのも戦いも一緒だ、腹にいっぱい収めたモンが勝ちなんだ。食ったら食った分だけ強くなれる! 」
「じゃあおれもっとたくさんたべてつよくなる!」
親方は食堂に響きわたるほどの笑い声を響かせながら、俺の頭をガシガシと強く撫でまわしてくれた。
ただでさえ俺の毛はボサボサな硬い髪だっていうのに、痛いくらい撫でまわしてくれて……。

……って、俺?
このチビは……俺⁉︎
そうだ、思い出した。初めてギルドに来たあの日。
腹ペコだった俺を、まず食堂に連れて行ってくれた、あの日の俺だ!

3話

「ラッシュさん、ラッシュさん?」
 俺の隣で、また聞き覚えのある声が聞こえてきた。 
けど今度は親方じゃない、この声はルースだ。
「ラッシュさん…なんで泣いているんですか?」 
その声に俺はハッと気づいて、自分の頬を触ってみた。 
熱い水が流れている…ああそうだ、これって確か涙って言うんだっけ、親方が死んだときにも、俺の目からたくさん流れてたな。でもなんなんだよ一体、なんで俺、こんなとこで涙流してるんだよ! 
しかも、全然止まらないじゃねえか。 
俺はすぐさま食堂を飛び出した。 
胸の中に、恥ずかしいような、悔しいような、それでいて言葉に表せないようなものがたくさん詰まって、今にも叫びだしそうな気分に駆られた。 

そして、俺の足は無意識に、離れにある大木の元へと向かっていた。 
草ぼうぼうな広場の真ん中に、大きな木がドンと立っている。俺たちが日夜身体を鍛えている場所……いわゆる修練場だった所だ。 
もっとも今は言うまでもない。それに「俺たち」じゃなく「俺一人だけの」場所になっちまったし。 
みんなの前で泣いていたってことがすごく恥ずかしかった。ルースやジールに、俺の涙なんて。それになぜチビの前で、親方のことなんか思い出しちまったんだろう……って。
あの時、確かに俺がいたんだ。今はもう散り散りばらばらになって、もしくは戦いの中、死んでしまった仲間が、周りでメシを楽しそうに食ってて、腹を空かせた小さな俺がいて、そしまだ年を取ってなかった親方がいて…… 
毎日ここで打ち込みをしていた。どんなに天気が荒れていても。おかげでこの幹には俺の拳の跡が今でもクッキリと残っている。 
俺はそこに向かい、そして無心で殴り続けた。この町じゃ一番の古木だ。俺が何発も叩こうがビクともしねえ。無論、今の俺の力でもだ。
生い茂っている葉っぱが、少しづつ散っていくだけ。 
とにかく今は、頭の中から全部消し去りたかった。 
殴り続けているうちに、自然と口からクソとか畜生とか、様々な言葉が漏れてきた。それがだんだんと叫びへ、声が枯れるまで、延々と。

どれくらい殴り続けたか分からない。だが急にヒザから力が抜けた。 
ガクッと崩れ落ちて、ようやく今、自分がやっていることに気がついた。
息が切れて、両拳がズタボロになって血を流している、そんなバカをやっちまったことに。 

そんな時、ふと俺の肩に暖かくて柔らかい何かが触れた。
「やっぱりここだったか」ジールの声だ……背中越しにわかる。でもあいつの手ってこんな感触だったのか。
「驚いたよ、いきなり涙流しちゃうんだもん」
その言葉に、俺は何も答えを返すことができなかった。というか、どう返していいか分からなかった。
「まだ、泣いてんの?」
そうだよジール、お前の言うとおりだ。こいつ、どうやって止めたらいいのか分からないんだ。
「しょうがないにゃ。ほら、これでどう?」 
あいつの細い身体が、ぎゅっと俺の背中を抱きしめてきた。
柔らかく暖かい……こんな不思議な感触、生まれて初めてだ。
ジール、おい……」
「なにも言わないで、目を閉じてて」
耳元でささやくジールの声。 
突然、俺の目の下にあいつの吐息が……いや、唇が触れてきた。 
身体よりもっと柔らかい、だけどちょっぴりザラついた、舌の感覚と一緒に。
「!!!」 反射的に俺の身体があいつから逃げていた。いきなり舐めるだなんて⁉︎
俺の顔を、涙を⁉︎「ちょ⁉︎ おおおお前ななななんだよいいいいきなり!!!」 
俺はその時、破裂しそうな胸の鼓動を押さえるのに必死でトガリのような口調になっていた。 
しかしそんな俺の動揺にもかかわらず、ジールは俺に対して悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「ね、涙、止まったでしょ」
「え、あ……」 
そう言われて、ようやく気付いたんだ、あれが止まっていたことに。 
ずっと流れるままだった、涙が。
「お前……だだだからってななななめることねえじゃんか!こんなモンなめたってきき、汚ねえだけだぞ!」俺の口からはもう、すぐにでも心臓が飛び出てきそうだった。 
あの時初めてチビを抱いた時のような、どっどっどっと高鳴る胸が、言葉と一緒に出そうなくらいに。
「汚くなんかないよ、ラッシュの涙は、あたしが知ってる人の中じゃ誰よりきれいだよ」 
そう言ってくすくす笑うジールの口の端に、八重歯がチラッと輝いていたのが見えた。 
あいつがこれだけ笑うのなんて、俺は初めて見た気がする。
「誰だって、いい思い出も辛い思い出もたくさん胸にしまって生きてるの。その思い出で涙を流せるラッシュは、誰よりも心がきれいだよ。あたしは信じてる」 
激しい鼓動はもう、不思議と元に戻っていた。 
そして今度はジールの指が、俺の頬をギュッとつねって引っ張ってきやがった。
「痛てぇ!」一体何のお仕置きだって思いつつも、俺は叫んだ。
「ほら、笑いな。ラッシュ」
ニコニコしながら俺の頬をぎゅうっと引っ張ってくる、めちゃくちゃ痛い。でも俺、まともに人前で笑ってためしが無かったかもしれねえ。
……思い返してみると、戦いの場じゃ笑顔なんて必要ねえし。 
しばらくして、頬を引っ張っていた手が離れた。
「ハァ……強情だねえ。女の子が笑ってるときは、どんな時にでも合わせるのがマナーなんだよ」 
ウソだ、そんなマナー聞いたことねえぞ……とは言うものの、親方くらいとしか話し相手いなかったけど。
「あたしの前では笑わなくてもさ、あの子の前では笑顔くらいちゃんと見せるんだよ」 
ジールは今度は真剣な顔で、俺に面と向かい合わせてきた。
なんなんだこいつ、笑ったり、マジな顔したり。

血のにじんだ俺の拳に真っ白なハンカチを巻きながら、あいつはまたつぶやいた。
「あの子、寂しかったんだからね……ラッシュと同じくらい。ううん、それ以上にね。だからニッコリしてあげなくちゃ、お・父・ちゃ・ん?」 
またその言葉か! 

結局、ジールに引かれるままに俺はまた食堂へと戻っていった、だけどまだ正直気まずい。
「大丈夫だって。気にしないの」
ジールはそう言うけれど。だけどいきなりトガリやルースに笑われたりしないだろうかと不安で胸の中はいっぱいだった。


「あわわわ、ラッシュさん心配してたんですよ、いきなり外に飛び出しちゃうもんですから……」 
戻るなりルースが早口で出迎えてくれた、悪かったな、すまんって俺らしくない言葉を言いつつ、とりあえずまた席についた。
「ラッシュ…なな悩みがあるのならぼぼ僕にでも相談してくくくれてもいいのに」
ガリが心配そうな顔で、蒸しなおしたジャガイモをテーブルに持ってきてくれた。 
ルースはまだまだなにを考えているかわからないやつだが、トガリはまだ別だ、このギルドに残っていてくれている最後の仲間だし。
「悪い…ちょっと昔を思い出しちまってな、とりあえず外でたらスッキリしたわ」
大木に打ち込んでたらまた腹が減っちまった、さて食いまくるぞ……と思ったら、俺のシチュー皿の上に、ニンジンの角切りがこんもりと盛られてやがったんだ。 
ああ、犯人は一人しかいないのはわかってる。だけど心配させちまった迷惑料だ、これくらい食ってやるよ。なんて思いながら、俺は何も言わず黙々とニンジンまみれのチャウダーを口にした。 
……ニンジンって煮ると柔らかくて甘くて美味しくなるのにな。 

さっき以上のペースで2杯目をおかわりしたところで、今度はいきなり目の前に小さなスプーンが突き出された。 

……チビだ。テーブルから身を乗り出して、俺にあのゲロ臭い粥を差し出している。 
俺の鼻先に出された、一さじの粥。こんな鼻でも一応、臭いものは臭いんだよな……一気に食欲が失せちまった。しかし、なぜチビがこれを?
「この子がお父ちゃんに食べてもらいたいんだって」チビの隣にいるジールが説明した。 
冗談じゃねえ、俺にこれを食えと⁉︎
そう言い返そうとした矢先にも、ジリジリとスプーンと俺の口との距離が狭まってくる。
いやだいやだ、こんなもん食わされてたまるかってんだ!
俺は席を立って避けようとした……んだが、チビと偶然目があっちまった、不覚だ。 
あいつ、相変わらずの笑顔で俺を見つめていたんだ。 
そしてとどめに「おとうたん、ねっ」ってあの粥を、俺の、口に…… 
何なんだあの笑顔は、まともに見ちまうと、身体の自由が効かなくなってくるような、こいつの言うことは聞かないとヤバいみたいな……
そうだ、魔力ってやつだ、なんかチビの笑顔にはそれがありそうな気がしてならねえ。それに俺はまんまとかかっちまったってことなのか……
こいつの顔を見ちまったらダメなんだ、それに目を合わせたりでもしたらもう……
俺の口にむりやりねじ込まれたミルク粥、案の定、俺の嫌いな煮詰まったミルクの匂いがして、正直食いもんかと思えないくらい、クソ不味かった。
「ほら、ラッシュ、笑って」
それに追い打ちをかけるかのように、ジールが言ってきた。
「息子から出されたものはちゃんといい顔して食べなきゃダメだぞ」 
そうか、さっき言ってた笑えってこういうことだったのか! 
吐き出しそうになるのを無理やり飲み込んだ。
これはもう拷問じゃねえか、これで笑えっていうのか⁉︎
「おいしい?」たどたどしい言葉でチビが問いかけてくる、もう目が避けられない。誰かに押さえつけられてるわけでもないのに、何故か体が動かない。

「頑張ってくださいラッシュさん」ルースが小声で応援してきた、いい度胸じゃねえか、あとでニンジンのお礼含めてたっぷり殴ってやるからな。俺は心の隅でそう決心した。 
さっきジールに引っ張られたところ……つまりほっぺたを、口の端を、強引に無理やり引き上げてみる。
笑ってるのか俺、笑顔になれてるのか俺……って思いながら俺は左右を見渡してみた。
ジールも、ルースも、ゲイルも、そしてトガリも、みんなニヤニヤしながら俺の方を見つめている。この悲劇を楽しんでいるのか、それともエールでも送っているのか……
だけどチビだけは、変わらない顔で俺の顔だけをじっと見続けている。 

あの時、初めてこいつの姿を見た時とは比べ物にならないほどの、曇り一つ無い笑顔で。「お、おい、しい……な」胸の底から声を絞り出し、俺はチビに応えた。  
笑顔っていうのはこれほどまでに難しくて、だけど、人から向けられると何故かそれに応えなくちゃいけない。不思議なものだっていうことを、俺はその日イヤというほど思い知らされた。 
そう。あとちょっとの辛抱だ。
決めたぞ。明日このチビを孤児院に渡せば、またいつもの生活に戻れる、我慢だ……我慢。 

でも、そんな明日が、生涯忘れられない一日になろうだなんて、今の俺には全然見当がつかなかった。

番外編 「それでもルースは殴られる」

前編

「ラッシュさん…さっきはすいません」
「え、さっきのニンジンのことか?」
「はい…私、小さい時からニンジンとブロッコリーとカリフラワーとセロリとトマトとネギとシイタケとインゲンとナスとズッキーニとロマネスコとタケノコとタマネギとキュウリだけは苦手なものでして…ラッシュさんならトガリに気付かれずに食べてくれるかなって思って、つい」
「(だけ、にしちゃ結構多いじゃねえか…)ああ、構わねえさ、俺だっていきなり涙流しちまったとこ見られたしな、お互い様ってことで」
「おぁぁありがとうございますラッシュさん!あなたは天使のようなお方だ!」
「ちょ、いきなり天使とかなんだよ、別に好き嫌いは誰だってあるじゃねえか、大げさに言わんでも」
「いいえラッシュさん、この御恩は一生忘れません! もう他の戦地に行っても洗ってない犬臭いとか大飯ぐらいだとかイビキがドラゴン級だとか足が臭いとかゲンコツで1000人殺したとか火を吐くとか敵味方問わず戦場で殺しているとか人間の生き血を毎晩酒代わりに飲んでるとか誰にも言いふらしたりしませんから!!」
「え…ってことは、つまり…」
「え…っ?」
「お前か! 俺の変な二つ名広めてるのは!!!」
「え…」
 ゴッ

後編

「ラッシュさん、ラッシュさーん!」
「あン? なんか呼んだか?」
「昨日ジールさんから聞いたんですが、ラッシュさんって足の肉球がピンク色のまんまだって本当ですか?」
「……」
「面白いですよね~。私も肉球が黒くなるのは他の人と比べて少々遅かったですが…それでも10歳の誕生日を迎える頃には全部黒くなりましたし」
「…………!
ジールさんみたいな純血のネコ族な人はともかくとして、ラッシュさんみたいな犬族が、こんな年になってもピンク色だなんて…いやはや、逆に興味深いかもしれませんよ。あ、そうそう、私が以前所属していた部隊じゃこんなこと言われてましたっけ」
「………………!!!」
肉球がピンクなうちは、まだまだひよっ子…ぶっ!!!」

 ーこの後、めちゃくちゃ殴られたー

 

4話

 太陽の光が眩しくて目を覚ましたのは、生まれてはじめてかもしれない。
 いつもなら朝日がまだ顔を見せる前ー薄暗い時ーに目が開いて、身体を動かしているのが普通なんだが。

 昨日は夜遅くまでルースの野郎のわけわからん講義をずっと聞かされていたからだろうか。生き物は男と女がいないと生まれて来ないとか、それが父ちゃんと母ちゃんになるとか、正直俺にはどうでもいい内容ばかりだった。だってそうじゃねえか、親がいなくたって人は育つだろ、俺がそうだし。

 で、当の本人のルースだが、トガリに聞いたところ、別の仕事があるからっていうんで、暗いうちにここを出て行ったそうだ。ジールも同じらしい、ゲイルは…あいつ俺と一緒なのが余り好きじゃないのかな、なもんで一旦故郷へ帰ったとか。
 つまりここに残っているのは、俺とトガリと、そしてチビだけになっちまったってワケだ。まあ、こいつだって後で孤児院へ渡そうと考えているしな…

 しかしこれでようやく身軽になれる。ジールは最悪の選択肢として、チビをここで育てるかなんてほざいていたけど、俺には無理だ。それにトガリに子育ては…うん。やっぱり無理だ。

 どうにかしてこのチビを預けて、またいつもの仕事へと戻りたいんだ。それだけでいい。生活を大きく変えちまうのは正直ゴメンだから。俺の身体には戦争の、いや戦いの空気が染み付いている、それがなけりゃ旅にでも出て、探しに行くだけだ。
 …忘れてた、その前に武器屋に行かないと。

 相変わらずチビは俺から離れるとすぐに鳴き出すんで、結局、昨日と同様に俺が抱きながら出かけることになった。

 街は戦争の只中の時とは打って変わり、人間たちですごく賑わっている。もしかしたら獣人なんて世界に自分一人しかいないんじゃないかと思えるくらいだ。

「あら、ラッシュの旦那どうしたのさ、子供なんか連れちゃって」行きつけの(とは言ってもいつもリンゴを貰うだけだが)果物屋のババアが、俺を見るなり早速声をかけてきた。
 答えはストレート。「仕事中に拾った」ってな。
 おしゃべり好きなババアによると、通りの突き当たりにある教会兼孤児院も、最近他の村から流れてきた難民であふれかえっているらしい。かなり厳しいんじゃないかって心配してくれた。
「長かった戦争ももうすぐ終わるって噂だしね、いまは結構流通も良くはなり始めているけど、この先どうなることやら…」
 俺はその時のババアの話は適当に聞き流していた。親方も言ってたけど、戦争が終わるなんて言葉は今でもピンと来ない。
 …俺には、まだ終わってほしくない思いのほうが強いんだな。

 去り際にいつものリンゴをもらっていこうとしたら、ババアはおチビちゃんの分だよって言って、小さなリンゴを一個余分にくれた。優しいこともあるもんだな。
 俺には大きいリンゴ、チビには小さいリンゴ。そばの空き地にある芝生で休憩がてら食べようとして、チビに渡したんだが…
 どうも、こいつには食べ方が分からなかったみたいだ、手にするなりジロジロ見回したり、匂いを嗅いでみたり。なもんで俺が一口かじると、チビは真似して大口でかぶりついた。
 
「うまいか?」俺が尋ねてみると、ほっぺたにいっぱい詰め込んだまま「んっ!」って元気にうなづいてきた。 その仕草についつい俺は吹いちまった。
 なんか不思議な気分だ…昨日までは正直ウザかった存在だったのに、こうやって懸命に俺の真似をしているのを見ていると、心の奥底が妙に落ち着いてくる…
 それどころか、ふと『一緒にいててもいいかもな』なんて感じるようになってきたし。
 いや、ダメだダメだ、そんなこと考えちゃいけねえ。俺は獣人、こいつは人間なんだ。それに俺の居場所はこんな落ち着く場所じゃない、戦いの中にしかないんだ。
 そう自分に改めて言い聞かせながら、俺はまず最初の目的である、例の武器屋の前へと着いた。

 …が、窓から見える店の中が、違う。
 棚に並んでいる品物からして武器じゃない。服だ、人間の服だ。
 店を間違えたんじゃないかと思って、上の看板を見てみる。字は読めねえが、前のやつとは全く違っていた。剣と槍が交差して飾ってあったはずなのに、それがない。変わったんだ、武器屋がどっか行って、それでこの服屋が新たに入っちまったってことか!?

 俺はドアを蹴破って店に入ろうとした…けど、よくよく考えてみたら、今いる店の奴らに罪はない(と思う)し、俺はチビを抱いてる。おまけに街中はかなりの人出で賑わっている。ここで暴れたりでもしたら一大事だ。ガマンガマン。ここは戦場じゃねえんだ。落ち着け俺。

 俺は大きくゆっくり深呼吸をして、店のドアを開けた。
 シーンと静まり返った店、壁には上着やらズボンやらがたくさん下げられている。すべて人間のやつだから俺には小さいし、服なんてもんには全然興味も湧かない。

 しかしよくよく見ると、明るめの色の服がかなり多いことに気がついた。今まで街にいる奴らが着てた服なんて、茶色やくすんだ灰色みたいな、辛気臭い色ばかりだったし。
 それがこの店は違う。黄緑とか青、それに透き通るような白。
 俺が見たって綺麗だなって思える色が、結構目につく。

「いらっしゃいませ!」
 俺の姿に気づいた店員が、奥から出てきた。それも二人。若い男と女だ。
 この二人がルースの言ってた『父ちゃんと母ちゃん』になるのか。なんて頭の隅っこで思いながら、俺は例の件を問いかけてみようとした。

「あのよ、この店の前って…」
「まあ、かわいいお子さんですね!」
 いきなり女の方に先手を取られちまった、ヤバい、不覚だ! 斬り合いだったら先手を打たれたようなもんだ。
「どのような服をお探しですか?」続く男からの攻撃。しかもすごく丁寧な姿勢だ。同じ物言いでも毒と嫌味のあるルースやジールとは大違いだな。

 ふと、俺は抱いているチビに目をやった。そっか、こいつ見つけた時からずっとボロボロの服のまんまだ、下着も、靴すら履いてないし。毛があるがゆえに、あまり服にはこだわりを持たない俺たちとは違って、こいつは人間だったんだよな、うっかりしてた。

「あいにくですが、獣人さんの服となると仕立てに時間がかかるのですが…」男のほうがなんかいろいろ言ってくるが、全然分からねえ用語ばかり。
 そうじゃねえ違うんだ! 俺が聞きたいのはここの前の店主のことだ! って言いたかった…
 が、俺の口から出た言葉は、今の思いとは全く違うものだった。
「えっと…このチビ…の服、欲しいんだけど…」

 俺は負けた。


5話

 女が、なれた手つきでチビの身体のあちこちを測ってくれている。
 しかしなぜ、チビの服が買いたいだなんて、裏腹な言葉が出たんだか…この後もう孤児院へ言っておさらばするだけだってのに、金の無駄遣いじゃねえか。
 まあ…一応金は持ってきてはいるけどな。金貨と銀貨一枚ずつ。

 チビの服が一式いくら掛かるのかな、なんて思いつつ、俺は生地をあれこれ選んでいる男の方へと声をかけた。
「…以前、ここって武器屋だったはずなんだが」
「ええ、知ってますよ。ワグネルさん…でしたか、その方からこのお店の権利を購入しましたので」

 あのオヤジ、ワグネルって名前だったのか。

「しかしなぜワグネルさんのことを?」
「ああ、ちょっと前に武器を仕立ててもらったんだが、代金の残りをまだ支払ってなかったんだ」
 この男は何も知らなさそうだ。俺の斧の事情を説明したって無駄に思い、俺はあえて嘘を教えた。
 そして最後の質問「ワグネルのオヤジ、どこへ言ったか知らねえか?」
 だが、男は困った顔でいいえと首を横に振るだけ。参った…脈はここで途切れたか。
「あ、でもあの人、確か大金を手にしたとかで、もうちょっと大きな街へ行って店を構えたい、とは言ってましたね。すいません、これくらいしか話してなくって…」

 大きな街…か。それだけじゃ正直厳しいな。しかしワグネルから斧の秘密を聞き出さない限り、俺はこれからもずっと盗賊団連中に命すら狙われ続けるワケだ。この先一体どうすりゃいいのか…

 と、あれこれ思いを巡らせてるうちに、チビの担当が男から女へと代わった。隣の部屋でよさ気なサイズの服を着させてみるらしい。チビはいつも通り泣き出しそうになったが、昨日の夜にジールが教えてくれた魔法の言葉を思い出し、難なく離すことが出来た。

「大丈夫、俺はここにいるから」これが、この言葉だ。
 ってなワケで、今度は女の店員と二人っきりになっちまった。こいつにも男と同様の質問をしてみたものの、結果は変わらず…だった。
 さてさて、どうしたものか…

 とは言っても、俺はこの女の店員にこれ以上何を話しかけていいのかもわからなかったんで、しばらく無言のままの時間が流れていった。
 窓の外からは祭りにも似たような、街の人のざわめきが聞こえてくる。だいぶ賑やかになったな、ここも。なんて思っていたら、女の方が話しかけてきた。

「あなたは…違うんですね」

 いきなり言われたその言葉。俺にはどういう意味かさっぱり分からない。
「え、いや、あの、いきなりですいません、おお怒らないでください!」
 今度は顔を真っ赤にして謝りだした。ますます訳が分からねえ。
「違うって一体どういうことだ? 別に怒ったりしねえから、な」彼女に問い返してみた。

「えっとですね、私…獣人って、その、もっと厳つくて怖い人なのかな、なんてずっと思っていたんですよ。そしたらお客さん、とても物静かですし…それに子供さん連れていたから、今まで私の思い描いていた獣人と全然違っていたな…って」

 俺に怯えてでもいるのか、彼女はずっと下を向いたまま、緊張した口調で、そして早口で一気に話してきた。

 確かにそうだな。ジールやルース、それにトガリはともかくとして、俺たち獣人の…しかも男たちはみんな屈強で、戦場で暴れまくるような連中ばかりだったし。
 実際親方だって「戦場じゃお前たち獣人の数が勝ち負けを左右するんだ」って事あるたびに言ってたっけ。だからいつの間にか人間たちには、俺たちは怖いってイメージが定着していたってことなのかもな。

 しかし、こんな場所で戦歴を語ってたって大した意味ないな、とさすがの俺も思った。彼女を余計怖がらせちゃいけないし。ということで俺自身のことはやんわりと話した。近所のギルドへ職探しに来たってことで。それに獣人とはいってもいいヤツだってそれなりにいると思うぜ。とも付け加えといた。最後にチビのこともな。

 俺が話し終えると、彼女はようやく笑顔を見せてくれた。柔らかい笑顔とでも言えばいいのかな。店に入った直後の時は、正直顔がこわばっていたくらいだし。

「私と夫は、ここから馬車で三日くらい西に行った場所にある村で生まれ育ちました。そこで服の修繕とかの仕事をしていたんですが、ある日ワグネルさんが相談を持ち掛けてきまして…この街で開業してみないかって。なもので、二人で来ることに決めたんです」

 なるほど、店出して自分の腕を試したいってことかな。
 そしてあっちの方は夫…って事は、やっぱりこの二人は父ちゃんと母ちゃんだったのか。
「夫とこの店を開くときに考えていたんです。どんな服を作ろうかって。ほら、もうすぐこの長い戦争も終わるって噂じゃないですか、だから決めたんです、自由な色使いにしようって」

 そっか、だからこの店の服はみんな明るめの色にしてたのか。
「今はまだまだかもしれませんが、この街の皆さんが戦争って言う戒めから解き放たれたら、今みたいな暗い色の服って着ないんじゃないかなって思うんですよ。もっともっと…心の中まで自由になりたいんじゃないかって」
 彼女は、変ですか? って言って、怪訝そうな顔で俺の顔を覗き込んだ。だけど、こっちもどういう返し方をしていいのやらサッパリ分からない。自由とは言われても、今の俺には一番縁遠いものだしな。だからとりあえず彼女が喜びそうな答え方をした。

「その考え、いいんじゃねえか?」って。差しさわりのない無難な言葉だけどな。

「ありがとうございます! きっと息子さんも私たちの作った服、お気に召すと思いますよ!」
 いや、俺の子供じゃねえから。って頭の中で彼女に突っ込みを入れると、店の奥からチビの声が聞こえてきた。

「おとうたーん!」てってって、と小さな靴音とともに駆けてくる。

「どうですか、この子にぴったりだと思うのですか」そしてチビに続き、男の方も小走りで出てきた。
 …変なたとえかもしれないが、人間って服を変えるだけで、こうも別人みたいになっちまうのかな、って俺はその時感じたんだ。
 若草色のシャツにベスト、薄茶の半ズボンに革の小さな靴。確かに今まで着てたものみすぼらしかっただけなん
 だ。けど今のチビを一言で表すんだったら…
「すげえ、かわいくなったな…」。ふと俺の口から、無意識にそんな言葉が漏れちまった。

 軽くジャンプして、俺の手の中へとチビが飛び込む。
「おとうたん!」しかし服は変わっても、チビはチビだ。だから俺もぎゅっと抱きしめて、髪の毛をわしわしと撫でてやる。

「あの、もしよろしければ、お父さん。あなたの服もぜひ私たちがおつくりしたいのですが」
 代金を聞こうとしたとき、ふと男はそんなことを言ってきた。
 お揃いで、なんていかがでしょうか。って言うもんだから、俺はついつい自分の着ている、薄汚れたこのシャツをまじまじと見ちまった。
 …そういや、俺のシャツって何年も着っぱなしだったよな。暑さ寒さなんて全然気にしてないし、仕事へ行くときも寝る時もずっとこれ着たまんまだ。変えたほうがいいのかな? なんて迷いつつも、ついついこの二人の言葉にホイホイ釣られて「じゃあ頼む」と言ってしまった。もしかして俺って買い物下手なのかな?

 次に色はどうしましょうって聞かれた。そんなこと言われてもなあ。でも仕方ないから水色を選んださ。青空みたいで素敵ですよね、って彼女は言ってくれた。よく分からないけどそうなのか。素敵なのか。

 最後、店を出るときに代金として、俺は金貨を一枚渡した。これが妥当かなって思ってな。
 だけど前の武器屋のオヤジ同様「こんなにもらっていいんですか!?」って目をまん丸くして驚いてた。
 つーか俺もいまだにお金や物の価値ってモンが分からなかったりする。そんな勉強したことなかったし。

 さて変な寄り道食っちまったが、これでようやく俺の身体も軽くなる…
 胸に抱いたチビは相変わらずにこにこしながら、俺の顔を見つめ続けている…そうだよな、これからお前の仲間がいっぱいいる場所に行けるんだよな。さっきみたいなオンボロ服じゃ周りの奴らにいじめられちまう。これでいいんだ。

6話

 店を出て程なくして、俺の前に大きな建物と石造りの高い壁が見えてきた。
 これが教会兼孤児院か…壁の向こう側ではたくさんの子供達の笑い声が聞こえている。そうだ、ここならチビだって楽しく行きていける。

「じゃあなチビ、ここでお別れだ」そう言って俺はチビの服の胸元のポケットへ、手紙と一緒に包んだ残りの銀貨を突っ込んだ。もちろん俺が書いたやつじゃない。昨晩ジールが書いてくれたものだ。

 この手紙には、どこでこいつを拾っただとか、よろしくお願いしますだのの文が書いてあるらしい。

「ラッシュは結構口下手だしね、おまけに口より手が早いし」ってジールは言ってたな。
 バカ言うな。理由もなく殴ることなんてするかよ。あと銀貨なんてどうするんだ、って聞いたら、やっぱりこういう時には、ある程度のお金がモノを言うんだってあいつは答えてくれたな。モノを言う…? お金ってしゃべるもんなのか? よく分からん。

 さて、入り口の大きなドアの前には門番……なんて立っているわけがないから、俺はチビを置いてノックしようとした…が、何故かその手が動かない。どうなってるんだ?
 このドアを軽く叩くだけでいいはずなのに、それだけなのに、なぜなんだよ!
 俺は自分の拳をグッと睨み、問いかけた。

「このチビのためだろ! 俺なんかと一緒にいるよりいいに決まってんだ! そうじゃないと、そうでないと、チビは、こいつは…」昨日、初めてチビを目に止め、胸に抱いた時と同じ鼓動が、そしてその奥をギュッと締め付けられるような奇妙な感覚が、また俺に襲ってきた。息までつまって来そうだ。

 なぜだ…ドアをノックして、そのまま後ろを振り向かずに帰るだけでいいだけなのに。大したことないだろうが、簡単だろうが、なのに手も足も動いてくれないんだ。石にでもされたかのように、全身まで動かなくなってきそうなんだ。

 まるで、チビから離れるなと俺の身体が言ってるみたいに。

 地面に足の裏がひっついちまったみたいに、寒さでヒザが凍りついたみたいに動いてくれない。

 いや平気だこんなの。初めて剣持って戦場に出た時の軽い緊張と変わりないじゃねえか。深呼吸して、ゆっくりと手足を動かしてみろ、そうだ、その調子だ。大したことないだろ。ただの緊張だ。それが長く続いただけなんだから。ゆっくり、ゆっくりと…

「おとうたん…」その緊張に追い打ちをかけるように、チビが話しかけてきた。今にも泣き出しそうな顔で。
 よせよそんな顔。頼むからもうそんな目で、声で俺を呼ばないでくれ。

「やだ…」
 え、何が嫌なんだ? 俺か? 俺と離れることがそんなに嫌なのか?
「やだ! おとうたんいっちゃやだ!」
 おい…お前そこまでしゃべれるのかよ、だったら大丈夫だ、お前がそのドアを叩いて、中にいる人にお願いしますって一言言えばいいだけだ。だからもう、俺といたことは全部忘れるんだ。それがお前のためでもあるし、俺のためでもあるんだから…

「やだーーっ!!! おどうだんといっしょじゃなぎゃやだ!!!」動かない俺の手をギュッと握りしめ、チビは大声で泣きだした。すげえ声だ。耳だけじゃなく、頭の中の中にまでギンギン響いてくる。

 なんで俺のことがそんなに好きなんだ。親でもないんだぞ、人間でもないんだぞ!?
 そして耳をふさぎようにも塞げないそんな中、俺はふと口にしちまったんだ。今はもういない人のことを。

「親方…俺、どうしたらいいんだよお…」
 親方…そうだ、そういや親方だって人間だったんだよな。それに俺が買われた時は、確かチビと同じくらいだったはず。

 そうだ、今、チビは俺で、俺は親方なんだ。
 忘れもしないあの日。親方が死んだあの時、俺はただ一人残されちまった、これからどうすりゃいいんだって…思い切り泣いたじゃねえか。叫んだじゃねえか。そうだ、今のチビと一緒だ。

 そう思い返してみると、俺の口から無意識にぷっと笑いがこぼれてきた。そうだったよな、俺だって親方がいなくちゃなんにもできなかったんだ、俺はずっと、この歳になるまで親方しか見えてなかったじゃねえか。そしてチビ。こいつは昔の俺そのものなんだ。考えを変えるんだ

 俺が、こいつの親方になるんだ。

 新品の服を涙でぐしょぐしょにしながら、チビはひっくひっくと声をしゃくりあげている、泣きまくって声も枯れ果てたようだ。
 さっきの思いと一緒に、俺の緊張もようやく解けてきたようだ。そしてまたその腕で、俺はチビを胸に抱きしめた。

「悪かったなチビ…戻ろうか」

 空を見上げると。陽の光が少しだけ傾き始めている。

 トガリのやつ、今晩はなにを食わせてくれるのかな…

番外編「トガリのこと」

前編

 今から書くものは、僕の生きてきた今までの事だ。
 ……うーん、やっぱラッシュみたいにカッコよくは行かないかな?
 でもとりあえずはいろいろ書いとこうかなと思ってる、
 ラッシュはチビちゃんと一緒に文字を勉強し始めてから「日記でも書いてみっか」だなんて言い始めて、毎日食堂とか自分の部屋で書きものしてるしね。まだ全然読めないくらいヘタクソな字だけどさ。
 けど僕は内心ちょこっとだけ嬉しいんだ。あいつここのところ魂が抜けたみたいにボケーッとしてる日が増えてきたし。
 だから、戦い以外に打ち込めるものができたっていうのは、すごくいいことなんじゃないかな。それに僕もこの宿のほかに働き先ができたし。

 いや、生活していくのに十分すぎるくらいのお金は持ってるよ。あいつがくれた宝石、あれはどこの国へ行ったって法外な金額で売れるもん。おやっさんいわく、お屋敷が10件は建つくらいだって言ってるけれど、たぶんラッシュには金銭の価値なんて全然わからないだろうから過小評価で言ったんじゃないかって思えるんだ。
 僕の故郷のマーケットだったら、この宝石一個だけで……
 いや、ここに記しておくのはやめておこう。いつ誰に見られるのかも分からないし。

 さてさて、僕の夢は、自分自身で食堂を開くことなんだ。

 故郷で父さんのマーケットを継いで、交易して生きてゆくのもアリじゃないかって? それもそうだけどさ、僕はとにかく、自分の夢を試してみたかったんだ。
 採掘もマーケットもみんなやってることだ、ある程度の技能、それに勉強した知識を親や師匠から受け継いだら、それを続けていくだけで人生が終わるだなんて、そんなのはイヤだ。
 そのことで僕は父さんと大ゲンカした、一族の仕事を継がないヤツなんて、紅砂地の民の恥さらしだってね。だから僕はその夜こっそりと家を出たんだ。直射日光は僕らの敵だから、家出するんだったら明け方までしかないし。
 
 でも、母さんだけは分かってくれていた。
 僕が村の掟を破ってこっそり家を出る時は、いつもこの道を通っているもんねって、村の脇にある小道でずっと僕が来るのを待っていたんだ。
 お弁当と水、そして父さんに内緒でこっそり貯めていたお金。それに紅砂地族のお守りを僕にくれて、母さんはぎゅっと僕を抱きしめてくれた。僕が食堂を開いた時には、お客さんの第一号にしてくれるかい、ってね。
 だけど僕はそれを断ったんだ、母さんも目をまん丸くして驚いた、何故かって? ね。
「第一号なんかじゃない、母さんには数字でなんか表わせないからね」
 僕はそう言って村を出て行った。振り返るとそのまま泣いちゃいそうだから、母さんの最後の言葉は背中でじっと聞いてた。
「ドゥガーリ、どこへ行っても紅砂地の誇りを捨てるんじゃないよ」ってね。

 僕の名はトガリ。南の大砂漠に住む、誇り高き紅砂地族だ。

 そうそう、おやっさんやラッシュは僕のことをトガリって呼んでるけど、本当の名前は近いようでぜんぜん違う。僕ら紅砂地族の正式な発音だと「ドゥガーリ」なんだ。
 確か……意味は「先を拓く爪」って、名付けてくれたお爺さんが言ってたっけ。
 でも、僕らは人間や他の獣人たちとは舌や鼻の構造が特殊らしく、発音方法も全く違うんで、結局のところみんなには「トガリ」が一番言いやすいってことがわかった。
 
 僕らと少しでも会話したことがある人なら分かるけれど、最初の言葉が連続して発音されてしまうんだ。僕らは決してどもっているんだじゃない。紅砂地……いや、アラハス特有のしゃべり方と言っていいのかな。
 だからこの言い方は悲しいけれど治すことはできない。故に僕らアラハスは、マーケット以外での外部とのコミュニケーションはあまり行わず、ちょっと前までは幻の砂漠の民とまで呼ばれていたんだ。

 そうだ「アラハス」についても話さなきゃね。これは僕ら砂漠の民を総称した呼び名だ。そこから毛の色、採掘物の違いなどから呼び方が「紅砂地族」「藍砂地族」「金砂地族」の3つにわかれた。
 名前が違うからといって、僕らは差別とか揉め事を起こしたりはしない、アラハスの民はとにかく争いが大嫌いなんだし、それにリオネングにとっても、ましてやオコニドにとっても貴重な香辛料や貴金属がここでは採れる。ゆえに双方の国はアラハスに一切手を出してこなかった。ここはある意味中立国なのかもしれない。

 父さんと喧嘩したのも、実はそれが発端だ。

 物心ついた時から僕らは、香辛料や鉱石の採取法、鑑定、そして細工……
 それらを祖父から、父から、そして師から学んできた。僕は友達からも、家族みんなからも成績優秀だって褒めてくれた。
 だけど月日が経つにつれ、このままで本当にいいのかな? って僕は思うようになってきたんだ。
 小さい頃から僕は、交易に来るお客さんをもてなすため、母や姉が作っている料理を目で見て学んで、ときには手伝って作っていた。他所の国の見たこともない食材や、僕らの村で採れるスパイスをふんだんに使ってね。
 母もお客さんもとっても喜んでいたけど、父は「料理なんざ女の仕事だ」といちいち文句を言っては、僕と口論してた。けど学校の成績は一切落とさなかったから、いつもこの勝負は僕が勝っていたけどね、だから僕は決心したんだ、外の世界に出て、自分を試したいって。

 こうして僕は家を飛び出して行ったんだけど、紅砂地の……いや、アラハスの誇りは忘れちゃいない。

 例えば、僕がいつもかけているこのメガネ。今や目の悪い人には欠かせない存在だけれど、元はといえばこれもアラハスの技術が世界に広まったものなんだ。
 僕らは眩しい陽の光が苦手で、基本的に薄暗い場所か、もしくは夜間に仕事やマーケットを開く。それだからか、アラハスは生まれつき視力が良くないものがほとんどだ。
 そこで生まれたのが、特殊な鉱石を加工して作り出されたレンズ、そしてメガネなんだ。
 それだけじゃない、病気の時に服用する薬や、岩を運ぶ機材、加工技術の難しい宝飾品なんかも。
 この世界の技術は僕たち紅砂地、藍砂地、そして金砂地族から生まれたと言っても過言じゃない。そして僕がいつか自分の夢をかなえることが出来た時もね。それがアラハスの誇りなんだ。

 そして、行き倒れた僕を拾ってくれたおやっさん。無骨で、口より手が早いけど、何より僕を心配してくれているラッシュ。2人にはすごく感謝している。

 そう……ここからが大変だった。

 数百年に一度巻き起こると言われている大砂嵐に、僕は運悪く……いや、結局はそれも運命に導かれたのかな。
 それも家出した翌日に遭ってしまった。しっかり握りしめていたお守り以外、水も食料も飛ばされてしまい、おまけに陽の光から身を隠す場所すらないところを延々と歩き続けたものだから、僕は砂漠のど真ん中で行き倒れてしまったんだ。

 次に気がついた時、僕は馬の背に揺られていた。そう、それがガンデさん……ううん、おやっさんとの出会いだった。
 けど困ったことに、おやっさんは僕らアラハスのことを全く知らず、この僕の鋭い手の爪を見て「強そうなやつ」だと思って拾ってくれたらしい。
 僕は連れて行かれた彼のギルドの一室で、必死に説明をした。だけど「おめー、もうちょっと落ち着いて話せねーのか?」の一点張りだったよ。

 アラハスを知らない人にアラハスの説明をする……これほど難しいと思ったことはなかった。
 どうにも困り果ててしまったそんな時だった。
 突然僕の後ろのドアが勢い良くドン! って開いたんだ。そこに立っていた姿……最初にそれを見た時、伝説の泥の怪物でも現れたんじゃないかって、本気で思った。

 僕の背丈の倍以上の岩みたいな身体に、大量にこびり付いた血のり。
 
 丸太のような腕や背中のいたるところに刺さった無数の矢。
 
 そして、鼻面には白い十字の傷。

 それが、僕とラッシュとの初めての出会いだった。

 あいつは……うん、この時は疲れきっていたみたい。すごく気だるそうなしゃべりだったし眠そうな目をしてたしね。
 ようやく僕の方を向くと一言つぶやいたんだ。

「なんだこれ?」って。

 ちょっと! 「こいつ誰だ?」ならばまだ分かるけど、なんだはないだろ! 僕はモノじゃないんだから! ……って言いたかったけど、あいにく僕はその血と泥で汚れたモップのようなあいつにすっかり怯えていて、口からは何も出てはくれなかった。
 でもおやっさんおやっさんだ。返した言葉が「出先で拾ってきたんだ、使えそうだと思ってな」だって。ひどい言われようだ。
 まあでも、おやっさんには命を救ってもらった恩義はある。アラハスは受けた恩は忘れない。ましてやそれが命にかかわるものなら絶対にだ。そう、一生ね。
 だけど、僕は戦いなんて全くしたことがない。しかも全然言ってることを聞いちゃくれないし……本当に困った。
 なんて思っている時だった。
 突然ラッシュは僕の前の床にどん! と勢い良く座ってきたんだ。
 なんでいきなり? 目の前に椅子があるのに。しかも背中向けてさ。
「ちょうどいいや、これ、抜くの手伝え」
 ずれていたメガネを直してよく見ると、ラッシュの肩口には何本もの矢が刺さっている。

 ふっと、気が遠くなった。

 刺さっているとは言ってもそれほど深くはなさそう。だけど、その……
「ここんとこの一本、こいつだけ俺じゃ手が届かねえんだ、頼むわ」と言ってラッシュは、左肩に刺さっている矢を親指で指した。
 僕が躊躇している間に、あいつは他の部分に刺さっている矢を引き抜いている。
 案の定、抜いた屋の先には血がべっとり……また意識が遠のいてきた。
 でも、言われたからにはやるしか無い。やらなきゃダメだろうなきっと。
 僕は大きく深呼吸をして、刺さっている矢を両手でギュッと掴んだ。
 ……だけど、怖くってまともに見ることができない。初めての感触に手も足もガクガク震えてきた。
「そんな深くないだろ、なにビビってんだ、ほら」しびれを切らしたおやっさんが、僕の手を取り、一気に矢を引っこ抜いた。
 抜かれた矢の先からぽたりと落ちた血のしずくが、僕の鼻先にこぼれ落ちる。
 
 その直後、張り詰めていた僕の意識は、ついに切れた。

 こうやって思い出して書いていても、未だにあの気持ち悪い感触は僕の手の中に残っている……
 でも、あの時が僕とラッシュの初めての出会いだったからね、ちゃんと書かないといけない。

 さて、そんな僕がどうやってこのギルドで働くことができたか。それに関しては本当にアラハスの神に感謝しなくてはいけない。
 コックとしての力を与えてくれた、我らが紅砂地の神様にね。

後編

 次に目が覚めた時、僕はベッドの上だった。
 そばに置いてあったメガネをかけて周りを見渡すと、どうやらここは来客用の部屋っぽいなってことが分かってきた。全く使われた形跡がない。うっすらホコリが積もっている小さな鏡台にクローゼット、そしてベッドだけの簡素な部屋だ。
 窓から差し込む日差しで、僕はああそうか、あの大男の肩に刺さった矢を抜いて、そのまま気絶しちゃったんだっけ……って、あの嫌な思い出が一気に脳裏によみがえってきて、また気分が悪くなってきた。
 でも間違いない夢じゃないんだって。頭をぶるんぶるんと振って意識を今一度整えた。

 でもやっぱり昨日同様足が重い……
 僕はこれからどうすればいいんだろう。いや、なんて説明をしたらいいんだろう。 
 いや違う、まずどこをどうやって話したらきちんとあの人に聞いてもらえるんだろうか。アラハスのこと? それとも僕の家出の理由から?
 どちらにせよ、早くしないと僕はあの大男のように戦争へと駆り出されてしまう。それだけは嫌だ! 武器なんて今まで手にしたこともないし、それより僕は昨日みたいに血を見ただけで卒倒しちゃうんだし、やっぱ全部無理だ、ここから逃げようか、じゃないと僕は……!

 なんていろいろ考えていたそんな時だった。
 足元……いや、床下から金物をひっくり返すような音と、それ以上に大きな怒声が響いてきたんだ。
「ざけんなあの野郎! どこへ逃げやがった、出てこい!」

 これってひょっとして、僕のこと?
 
 恐る恐る下の階へ降りると、昨日僕がいたあの食堂で、おやっさんが一人、肩で大きく息をしていた。
 足元には壊れた椅子やひっくり返った鍋やフライパン。
 僕は柱の陰からじっとその姿を見ていた……いったい何があったんだろうって震えながらね。
 でもあっちのほうが一枚上手だからか、僕が見ていることはとっくにばれていた。
「おいチビ助、そこにいるのは分かってんぞ、何もしねえから出てこい」やっぱ気配って感じられやすいのかな。

 僕は意を決して聞いてみた。なんで怒っているのかってね。紅砂地なまりを極力出さないように、ゆっくりと。

「逃げやがったんだ、ウチの専属のコックがな」

 おやっさんは頭を抱えながら、昨日のラッシュみたいにドスン! と大きな音を立てて床に座り込んでしまった。
「今日の昼すぎ、俺の仲間が久々に飲みに来る……何十年ぶりかだってえのによ、それなのにあの野郎、給料前借りした挙句トンズラしやがった! 前々から様子はおかしかったが、ここまでするとはな」

 様子が変とはいったい、どういうことなんだろう。
 
「金には不自由させてねえさ、給料のほかにきちんと食材の金も十分すぎるくらい渡してるしな。だがあいつはそのカネまでも夜な夜な賭け事に使っていやがったんだ。ちょっとまえにウチのデカ犬が、メシがここ最近マズくなってきたって文句言って、厨房で大喧嘩してな。あいつはデクの棒な割には結構メシにはうるさいんだ。だから俺も気になって気づかれないよう調べてみた。案の定奴はひとつ向こうの町にある酒場で騒いでやがったわ……連れ帰って締め上げて、一発殴り飛ばした。改心したのかもう二度とやりませんって泣きながら謝ってたんだけどな……あのクソッタレが!」

 なるほど、それが元で、あるいは賭け事がやっぱりやめられなくなって逃げちゃったってワケか。しかし、今日の来客のおもてなしはどうするんだろう。
「酒はしこたまあるんだがな、いかんせんメシ作るやつがいなきゃ話にならねえ……困ったモンだ」そう言っておやっさんはタバコ臭い溜息を一つついていた。

 食事か!

 ふと、僕の頭の中で一つのひらめきが浮かんだ。いや、これは賭けだ。汚名返上だ。そしておやっさんへの恩返しでもある。
 試してみる価値はある!

 どうしようかってブツブツつぶやいてるおやっさんの背中に。僕は言った。
「よよよよかったら、ボボボボクがしし食事作りましょうか?」ってね。

 お前がか? っておやっさんは目をまん丸くして驚いてた。あの時の顔、今でも忘れられない。

 幸いにも僕が起きた時間は早かったみたい。お昼までにはまだ十分に時間がある。
 おやっさんに聞くと、仲間は総勢10人くらいだそうだ、ならば僕の得意な料理をとにかく大量に作らないと!
 厨房に駆け込み、使える食材があるかどうか探してみた。だけどわずかな野菜くらいしか残されていない……
 こりゃ買出しに急いでいかないとダメだってことで、その旨おやっさんに説明したら、革袋に詰まった銀貨をすぐに僕にくれた。よかった、信用してくれているみたいだ。

 それともう一つ付け加えてくれた。「荷物運びでも力仕事でも、必要ならあのデカ犬をガンガン使え。あいつは頭は悪いが馬鹿力だけはあるからな」だって。
 助かった。僕一人じゃ10人分の食材なんて持ち運ぼうとしたらすごい時間がかかってしまうし。だから僕は大急ぎでまた二階へと向かった。寝室で眠っているデカ犬……じゃない、ラッシュを起こしに。

 おやっさんが教えてくれた部屋の前まで行くと、ドアの向こうから大きないびきが響いてきた。驚かさないようにゆっくりと扉を開けると……

 く、臭い……!

 真っ暗な部屋の中に、使い古されたモップをたくさんため込んで、そのまま何年も放置していたんじゃないかってくらいの、僕の繊細な嗅覚がひん曲がりそうになるほどの臭さ。そんな中であいつは大いびきをかきながら眠っているんだ。
 息を止め、部屋の窓全てを開ける。彼の名前なんてまだ知らないから、とにかく起きてと叫んだ。何度か耳元で怒鳴りつけてようやくあいつは目を開けてくれた。

 しかし泥で汚れまくりのベッドといい、ゴミの散らかりまくった部屋の床といい、とどめに彼の臭いといい、いつかきれいさっぱりとしてあげなきゃって。
 僕はその時、心に誓ったさ。
 けどいまだに実現してないけどね。あいつ強情だし。

「なんだよ親方ぁ……仕事終わった後は一日寝かせてくれるってぇ約束だろぉ」
 まだ寝ぼけてるみたい。というか、あの人のことは親方って呼んでるんだね。
 ともあれ、僕がさっきの経緯を一生懸命説明すると、あいつかようやくその汚れたモップのような身体を起こしてくれた。
 時間がないんだ。僕は昨日ここへ来たばかりだから、買い物をしようにもどう行けばいいのか全然わからない。10人分の食事を一人でお昼までに作らなきゃならないんだ。もちろん君もおなかすいてるでしょ。ってね。
「親方の会合が終わったら、メシたっぷり食わせてくれるんだろうな?」
 僕の説明が終わるや否や、あいつは大あくびをしながらそっけなく答えた。もちろん、おいしい食事だよって。
「結構腹減ってるし、それに親方が困ってるンならとっとと行かねーとな……よっしゃ!」
 するとあいつは突然僕の襟首を掴んだんだ、まるでバッグでも持つみたいに。
 そして……
 ここ、二階だっていうのにさ! 窓から飛び降りたんだよ。
 いくらがっしり掴まれてるとはいえ、一気に血の気が引いた、何なんだよこいつ、昨日も今日もハラハラさせて!

「さて、どこの店に行くんだ? 肉屋か? それとも野菜か?」
 ずれていたメガネを慌てて直す僕に、今度はあいつの方から聞いてきた。
「にに肉屋から先に行こう。っていうかさ、きききみの名前まだ聞いてなかったんだけど?」
 すっかり忘れてたんだ、まだ彼の名前全く聞いてなかったことにね。

 すると、走ってたあいつの足がピタッと止まった。

「そんなのねえぞ」

 へ? 無いって一体どういうことなのよ、名無しでずっと生きてきたっていうのかい?
 ……でも、そういえばおやっさん、彼のことはずっとデカ犬とかバカ犬って呼んでたっけ。まさか本当に名前を持ってなかったのかな?
「ンじゃあよ、お前は何て呼ばれてるんだ?」
「ぼぼぼ僕のなな名前は、ドドド、ドゥガーリっていうんだ!」
 焦ってついつい、いつもの訛りが出てしまった。
「……変な名前してンな、うーん……よし、チビメガネ。いや、メガネでいいか!」
 ちょっと、そんな変な呼び方勘弁してよ! とは言ってもあいつは妙にその名前が気に入ってしまったらしく、以降しばらくの間、僕はメガネという名でこのギルドで暮らすことになる。もう、大好きな名前なのに。 

 メモはあいにく砂嵐で無くしてしまったけれど、大丈夫。僕の頭の中にはこういう時のレシピくらいは全部記憶している。
 来客の時。お爺さんの200歳の誕生日、妹が生まれたとき……
 僕があの時に作った大皿料理や煮込み料理を振る舞えば絶対いける!
 まず一品目は……そうだな、串焼きにしよう。鳥にするか、オーソドックスに豚にするか。そして次はさっぱりと、川魚の香草蒸しなんかいいかもね。この街の魚屋に大きくて新鮮な魚があればいいんだけど。
 付け合わせに蒸かしたジャガイモかパンも用意しなきゃね。それで盛り上がってきたら最後に大鍋料理だ。トマト、タマネギ、豆と肉…最後の決め手はアラハスの特製スパイス!

 ……あ、そうだった。

 すべての買い出しが彼のおかげでスムーズに終わって、キッチンに戻った時、僕はようやく思い出した。
 紅砂地、いや、アラハスの食そのものを代表する最高のスパイス「ガダーノ」を持ち合わせていなかったことに。
 旅に出る時、僕はリュックに入れてたんだ。だけど……
 そう、砂嵐ですべて飛ばされ、無くしてしまった。とても貴重な、神の香辛料とも称されるガダーノ。
 僕らのいる地でしか売買することが許されていない、とっても、とっても貴重な……
「ダメだ……」両足から、ガクンと力が抜けてしまった。
 僕の隣ではあいつが、これどうすんだメガネ。って大きな寸胴鍋を片手に聞いてきている。だけど今の僕には、メインディッシュをどうすればいいかで、もう頭の中がいっぱいになっていた。
 
 自分が買って出た、ここ一番の大舞台でつまづくだなんて、今の今まで僕を信用してくれていたおやっさんに申し訳が立たない。
 まぶしい陽の光が窓から照り付けてきた、じりじりと時間が迫ってきている。
「どうしよう……母さん、アラハスの神様……」
 僕の手は、無意識に首から下げていたアラハスのお守りを握りしめていた。
 旅立ちの夜に母さんがくれた、あの小さなお守り袋に。

 その時だった、僕の鼻先に懐かしい香りが漂ってきたんだ。故郷で何度も嗅いだことがある、身体の奥底から力が湧き上がってくるような、熱い香り……!
 間違いない、これはガダーノだ! だけど、一体どこから……?
 僕の周りを嗅覚を思い切り働かすと、それはどこでもない、僕の手のひらだった。
 でもなぜ? ガダーノなんて触った覚えもないのに。
 
 じっくり思い返してみる。手のひら……そして、お守り……
 そうか、このお守り袋だ!
 すぐさま袋の中身を開けてみると、擦り切れた紙包みの中から、一粒の大きな種がころりと転がって出てきた。

 ああ、これはガダーノの種子だ! 僕は確信した。
 本来なら料理に使うのは実を乾燥させたものなんだけど、種子の中身でも十分代用できる。
 この紙包みが破けたことで、ガダーノの種が外気に触れて香ったんだ。母さん、そしてアラハスの神に感謝します!

 ……って祈ろうとしたところ、紙包みにうっすら文字が書いてあるのが見えた。これ以上破けないように、そっと紙を開いてみると……

 ー道は種の中にありー

 紙に記してあった文章。
 この字……間違いない。これは父さんだ!
 
 僕たちアラハスの男は、長い爪にインクをつけて文字を書く。だから書き方も独特。人によって様々。だからこれは父さんの文字だなって僕は一目でわかったんだ。
 父さん……あれほど僕のやることに反対していたのに。
「ありがとう、父さん」思わず泣きそうになるのをグッとこらえて、僕は食事の支度へと取り掛かった。
 時間は刻一刻と迫ってきている。まずは料理に集中だ。
 胸の奥底まで大きく息を吸い込み、いざ開始!


 その時の僕の様子を、おやっさんとラッシュは話してくれてたっけ。
「ありゃ戦ってる時の目だな。今までずっととろんとしていた目つきだったっていうのに、いざ準備となった途端、動きが豹変しやがった。野菜を切り刻みながらフライパンで肉を焼きつつ、魚の下処理をして、でもって鍋の火加減を全部同時にやってたしな。しかもあのデカ犬に命令までしてたんだぜ、命令をよ!」
「いや、正直メシ作ってた時のメガネは怖いって感じたわ……アレやってる時は親方以上に逆らえねーよ。何話しかけても耳に入ってないみたいだし」

 種を継ぎ目に沿って丁寧に割ると、中からきめの細かな茶色い粉が。
 その香りだけで全身から汗が噴き出し、心臓は大きく高鳴り、身体中の血が熱くなる、これは魔法のスパイス。これだけあれば10人分くらいは楽にまかなえる。
 あらかじめ仕込んだスープで煮込んだ肉が下の上でとろけるくらいに柔らかくなってきた頃、外からたくさんの人の声がしてきた。

 よし、間に合った!

 大所帯が来るやいなや、すぐさま宴会は始まった。壁の隙間から確認してみると……
 よかった、みんな喜んで食べてくれているみたいだ。
 でも最後のガダーノを効かせた大鍋を出す直前、僕の張り詰めていた意識は一気に切れてしまった。
 無理もない、短時間であれほどの量の食事を一人で切り盛りしたことなんて生まれて初めてだったから。故郷じゃいつも母さんや親戚の人と手分けして、何日も前からした準備してたくらいだし。

 あ、そうだ、そういえば、ガダーノの種子から採ったスパイスって、確か……

 

 僕がまた目を覚ました時、外はすっかり日が暮れていた。
 おやっさんはというと、散らかったテーブルの上を片付けている。
 そうか、僕が眠りこけている間に宴会は終わっちゃったんだ。できれば僕の作った食事の感想をぜひとも聞きたかったな……
「おう、ようやく起きなさったか、本日の主役!」
 起き上がった僕を見たおやっさんが、満面の笑みで僕の頭をパンパンと叩いてきた。でも、僕はまだまだ喜ぶには早い。
 これからが本当の勝負だ。僕はおやっさんの前に座り、両手をついた。
「おおお親方さん、ぼぼぼ僕の一生のおおおお願いです!」一生のお願い、そう、それは……

「ぼぼっ僕をこここのギルドの食堂で働かせ……て!」
 生きてゆく途はこれしかない。戦うものとしてではなく、ここでコックとして働いていくこと。他には何も残されてはいない。僕の唯一の特技に、全てを賭けていくしかないんだってことに。
 自信を持て! さっき以上にだドゥガーリ!
 
 だけどやっぱり無理だ、声が続かない。厨房であれほどまでに威勢を張っていたというのに、いざとなると怖気づいてしまう。
「ばかやろう、今さら何言ってんだ。まず礼を言うのはこっちじゃねえか」
 僕の方は小刻みに震えている。でもそれをしっかり支えていてくれているのは誰でもない、目の前にいるおやっさんの大きな手だったんだ。
「確かにおめえは戦いには全然向いてなさそうだしな。そんだけ武器になりそうな爪が生えてるっていうのに、肝っ玉は小せえときやがる。だがな……」

 そうだ、僕はあのラッシュみたいに強くも大きくもない……

 おやっさんはひざまずいた僕の目の前に、大きな寸胴鍋を持ってきてくれた。
 僕がさっきまで料理で使っていた鍋だ。だけど今はおやっさんが片手で持てるくらいに軽い音がしている。

「中を見ろ、今日来た連中が全部平らげちまったぞ、あんなになみなみと作ったっていうのに、玉ねぎのかけらすら残っちゃいねえ。まあ、正しく言えば、あそこで居眠りこいてるバカ犬が残っていたのを全部食っちまったんだがな」おやっさんが親指で背後をくいっと指した。
 その先にはラッシュが、ソファの上で大いびきをかいて寝ていた。

「あいつはな、ああ見えて結構舌が肥えてるんだ。今まで何人もの腕自慢のコックがヤツのせいで辞めさせられたことか……こっちの懐事情も考えねえで」

 そうなんだ、全然そんな感じには見えなかったけどね。ただ力持ちなだけで。
「まあ、でもこれでわざわざ新しいコックを雇わずに済んだってワケだ」親さんの煙草臭い大きな手が、僕の頭をなでてくれた。
「いいかメガネ。今言ったとおり、俺んトコのギルドはあんまり金が無い。それとお前を行き倒れから助けた分も含めて、当分の間は給料ナシだぞ。まあ嫌とも言わせねえけどな」

 それじゃあ……僕は合格ってこと⁉ ここで働いてもいいってこと?

「その代わり、あいつがメシでちょっとでもヘソ曲げたりでもしたらタダじゃ済ませねえからな、それだけはきっちり覚えてろ!」

 わかった、頑張る……僕、ここで一生懸命頑張るよ!
 そう決心した途端メガネの奥から涙が溢れ出てきた。
 嬉しかった。今まで生きてきた中で……最高の喜び。
 アラハスの、紅砂地の、母さんの、父さんの、そしてラッシュとおやっさんのすべての出会いに感謝しようと思ったら、急に涙がとめどなく流れてきちゃったんだ。
 床が、メガネが、もうびしょびしょに濡れちゃって前が見えない。
「ほら、そうと決まったらさっさと掃除手伝え! 後片付けも仕事のうちだぞ!」
  早速おやっさんの大きな声が飛んできた。

 そうだ、これから僕はここでコックとして働くんだ、目一杯頑張らなくちゃ!
 涙を無理やり押しとどめて僕は立ち上がった。これからが僕の新たな人生のスタートだ。

「おっと、それはそうとお前の名前はなんて言うんだ?」
 ふとおやっさんの足が止まった。そうだ、昨日の時はまともに聞いてはくれなかったし、今度はちゃんと覚えてもらえるだろうか?

「ぼぼっ、僕の名前はドドド…ドゥガーリです」

 その言葉に、おやっさんのため息が。
「面倒臭え名前だなあオイ、わかった、トガリで行くぞ、トガリで!」
 ちょっとまってよおやっさん、きちんと呼んでよ!

 …………………………………………………………………………………………………………
 床をモップがけしながら僕は思い返していた。ガダーノの種のことを。
 実からではなく、種子から採ったスパイスには、実は秘密があることを後で思い出したから。
 今考えると、僕はとっても危険なことをしてたんだなって思う。下手したら僕の命もなかったかもしれない。

 今はもうここのギルドでの仲間だけど、以前は僕の故郷でのマーケットの常連客だった、白毛イタチのルース。あいつとは年齢が近いせいもあってか、すぐに友だちになれた思い出がある。
 最初にあいつの職業を聞いた時全身の毛が逆立っちゃったよ。
 僕の仕事は暗殺業だってね、こっそりと言ってくれた。

 そんなルースが、ガダーノの種を買うときに話してくれたんだ。

「ガダーノは言わずと知れた神のスパイスさ。めったに取ることができない……稀少性はおろか、強烈な辛味を持った食欲増進効果と無限に広がる深い味わい。いや、それだけじゃない。こいつを精製すれば不老不死の妙薬にもなるって言い伝えもあるしね」
 ーだから高値で取引されているんだね。
「うん、でも僕が欲しいのはこっちじゃない、種から取れるタイプのガダーノさ」
 ーえ、でも父さんから聞いたよ、あっちは実から作る方より若干味が落ちるって。それでもいいの?
「大丈夫さ、人間にはそこまで細かい味の違いなんてわかりゃしない。僕が必要なのは、種ガダーノの「悪魔」の部分なんだ」
 ーえ、悪魔?
「そう、実は神、種は悪魔……何故かっていうと、こいつを加熱して摂取すれば、胃の中の酸と結合して猛毒へと瞬時に変化する。食べた人間は、即座に血を吐いて即死するんだ」
 ーえええ、そんな効果がガダーノにはあったの⁉
「だけど、こいつには唯一欠点がある。それは酒だ。あらかじめ酒に浸したり、混ぜたり、食前酒を飲んだあとに摂取すれば大丈夫。無毒の普通のガダーノになってしまうんだ」
 ー使いどころが難しいんだね……
「ああ、だから僕はこれを依頼者に渡す時、きちんと説明もするし、選択権も与えるんだ。作り手側に余地を与える……僕のちょっとした優しさなのかな、なんてね。ふふっ」

 熱も加えていた、けど宴会のみんなは酒豪だったから助かったようなものだ。それにこれをおやっさんやラッシュに話してしまったら、間違いなく僕はここから叩きだされていたことだろう。
 だから胸にしまい……いいや、忘れないようにここに書いておく。

 

 これで、僕の話は終わり。
 もちろん今に至るまでにはまだまだ色んな話があった。ラッシュと大げんかしたりとか、ジールと初めて会った時とか。
 いつかは話すことがあるかも知れないかな。

 いや……もうちょっと時が経って、僕が大きくなった時かもしれないかな。

 ……そういえば、ラッシュはあの宴会の後、鍋に残った特製煮込みをみんな食べちゃったって言ってたっけ。
 たしか、ラッシュって酒が一滴も飲めないはず、ジールも言ってたし、おやっさんに至っては「酒に頼ったり溺れたりするのは自堕落の証拠だ」ということで絶対に飲ませないと話してた。まあ飲めないから意味はなかったけど。

 だから……その、酒なしであの料理を食べたってことは……

 ……なんで!?

 なんでラッシュはガダーノの毒が大丈夫だったのさ!?

 

 トガリのこと。 終わり

ジールの涙

7話

 家へと近づくにつれ、トマトの香りが俺の鼻をくすぐってきた。
 しかも嗅覚が鈍い俺でも分かるくらい、大量のトマトを煮詰めている匂いだ。でもなんでこんなにたくさん…?
「おおお帰りラララッシュ」ドアを開けるやいなや、奥の台所からトガリが小走りでやってきた。
 愛用のオーバーオール兼エプロンが、まるで返り血を浴びたかのように真っ赤に染まっている。いや、血じゃない。これはトマトの汁だって事はな。

 俺はトガリにこの大量のトマトの使い道を尋ねようとしたんだが、先に話しかけてきたのはあいつの方だった。
「やややっぱりね、ぼぼ僕、こここうなるんじゃないかって思ってたんだ」
 オイ待て、それって一体どういうことだ?俺は聞き返した。
「ラララッシュがね、チチチビちゃんと一緒に帰ってきちゃったってこと」
 そんなことはねえ。俺はこいつさえ泣きわめかなけりゃ孤児院に預けてったぞ。そういい返した。でもトガリは笑みを浮かべながら、首を左右に振った。
「ううん、わわわかるんだ僕には。チチチビちゃんはラッシュを必要としているし、ラララッシュはチビちゃんを手放したくなかったんだ、ってね」
 ンなことはねえ! といつも通り俺はトガリの頭をゴン! と一発殴った…

 その時だった、足元にいたチビが、ゴン!と思いっきり俺の足先を踏んづけてきやがったんだ!
「いでえ!」と思わず俺は反射的に飛び上がっちまった。トガリも同様に驚いてる、メガネの奥の目をまん丸くしているし。

「とがりぶっちゃだめ!」
 俺に向かって怒っているような…いや、今にも泣き出しそうな顔で、チビは俺の顔をキッと睨みつけていた。
 ってオイ、なんでチビが口出すんだよ、トガリを殴るのはいつものことだ。別にお前を殴ったわけじゃないのに、なんでそこまでして怒るんだ?
「チチチチビちゃんにはわわわかるんだよ、やややっちゃいけないってことがね」トガリが自分の頭をさすりながら、もう片方の手でチビの肩に優しく手を置いた。

 トガリは驚くくらい誰よりも長く鋭い手足の爪を持っているが、それ以上に驚くくらい誰よりも手先が器用だ。
 この手で肉や野菜を包丁で切ったり、盛り付けたり、普通の指を持つ人と変わりがないんじゃって思えるくらい、この長く太く鋭い爪を駆使している。

「とがりー!」そんな長い爪に、チビは笑顔で頬をすり寄せてきた。一転して、笑顔で。
「ほほほらね、チチチビちゃんはいいことと悪いことがすすすぐに分かるんだよ」
 そっかあ? 俺はトガリの頭を殴ることなんざ日常茶飯事だと常々思っている。別にトガリのやつも抵抗しないしな。
 そうそう、こいつの頭はめちゃくちゃ硬い、岩石以上に硬い。正直殴っている俺の手のほうが痛いくらいだし。

「ララララッシュにはまだわからないと思うけどさ、おおお親の悪いことは絶対見逃すことがでででできないんだよ、チチチビちゃんはとってもいいいいい子なんだ」

「とがりだいすきー」チビのやつ、今度はトガリの方に懐きやがった。ふたりとも同じくらいの身長なんで、まるで兄弟のように見える。
「ぼぼぼくはきききっとチチチチビちゃんには友達のようにみみみ見えるんじゃないかな」と、トガリは言った。
 どうなんだろうな、ルースに会わせてみたら、今度はどういう反応するんだか…

 なんて考えているうちに、俺の腹がぐぐうと轟音を立ててきた。そうだ、チビと一緒に食ったリンゴだけじゃねえか、昼に食ったの…めちゃくちゃ腹減った。

「ところでトガリ、このすっげえトマトの匂いはなんだ?」とりあえず俺は例のトマトのことを尋ねてみた。
「そそそうそう、ララララッシュと入れ替わりでジールが来てね、おおおお仕事紹介してくれたんだ!」
「仕事?」
「ううううん、だだだだってさ、よよよ傭兵の仕事なんてもうここのところさっぱりじゃない? たたたしかに蓄えはあるけどさ、いいい一応これからのためにもててて手に職は持っていたほうがいいもん」

 手に職…か、そっか、以前親方に話してたな。トガリは食堂開きたいって…だからなのか。

「こここここからちょっと離れたところにある酒場がね、今度からお昼に食堂をやることにななななったんだって。だだだからご飯作るの上手な人を募集してて、そそそれをジールが見つけてぼぼ僕に教えてくれたんだ、そそそそしたら仮採用ってことでさ、明日団体さんがくくく来ることになったから、まずはテストとして肉団子のトマトシチューを20人前作ってくれっていいい言ってきたんだ」

 トガリはそう言って、俺専用の大きなスープ皿に、その肉団子シチューをこんもりと盛ってきた。

「さささあ、たた食べてみてよ」めったに見せない自信に満ちた顔で、トガリは俺に皿を差し出してきた。
 チビは…というと、俺の半分にも見たない大きさの小皿に、ちょこんと同じシチューが盛ってある。

「だだ大丈夫だよ、チチチチビちゃん専用に肉団子は小さくしてあるから」
 準備周到だなトガリは。

 俺が一口目を口にする前に、チビのやつは昨日と同じように、皿を抱え込むようにがっつき始めていた。
 相変わらず汚い食いっぷりだけど…まあ、いいか。

「いいいつかチビちゃんにもテーブルマナーを教えないとね、こここれじゃラッシュが2人いるのと変わらないもん」
 トガリのその一言に、俺はもう一発殴ろうかと思ったが、さっきのチビの逆襲のことを思い出してやめた。

 今はまず、トガリの特製シチューを腹におさめるのが先だ 。
 チビと二人でトガリの特製シチューを食っていると、ふと俺の背後から「よっ、どーだい調子は!」と、酒臭い息が抱き着いてきた。
 一瞬俺は焦ったが、ああ、ジールだなこの声と感触はってすぐに察した。

 いつもそう。どんな場所であろうとこいつは足音、爪の音ひとつ立てない。この仕事を続けていて、どんな気配や殺気だろうと逃さない俺ですら無理だ。
 しかし今のジールはとんでもなく酒臭え。以前親方が言ってたっけ、こいつは底なしの酒飲みだって。いくら飲もうが顔色一つ変えやしねえし、ブッ倒れることもない。とどめに翌日も二日酔いにならずにピンピンしてやがる。筋金入りの酒豪だ…ってな。
 親方も結構な酒飲みだったって話だが、こいつはさらに上をいく。まったく酒がダメな俺にいわせりゃ、ある意味誰よりも恐ろしい存在かも知れねえ。

「どうだったぁン? トガリぃ。今日の結果は?」今度は向かいの席に座っているトガリにベタベタと抱きつき始めた。
「ままままだかかか仮採用だけどね、でででもって明日テストするんだ、あああありがとうジール」
「やぁっぱりぃ~! らってトガリ最高のコックさんらもん、不採用にされたら、あたし怒鳴り込んでやるもんね~」
 ろれつの回らない言葉と酒臭さに、当のトガリもうんざりとした顔になり始めている。

 だけど、酒豪のこいつがなぜここまで飲んでいるんだか…相当な量じゃないのか? 俺はダメもとで思い切って訪ねてみた。
「ん~とね、いいこと半分、わるいコト半分。あ、でもね、ラッシュにはどーでもいいことよ、まああたいたちにしてみたら、にゃ」
 相変わらず謎かけみたいな答えで返してきやがった。酔っぱらってんだからしょうがねえかな。

 そしてジールの視線は、俺の隣にいるチビへと向けられた。
 目を合わせ、寂しげにふう、とため息ひとつ。

「そっかぁ…やっぱダメだったか…まあでも大丈夫か、なんてったって…」ジールはチビを抱き上げ、その小さな身体をギュッと、自分の胸にうずめた。
「ラッシュがこれから一人前のおとーちゃんになるんだからねー! だからチビもこのバカ犬を見習って立派な大人になるんだぞ!」ジールの柔らかな抱擁に、チビは心なしか喜んでいるように見える。うん、やっぱりそうだ、よく見ると口元がにやけているし。

「ん~、じゃあ新しい仲間が加わったことだしさ、入団式、しよっか?」チビを抱きしめたまま、ジールはけたけた笑いながら言った。
「ににに入団式!?」
「そう、トガリもここ来た時やったでしょ、おやっさんと」ジールは手のひらをトガリに向け、ハイタッチを仕掛けてきた。
 …って違うだろ。親方はそんなことしなかったぞ、トガリも戸惑ってる。
「ジジジジール、こここれ違うんじゃなかったっけ。こここれはたたただのハイタッ…」
「そうらったっけ~? 昔のことだからすっかり忘れちゃった~にゃははは」

 と言うや否や、今度はテーブルにドン! と突っ伏していきなり爆睡を始めた。なんなんだこいつは。
 ジールの胸に潰される寸前だったチビを救出し、とりあえず俺はこの泥酔ネコを寝室へと連れていくことにした。
 やれやれ。もっとシチュー食いたかったのにな…こいつのおかげですべてぶち壊しだ。

 変な表現かも知れないが、ジールの身体は「軽いけど重い」。身軽なんだけど、重いんだ。
 なぜかというと、こいつが着ている服の中には何十本もの投げナイフや、小さなボウガンが隠されている。それを着たまま、普段の生活はもちろん、隠密行動の仕事もできるんだから大したもんだ。

 そんな重くて軽いジールを両手で抱き、俺は二階にある個室へと足を運んだ。
 さっきのはしゃぎようと打って変わって、小さな寝息をすうすうと立てている。
 …こっちも悪酔いしちまうんじゃないかって思えるくらいの酒臭さだけどな。

 まっすぐな廊下を突き進んだところに、来客用の個室がある。ジールは俺らのギルドに属してはいるが、基本的にここでは寝泊まりしない。
「嫌だって、こんな男臭い部屋に居つくなんて」と言うのがあいつの言い分だ。
 だからいつも別の場所に宿泊しているらしい。それがどこなのかは誰も聞いたことがねえけど。

 ただ、この部屋なら来客用だし、毎朝トガリがきちんと掃除とベッドメイキングをしてくれている。ジールも文句は言わないだろう。
 大きな木製のドアをそっと開けようとした、その時だった。

「ウェンダ…」
 ジールの薄い唇が、かすかに動いた。俺の知っている名前じゃない、誰か別の仲間のことか?
「ウェンダ…あたし、間違ってないよね…」ジールの瞳は閉じたまま。そう、こいつは寝言言ってるんだ。
「こんなあたしでも、嫌いになったりしない…よね?」ふと、ジールの目から一筋の小さな涙がこぼれ落ちた。
 ジールの涙……無論、俺は初めて見た。

 昨晩親方のことを思い出して涙を見せちまった俺だけど、こいつにも泣いてしまうくらいの思いを馳せている相手がいるのか。そいつの名前がウェンダっていうのかな。心の奥で俺は考えながら、ジールの涙を、俺はそっと指で拾い上げた。

 そしてあの夜、俺の流した涙をジールが舐めてくれたみたいに、自分もその涙を…あいつの涙を、ぺろっと口に含んでみた。
 つい、好奇心に駆られちまって。
 …甘い。そんな気がした。

 涙の粒は口の中ですっと消えた。
 そのほんのちょっとの瞬間、蜂蜜の甘さのような、砂糖の甘さのような…なんとも言えない甘さの感覚が、舌ではなく、俺の胸、いや心の中にほんのり残って、だけどそれもまたすぐに消えてしまった。

 奇妙な気持ちを抱えつつ、俺は静かにジールをベッドへと寝かせた。

 彼女の寝姿を今一度確認してみる。うん、やっぱ起きてるはずねえよな、って。そうして俺は静かにドアを閉めた。

「女の涙…か」ふと、俺の口から意識もしなかった言葉が漏れ出て、そして暗がりの中へと消えていった。

 

ラッシュ、勉強する

8話

 ルースのやつが俺を教育してやるだなんて言ってきやがった。しかもチビと一緒に。

「うっわー、ゴミ溜めみたいな部屋だなあ…よくこんな場所に…ぐはっ!」
 いつも俺はトガリの作る朝食の匂いで目を覚ます。基本的にオレの部屋へは誰も入れさせない。唯一の例外がチビだけだ。

 戦場では常に気を張ったまま眠っていた。夜襲に対応できる意味も、もちろんある……
 が、最大の敵はすぐ回りにいる、自称「仲間」だ。
 理由は聞かなくても分かるだろ? 寝首をかく奴らはみんな獣人を毛嫌いしている連中か、オレを倒して名声でも欲しい奴か。
 そんな毎日だったから、自分の住処でもいつもと違う起こされ方をされると、意識のほうが勝手に動き出すようになっちまったというわけだ。

「ラ、ラッシュ…さん、なんで…」小さいルースの身体は、俺の無意識の蹴りを食らった衝撃で、ものの見事に部屋の向かいの壁にめり込んでいた。
 っていうか、突然俺の部屋に入ってきたお前が悪い。
「あ、トガリはもう明け方早々に仕事に出ちゃいましたよ。なんでも今日は店の掃除もしなきゃいけないって言ってたんで」
 そっか。トガリは近所の食堂のコックに正式に決まったんだっけか……
 しかし何故ルースがここに? 朝から調子崩されて訳がわからねえ。

「トガリ喜んでましたよ。あそこのマスター、寡黙だけどいい人で、うまいメシ作れりゃ人種なんて関係ないって。なもんですから、美味しいご飯作れるトガリは一発採用されちゃいましたしね」
 トガリのいない厨房で、時間が経って冷えたスープに火を入れながら俺は聞いていた。テーブルではチビがパンを黙々と食べている。どうも俺に似て大食いっぽいな。
 ルースの話だと、トガリの作る煮込み料理が絶品だとかで、早くも町では評判になってるとか。
 確かにな。俺も、そして親方だってトガリの料理は残したことがなかった。
 美味いとかそういう次元じゃないんだ。口に運ぶたびにさらに腹が減る……みたいな、無限に食える気がするんだ。あいつのメシは。

 で、本題に戻ると。

「これ、なんて読むかわかりますか?」
 と言ってあいつは一枚のなにか書かれた紙を俺に見せてきた。トガリが自分の爪で書く独特の筆跡だということは分かるが、読み書きを知らない俺にはさっぱりだ。
「ですよね。読めないですよね。でもそれじゃマズイんです」
 あいつは矢継ぎ早に質問を浴びせかけてきた。向かいの店の看板には何が書いてあるか。リンゴの今日の値段は? さらには俺の名前を書いてみろと言われたら……

 さて、どうする?

「これからは世界もようやく落ち着きを取り戻します。そうなると私もラッシュさんも今みたいな仕事はなくなってしまうのですよ。としたら我々は別の働き口を探さなきゃならないのです。その点、トガリは私たちの中では一番利口です。だけどラッシュさん!」
 ルースは台所のカウンターから身を乗り出して、俺と顔を突き合わせてきた。

「あなたはその馬鹿力以外に、なにか特技がありますか?」

 ……無論、俺にはそんなこと、答えられるわけでもなく。

「はい、殴られるのを承知で断言します。あなたには何もありません。要は無能。無芸大食なのです。そんなことじゃこれからの世の中渡って行くことは不可能に近いのです」
 普段ならここで数十発はこいつを殴りたい気分だったんだが、今は何故かその拳にさえ力が入る気が起きてこなかった。
 腹が減っていることもそうだが、こいつの力説することが全て図星だったからかも知れない。

「正直……」ルースは大きくため息をつき、続けた。
おやっさんを恨みますよ……ラッシュさんに戦わせる事以外、まともな教育をさせなかったあの人に。確かに戦士育成の面にかけては天才的でした、が、その他においては人並み以下のマネジメント能力しか持ちあわせてませんでしたからね……」
 ルースは寂しそうな目をして、最後に付け加えた。

「ラッシュさん、あなたがこの世界で一番の被害者かもしれません」と。

「というわけで、今日から私がラッシュさんとチビちゃんに読み書きを教えまーす!」
 なんか今日はこいつやけに強気だ。俺も圧倒されてしまうくらい。
 ルースの奴が言うには、読み書きこそが人として最低の教育ラインらしい。今からでも遅くはない、それにチビも一緒に学べば相乗効果で更に俺の頭は良くなる…んだとか。
「これから私がいる間は、毎朝の食事の後に読み書きの授業を行います。私が先生ですからね!」
 そう言ってルースは誇らしげに自分の胸をドン! と叩いた。
 読み書きの勉強か…そんなの今まで親方から一度も教わってこなかったな。なんて考えながらパンを頬張っていると、一番最初に食事を終えたルースが、持参してきた大きな肩掛けカバンの中から、何やら黒い板切れを取り出してきた。紙はまだ貴重だから、チョークと黒板を使って勉強するとのこと。全く面倒くさいことになってきやがった。

「るーすおべんきょするの?」チビがたどたどしい言葉で尋ねた。
「いや、チビちゃんがお勉強するんだよ、お父さんと一緒にね」
「おとうたんといっしょー!」チビがいつものように満面の笑顔で俺に抱きついてきやがった。

「あ、そうそうラッシュさん、最初に一つだけ言っておきますが…」
 ルースは俺へと向き直り、ニヤリと不敵な笑みを浮かべてきた。

「分かるとはお思いですが、学力の面で息子さんに負けないよう頑張ってくださいね」
 さらに俺の鼻先に、にやけた面を近づけた。
「そ・れ・と! 先生である私に拳を向けるのは言語道断ですので!」
 勝ち誇ったかのような、まるで俺にガツンと言い聞かせてくるかのようなその口ぶり。

 その日以来、ルースは妙に怖さを増してきたような気がした。

 そしてチビはチビで、早速黒板に絵を描き始めている。
 目付きが悪くて、白く塗りつぶした鼻の上にX印がある。
 これは、まさか…
「できた! おとうたん!」
「よくできましたー、ラッシュさんそっくり!」


 新しい俺たちの毎日は、こうして始まった。

ルース 世界を語る

9話

 ルースが俺とチビに読み書きを教えてくれるようになって半月ほど経っただろうか。俺の方にもいろいろ仕事の依頼が舞い込むようになってきたんだ。
 まあ、仕事といっても戦う方じゃない。俺のこの馬鹿力とか上背の高さを生かして、近所の家作りとか修繕、果ては畑仕事と……
 分かってる。こんなのは俺の分野じゃないことぐらい。でも町の人間が気軽に「ラッシュの奴、いるかい?」と言って食堂に相次いで入ってくると、さすがの俺でも断るわけにはいかない気分がしてきちまって……
 
 そう、チビの存在が大きいんだ。
 
 今まで何となく近寄りがたかった俺と町の連中との垣根を、チビが取り持ってくれているような。
 俺はカネなんかいらないって言ってるのにもかかわらず、日当の代わりに籠いっぱいのリンゴや、チビの好きそうなトウモロコシを炒ったお菓子とか、サイズの合った服とか。おかげであいつもちょっとずつ着ていくものが増えていった。無論チビも大喜びだ。

 ああ……だんだんと、チビはこの小さな町の人気者になってきた気がする。これでいいんだな。これで。

「この町に馴染んできましたね、チビちゃん」と、ルースが外で一人遊んでいるチビを見つめながら俺に言ってきた。
 いや、それで終わらすならいいんだが、あいつはいつも余計に「お父さんの心境としてはどう思います?」なんて言ってくるモンだから、俺はついつい口より手が飛んでしまう。だから父ちゃんじゃないっつーの。マジで殴り殺すぞルース。


「ちょっと字の勉強も落ち着いてきたし、今日はこの世界のことについてお話ししましょうかね」

 ある日、ルースが分厚い本を抱えていつもの食堂へとやってきた。
 ルースの真っ白な身体とは正反対の、真っ黒な革表紙の本だ。

「私たちのいるこの国の名前はわかりますか?」知らねえ。

「今まで戦ってきた相手国の名前はご存知ですか?」それも知らねえ。

「この戦争って、何年くらい続いているかは……」いんや。そんなこと知らねえし。

「えっと、戦争の発端となった伝説は……ってぐはっ!」いい加減質問攻めでイライラしてきた。

「だ、ひゃかららっひゅさん、暴力厳禁らって……」赤くなった鼻面を押さえながら、ルースはいつもの黒板を俺の前に出してきた。
 
 サラサラと描くそれは、いびつに横に長い円。

「はい。私たちのいるこの国はこんな感じです。ちょっと横長で、左下が大きく欠けた国土。リオネングって言います」
 つまりリオネング国っていう名前かと尋ねると、王国ですね。とルース。
「百年近く前、我がリオネング王国はもう少し大きかったんです。そう、左下のトコです。へこんだとこは後でじっくり話します。さて、何十代にもわたる王様のもと、人間も、そして僕ら獣人も平和に、食にも困ることなく暮らしてました」

 テーブルにあった水で喉を湿らせて、ルースは続けた。

 俺もこの国の歴史を聞くなんて初めてなことだったから、ついつい言葉を忘れて聞き入っちまう……すべてが新鮮な情報だ。
「すべては平和でした……誰もが自由に生きていける。そんな国だったのですが……」
 例の厚い本が、ルースの目の前でバサッと広がる。 

 どこか懐かしいホコリ臭さが、俺の鼻をくすぐった。
「リオネングの王様には跡継ぎの王子が二人いたそうです。歳はちょっと離れているけど、とっても仲の良い兄弟だったとこの文献には載っています」
 兄王子の名前はエイセル。弟はリューセル。どっちを次の王にしてもおかしくはないほどの人望だった……しかし。

「兄、エイセルが結婚相手に選んだのは、私たち、獣人の女性だったのです……」

 ルースの声がわずかに重くなった。

10話

「兄、エイセルが結婚相手に選んだのは、私たちと同じ、獣人の女性だったのです……」
 ルースの声がわずかに重くなった。

 しかし俺はそれが疑問に思えた。いわゆる父ちゃんと母ちゃんだろ? 相手が俺らと同じ獣人ってだけであって。
「当然ながら弟のリューセル王子は大反対しました。父親である現王ゴドも最初は難色を示していましたが……」

 ルースの熱弁をさえぎって、俺は聞いてみた。どうして反対なのか、を。
 
 え、あ……その。と、今度はルースの白い頬がみるみるうちに真っ赤になる、なに考えてんだコイツ。
「あの、ですね……ラッシュさん。あなたは、その……まだ、そういうのを知らなかった、の、で、す、か……」今度はうーんうーんと悩み始めた。
「ルルルースさぁ、祖とする神様がぼぼ僕らと違うから、人との間にはここ子供ができないっていい言えばいいんだよ」

 聞き覚えのあるいつもの口調が裏口から入ってきた。トガリだ。あいつもう仕事終わったのか。
 ナイス! とルースは親指を立てている。でも相変わらず、祖と言われても俺はなんかピンとこないが。

「そそそうです! 我々を作った神様が人間と違うのですよ! なのでどんなに頑張っても王子と獣人の姫との間には子供ができないんです。それに……」
 ルースは胸の前で拳をぎゅっと握りしめた。「我々と人間との間にある差別という溝……わかりますよね、ラッシュさん。あなたなら」
 
 ああ分かる。毛むくじゃらだの怪物だの戦場じゃいい言われようだったな。

「エイセル王子は、獣人である彼女との……ディナレとの結婚を通じ、リオネング国の更なる発展と平和を望もうとしていたのです」
 あ、ディナレっていうのは王子の結婚相手の名前ですねと補足して、またルースの熱のこもった語りが再開した。

「溝は獣人とだけでなく、兄弟の王子との間にも出来てしまいました。あんなに仲が良かった二人でさえも、です……。獣人の女と結婚するなんて、エイセルは頭がどうかしてるとまでささやかれる始末。それを危惧したゴド王は、ディナレ姫を交えた夕食会でこの愚かないさかいに終止符を打とうとしたのです……誰だって争いなんてしたくない。ましてや兄弟の喧嘩なんてもってのほか。最善の策は、リューセルを次の王とし、エイセルには他国から養子をもらって、ディナレと二人で弟王を陰から支えてくれれば……と」

 白い拳が小刻みに震える。

「王は夕食会での演説のさなか、突然倒れ、そのまま息を引き取りました……何者かが酒に盛った毒で。犯人はエイセル派かリューセル派かは未だに分かりません。でもこの暗殺事件により。兄弟の対立……いや、リオネング国を二分する永い戦いが始まったといえるでしょう」

 なるほど、俺のしていた戦争っていうのはそういう発端だったのか……他愛もない兄弟喧嘩がここまで拡大していったのか、と。
「憎しみはもはや留まることを知りません。リューセル王を筆頭に獣人排斥派を含む西リオネングと、分裂したエイセル王の東リオネングとの戦争は、旧リオネング王国の軍部をほぼ掌握していた西側が、当初圧倒的優位にみえました……が、この事態を憂いたディナレ姫は……姫は」

 ルースの長い溜息が、静かな食堂に響いた。

「自らの美しい顔に短剣で傷を刻み、そのまま崖に身を投げました……」

11話

「えええ、ルルルースの方ではそそそう習ったんだ。ぼぼ僕のとこでは、顔を焼いて教会に入ったってなな習ったよ」
「そっか、トガリのいるアラハスではそういう伝承なんだね……確かに彼女のやった行為についてはいろいろ諸説がある。実は命を取り留めていたとか、燃え盛る炎に自ら入っていったとか。けどただ一つだけ言えることは……そう、顔に傷をつけたってこと」
 
 2人の会話を聞いてて俺の鼻面の古傷がむず痒くなってきた。
 しかしなんでわざわざ傷をつけたりするかね? そこをルースに聞いてみた。
「お忍びで街へ繰り出したエイセル王子が、街で行商をしていたディナレに一目ぼれをしてしまったと聞いています。彼女は遠く離れた寒村に住む少数部族である狼族だったとかで……」
「狼族?」「ええ、ラッシュさんと祖を同じとする、ピンと通った鼻筋と耳が特徴的な種です」
 なるほど、ディナレってやつは俺と同じ顔だったってワケか。

「ディナレ姫は、自身にすべての罪があると信じ、そして誰にも二目と見られないように、顔に傷をつけたのでしょう……」
「それが狼聖母ディナレいう伝説になったんだ。ラララッシュがいつか字がきちんと読めるようになったら、図書館とか各地の教会とかでしし調べてみるといいよ、面白いから」
 いや、めんどくさそうだしそういうのは性に合わねえ。身体がなまっちまう。
 でも、俺にそっくりの姫さんか……まあこの世にはもういないとはいえ、どんなもんだかっていうのは見てみたい気がしないでもない。

「ディナレ姫の……彼女のその身を挺した行為は、もはや生きる希望をあきらめかけていた東リオネングの民たち、そして虐げられていた獣人たちをみるみる奮い立たせました。その頃、東リオネング国内でも人間と獣人の内紛があちこちで起きていたそうです。お前たち獣人のせいでこんな戦いが起きたんだ……って。その内紛で獣人たちはかなりの命を落としたという話です」

 今も昔も差別の根っこは変わらねえってことか。

「東リオネングの民は今までの行為を恥じ、手を取り西の軍勢に立ち向かいました。もとより肉体的に秀でた我々獣人です、戦局はだんだんと……劣勢から拮抗へと変わっていきました」

 ルースはさっき書いていたリオネングの地図にどんどんと矢印を書き足していった。

「追われていった西リオネングはついに独立宣言をし、オコニド国と名を変え、更なる抵抗をし続けていったのです。国名が変わったのは……親方が現役バリバリのころくらいでしょうかね。隣接するリンザット、マシューネといった小国から、金を稼ぎに傭兵稼業が続々集結していったのがこの頃だとか。何せ軍部がそのまま独立国となったオコニドですし、小さいながらも戦力に関しては獣人を含む新生リオネング国を軽く凌駕していましたし。気を抜けばすぐオコニドに敗北を喫する……そんな危惧ゆえに、各国に傭兵を募ったのです」

 親方の名がルースの口から出て、俺はちょっとうれしくなった。そっか、親方も傭兵から名を挙げていったんだったっけな。
 岩砕きのガンデ……そう、尊敬する親方の二つ名だ。

「そこからまた果ての見えない戦争は続いていき、オコニド国はついに、隣国のマシャンバル神国に助けを求め、同盟を結んだそうです」

 また初めて聞く名だ。舌を噛みそうな変な名前だし。

「神国……国王を神様と讃えている国のことを言います。けど、マシャンバルについては今でも謎が多い国なんですよ……その、神と言われている王ですら全く姿を現すことなく、何百年も同じ姿のまま君臨しているという話ですし」

 リオネング国の左下の大きな空欄……それがマシャンバルだと、ルースは付け加えた。

「僕ら獣人を含むリオネング国の誰すら、この国へ行ったこともないのです。ある意味同盟を結べたオコニドは奇跡といってもおかしくないくらい、徹底した鎖国政策で通してきた……そう、マシャンバルはいわゆる暗黒の国なのです」

 ルースの口調に、また一段と熱がこもりはじめてきた。

12話

「そんなマシャンバル神国に、オコニドの連中がどうやって接触できたかは、神国の国内情勢同様今でも謎です。そもそも我が新生リオネングとオコニドもにらみ合い状態が続いてましたからね……」

 トガリが深煎りコーヒーを持って俺の隣に座ってきた。こいつの淹れるコーヒーも結構好きだ。周りからは泥水味だと言われてはいるが。

「そそそうだ、ぼぼ僕がアラハスにいたとき、いい一度だけマシャンバルのお客さんが鉱石買いに来たことがあったよ」
「え、本当かいトガリ⁉」ルースがどんな感じだったと詰め寄ってきた。こいつがここまで驚くくらいだ。相当希少な連中っぽいな。
「ささ3人だったかな。ぜぜ全員おそろいの黒いローブ着ててさ、かか顔にも手にも刺青がびっしり描いてあって、ひひ必要最低限のことしかしゃべらなかったよ。あああそうそう」
 モグラ族の長い爪に合わせて作られた、持ち手が不釣り合いに大きな専用のコーヒーカップで一口。トガリは続けた。
「かか買いに来た一人以外は一切話すことなかったね。っていうか暑い中何時間も立ってて、ぴくりともうう動かなくってほんと不気味だった」
「で? で? なに買ってたのさあいつら! 教えてくれ!」白い顔がぐいぐいとトガリの顔に接近する。
 なんなんだルース。マシャンバルにでも興味あんのか? ……が、幸いにもルースのヤバさに気付いたのか「後で話すね」と、うまいこと切り替えしてくれた……俺の授業のこと忘れるくらいだ。よっぽどその暗黒の国になにかあるんだな。

「コホン。失礼しました……私、いろいろと他国の研究もしているもので」
 と言ってトガリの深煎り泥水コーヒーを一口すする。案の定ルースの顔がみるみるうちに曇ってきた。
「え、っと……げふっ、そこからが不可解だったんです。ちょうど昨年でしたか。突如としてオコニドの使節団がここに現れまして、これまた突然、リオネングに和平を申し入れてきたんです」
「ちょうど親方が亡くなる前……か。周りのギルド連中も話してたしな」俺の言葉に、ルースはうんうんとうなづいた。
「我々リオネングも何十年と続く先の見えない戦争に疲弊してましたからね……ある意味願ってもない僥倖だったのでしょう。すぐに調印式が始まりました。とはいえまだまだそれに納得しないオコニドの残党も数多く存在してるって話も、ちらほら聞いてます」

 けれども、平和が戻ってきたことには違いない……と結び、これで終わりますね、とルースは黒革の本をばたりと閉じた。

 ルース曰く、俺向けに結構細かいとこを端折ったとは言ってるが、今まで親方に全く教えてもらわなかったものだし、それなりに勉強にはなった……と思う。俺としては。まあ明日には忘れてしまうかもしれないが。

 ふと外を見ると、陽が傾きかけてきた。そろそろチビを戻してこなきゃな、と思い、俺は家を出た。
 つーか、ルースの授業、結構長かったんだな……

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 窓の向こう、まるで親子のようにラッシュとチビが話している。
 
 ルースはそんな仲むつまじい姿を見つめつつ、テーブルの片づけをしているトガリへと、ポツリとつぶやいた。
「トガリ、マシャンバルの連中の事、あとでゆっくり教えてもらえないか?」
「ええ、うん……そそそうだね。けどいい一体なんでそんなマシャンバルにこここだわるのさ?」

 ルースはだれにも口外しないでと一言、そしてささやくように言葉を紡いだ。
「国境付近でいろいろ聞きまわったんだ。オコニドはマシャンバルと同盟を結んだんじゃない……」
「どど同盟じゃない……? それってどういう意味?」

 見上げた空に、ふと黒い雲が差し掛かった。
「オコニドは『消された』んだ……マシャンバルに」

 突風が吹き付け、窓がビリビリと大きく鳴った。

「まだ終わらないよ……ううん、これからもっとひどくなるかもしれない。天気も……」
 見上げた空はあっという間に黒く染まっていた。これからさらに荒れるだろう。

「そして、この世界もね……」

ラッシュ、久々の仕事

1話

「おーい、ラッシュ!」はるか下の方から聞き覚えのある声がした。ジールだ。
 よく見ると、左手でチビを抱えている。

 かく言う俺はというと、自身の部屋が雨漏りしてきたので、屋根に上って応急補修をしているところだった。
 別に、雨が垂れ落ちてくるくらい俺は一向に構わねえんだが……どうもチビの奴がトガリに話してたらしい。ああ、俺がいないときに。

 そしてトガリはというと、俺の部屋はチビ以外誰も入ってこれないくらいの、例えるならばゴミ置き場に勝るとも劣らないくらいの場所だ。それに雨漏りなんかしたら部屋の価値が下がるしカビも生えるよって、珍しく俺に向かって怒ってきた。
「チチチビもラララッシュの部屋で寝てて苦しくない?」って聞くのだが、ううんぜんぜん。といい返事。
 俺が風呂とか行水したところって一度も見たことないし、だから人が寄ってこないんだよって相変わらず余計なことを付け加えるモンだから、仕方なく一発殴った後に屋根を補修することにした。

 さて、肝心のジールは一体何しに来たんだか。

「いいニュースだよ、久々に仕事の依頼が来たの!」って、ひらひらと俺に紙切れを見せてきた。
「おとうたん、おしごと!」チビもジールに倣って俺に呼びかける始末。

 ちょうど仕事もひと段落ついたことだし、と下に降りてジールのもとへと向かうと、あいつの身体から妙な匂いがしてきた。
 鼻の鈍い俺でもわかる、花の香りのような。
「なんか変な匂いするな」と尋ねると、香水っていうんだよってくすっと笑いながら答えてきた。

 ジールは基本的に斥候やら事前の偵察やらと、裏で活躍する仕事が中心だった。要は女性らしい、こういう香りのするものを生まれて以来一度も付けたことがないっていう話だ。
 だから思い切っていいやつ買ってみたんだ。合うかな? なんて聞いてくるもんだから、とりあえずいいんじゃねーのかとは答えておいた。
「……ま、ラッシュにはこういう女ごころっていうのはまだまだ難しい世界かな」と、軽く溜息一つ。

 じゃない、仕事だ、それより仕事のことを教えろ。

 読んであげるね。とジールが言いおえないうちに、俺は紙切れを取り上げて読んでみた。
 さて、ルースの教育の成果を見せてやるか。俺はジールの前で、紙切れに書かれている文章を読み上げた。
「え、ちょ、ラッシュ、あんた……」やっぱりだ。ジールの顔がみるみる驚きの表情に変わってきた。
 そう、ジールはここ1か月くらい俺のとこに来なかった。つまりは俺とチビがルースに読み書きを教わったことも知っているわけがない。

 まあ見てなって、と意気込んだものの……きちんと読めたのは最初の1行だけだった。
「村、に……まがい、ほしい」
 やばい、ところどころ読めない!
 ジールの溜息二つ。やっぱり彼女が読んでくれることとなった。

「ルタールの廃村に、ここ半月余りの間にオコニドの残存兵が集結しているとの情報が入ってきたの。奴らは隣の村を襲ったりと、盗賊まがいの行為もしているらしいわ。でもってうちらギルドの腕の立ちそうな連中を募って、連中を追い出してほしいと」

 なるほど、以前ルースが言ってたな。オコニドの連中はまだ撤退していない。散り散りになってゲリラっぽい活動をしていると。
「まだまだ勉強が必要ね。っていうか誰が教えてくれたの?」その問いに、俺は今までの経緯を説明しておいた。
 へえ、珍しいわね。だなんてジールが言うもんだから、俺はどういうことだと尋ねてみた。

「あいつが人にものを教えるだなんて。よっぽどラッシュのことが気に入ってるのかもね」
 なんでもジールが言うには、ルースと初めて会った時、とても近寄りがたい雰囲気が漂っていたとか。
 例えるならば、うん、トガリの言うところの戦場帰りの俺の姿みたいなものか。

 怪しげな色をした液体の入った、大小さまざまな瓶が並ぶ部屋で、だれとも会うことなくルースは何年もの間毒物の研究を重ねていたとのことだ。
「あたしが無理やり外に出してやったの。そう、ラッシュに会った時のようにね」遠くを見つめながら、ジールは続けた。
「ほんと変わりモンだったよあいつ。髪は伸び放題だったし、なんか一段上からあたしたちを見下してるような話し方だったし」

 ふと、溜息三つ。

「まあね……ルースも自分トコのお家事情だなんだかんだでいろいろあったから……っと、それは置いといて。読みに関してはまだまだ勉強不足ね、百点満点で3点ってトコかな?」

 うるせーな全く。

 なんだかんだでもう一か月以上は経つだろうか。いや、もっと行ってるか?
 ってなワケで、俺は久方ぶりに裏庭の練習場に出て練習を始めた。
 というか、練習というか訓練。訓練というか鍛錬だな。

 思い出す……親方が俺の身体づくりのために、いろいろ試行錯誤して編み出したメニューだ。
 
 人間の連中だとまずは素振りとかで身体を温めたりするが。俺はそんなクソだるいことは一切しない。
 長槍の先に結び付けた、俺の体重以上に重たい砂袋。それを水平に持ったままでスクワットをする。
 しかしやっぱり……久しぶりなので腕の筋肉が悲鳴を上げる。ヤバいな、ガマンガマン。

 その後は巨大な岩の塊を肩でずっと押し続けたり、指だけで倒立したり……そうやって俺の身体はここまで育ってきたんだ。

 練習場の奥にはちょっとした小川が流れている。澄んだきれいな水だ。時たま巨大な魚も泳いでたりして、トガリがそれを採って蒸し物にしたりとか。あれもトガリの料理の中では絶品クラスだ。

 だけど俺はこの川が嫌いだ。というか、水に濡れるのが大嫌いなんだ。
「お前すっげぇ汗で毛がガビガビだな! よっしここで身体洗え!」って、親方は、俺がまだ小さいときに、半ば強引にこの川に投げ込んだんだ。

 無論、泳げない俺はさらに深みにハマって溺れかけ、生まれて初めて死の恐怖を味わった。
 ああそうだ。後にも先にも死ぬって感覚を味わったのはこの時だけ。以来俺は『身体が濡れる』ということ自体がとにかく苦手になっちまった。
 
 それが原因で風呂嫌いだとか臭いとかさんざん周りから言われているが、俺はそんなのちっとも気にしたことはないし、自身が臭いとも感じたこともない。
 そう、チビもしょっちゅう俺が抱えているが、一度もそんなこと言った覚えなんてないしな。要は臭ってない、そういうことだろ?

 あー、そういや最近トガリの魚料理って食ってないなあ。ずっと肉ばっかだな。なんて思いつつ、俺は親方直伝の鍛錬メニューを終えた。

 ジールの持ってきた依頼書によると、明後日の晩にここを出るとのこと、今回はリオネングの兵士も含む十数人ほどの少数精鋭で向かうとのことだ。馬車で一昼夜の距離だ。そして暗くなった頃に夜襲を仕掛ける……うん、俺に言わせれば、正直かなりシンプルな作戦だ。これならあっという間に終わっちまうだろう。

 そうだ、メンツといえば……全然ゲイルを見てなかったことに俺は気づいた。

「そういや、最近ゲイルの姿見ないな、トガリ知ってるか?」って厨房で支度をしているトガリに聞いてはみたものの、俺と同じくここんとこ全然との返答を頂いた。

 ギルドの仕事引退したのか? ならもっと早く俺に打診してくれたっていいものを。
 それとも以前俺が思いっきり殴っちまったり、戦い方が弱腰だからって怒鳴ってしまったことを未だに根に持ってたりとか……
 
 いや、その可能性は低いな。

 あれこれ考えを巡らせているうちに、チビが怪訝そうな顔で俺の顔を見つめてきた。
 ヤバい、今にも泣きそうな顔だこれ。

「おとうたん、でかけちゃうの?」やっぱり……な。
「ちょっと俺は仕事に行ってくるからな、お前はトガリジールで……」

 案の定、轟音にも似た鳴き声が食堂中に響き渡る。
「やだやだやだやだやだ! おとうたんでてっちゃやだ!!!」小さなチビの両拳が、俺の硬い太ももをぱしぱしと叩く。
 痛くもなんともないが、やっぱりこの鳴き声との複合技は俺の精神的には良くない。
「だ・か・ら、すぐ帰ってくるって言ってンだろ! 大丈夫だから、な?」
「やだやだやだやだー! おとうたんといっしょにいる!」いや無理だ、お前にあんなトコ見せたくないし。

 でも……チビって、俺に出会う直前は戦場にいたってことだろ? 隣にいた人と逃げていたのか? それとも……
 俺と初めて出会った時のことをもう一度思い返してみた。そうだ、チビの隣にいたあの骸……
 あいつは一体誰だったんだ? チビの親か? それとも人買いだったのか?

 俺は、俺たちはチビのことを何にも知らない。そしてこれからも、だ。
 いつか、チビの故郷を探したり、家族を探したりする日が来たりするのか?

 そして、こいつも大きくなって、自分のことに疑問を持ち始めて……

 俺はしゃがんでチビを目線を合わせた。こうでもしなきゃこいつは泣き止んではくれないし。
「じゃあな、いいか、教えてやる。本来の俺の仕事は……ッが!」
 思いきって俺の仕事のことを言おうとした途端、脳天に一撃が走った。

「バカなコト言うんじゃないってラッシュ。まだチビは血なまぐさいこと理解できる年齢じゃないでしょーが」やっぱりジールか。むくれた顔で俺を見つめている。

「いい? ラッシュ。言葉で言い表せないときは、こうやって抱きしめてあげるの。ぎゅーっと」
 そういってジールは、しゃっくりの止まらないチビの身体を両手でしっかりと抱きしめた。

「この子はさ、何も知らないんだよ……人の愛情とか。ううん、あたしたちも同じ生き方してきたけどさ」
 溜息四つ。

「この子には、同じ思いをさせたくはない……だからさ、言葉の代わりにあたしたちの体温でしっかり教えてあげるんだ」
 
 ささ、ラッシュもやってみて。って言葉の通り、俺はチビの身体をしっかり抱きしめた。
「力入れすぎて、チビの身体ペッちゃんこにしちゃダメだよ」ってジールの言葉に、厨房の奥から『ぷっ』とトガリが吹きだす声が聞こえた。
 いい度胸してやがる。あとでボコボコにするからなトガリ
 
 抱きしめてしばらくすると、俺の胸に伝わってくるチビの小さな鼓動が少しづつ落ち着いてきた。
ジールと一緒にいい子にしてるんだぞ」「う、ん……」耳元でチビのかすれそうな声が聞こえた。

 さて、どうにかチビも落ち着いた感じだし、斧の手入れも全然だしで準備しなきゃな……なんて思った時だった。
「そそそそうそう、ルルルルースから手紙がきききてたんだよラララッシュあてに」と、トガリは丁寧に封蝋で閉じられた手紙を俺に渡してきた。

 ラブレター? バカ言うなとどうでもいい冗談をジールと交わして、俺は一人訓練場の大樹のもとで手紙を開いてみた。

 内容は……まだ勉強不足な俺でもどうにかわかる、簡単かつ丁寧な字で一言。


 『ゲイル の ことば は しんじるな」

 

 なんだ……これは⁉

 

 

2話

 結局、ルースのあの手紙が意味するものが何なのかわからないまま、仕事の日がやってきた。
 出かける直前までチビはべそをかいていたが、ジールが教えてくれたアレ(人間の間ではハグと呼ぶらしい)をやってみたおかげで、どうにかまた轟音の被害は食い止められたようだった。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ……馬車の中はシンと静まり返っている。
 8人乗りの比較的大きな空間の中、獣人は俺一人だけ。
 あとに続いている数台の馬車の中にも、いわゆるリオネングの志願兵しかいないと聞いた。そいつらも一人を除けば結構若い……服越しからでも分かる。筋肉が全然ついてないからな。

 そして、暗い。
 天井からつるされたランタン籠の中には、淡い青緑の光を放つ甲虫が数匹入っている。それが一つだけ。消えるか消えないかくらいにぎりぎりに明かりを絞っている状態だ。
 夜目の効く俺は大丈夫だが、人間にしてみれば、周りにいる連中の顔つきがようやく判別できるくらいか。
 まあ要は相手に極力見つからない隠密の作戦。それだからしょうがないか。

 さらには、馬も特別に調達したものらしい。足元が毛におおわれていることで、蹄の音が極力抑えられている、希少な種の馬だとか。

 しかし、廃村にいる奴らを蹴散らす程度の作戦だと聞いたのに、いったいなぜここまでやる必要があるんだか。

「あの……鋼のラッシュさんですよね?」そんなことをあれこれ考えていると、突然向かいに座っている兵士の男が話しかけてきた。
 俺に話しかけてくる人間なんて、基本獣人嫌いしかいない。差別めいた言葉、侮蔑に嘲笑……そんなのばかりだ。
 しかしこいつはなんだか違う。おまけに『ラッシュさん』だァ⁉

「え、あ、あの、ご気分悪くされたらすいません。ええっと、その、僕。昔からラッシュさんのファンなんです! ……じゃない、僕の名前はアスティといいます。半年前に軍に入ったばかりでして……」

 やっぱりな。まだ新米じゃねえか。身体がひょろっとしてやがるし。
 しかし、俺のファンって……ファンって確か好きとかあこがれてるとかそんな意味だったような。マジか⁉
「どういう意味だ、俺のファンって」新米兵士をギロリと睨み、問いただす。
「僕のいた村なんですが、隣に獣人の同い年の子がいたんです。小さい頃は毎日一緒に遊んでて……ある日、この戦争で無敵の強さを誇る獣人がいるっていう話をそいつから聞いたことがありまして、以来ずっと気になっていたんです。そいつは戦火を逃れるために別のとこへ引っ越しちゃいましたが、ことあるごとに『鋼のラッシュ』の話を聞いた僕は、いつかラッシュさんの雄姿を見たくってこの軍に志願したんです。貴方に、ラッシュさんに憧れて」

 いまいち動機と経緯が軽いが、こいつの言う限りじゃ、俺は獣人の中ではそんなこと言われてたのか。
 というか、獣人といわれても、トガリジール、ルース以外の奴とはほとんど接触したことなかったんで外の話題や噂なんて全然知らなかったな。
 まあいいか、退屈しのぎにと言うのもなんだが、しばらくの間コイツのおしゃべりに付き合ってみることにした。

 しかしこのアスティ、いちいち変なこと聞いては感激してきやがる。
 予想してた以上に身体が大きいですねとか、手のひら同士を合わせて、その大きさに感嘆したりとか、チビとはまた違う面白さを持った奴だ。
 話してるうち、だんだん強面に徹してた表情が崩れちまった。
「お前ってホント面白いやつだな」って、ついつい俺も楽しくなってきてしまったし。

「オイ、お前ら声がデカいぞ」俺たちの会話がだんだんと熱くなってきちまったのか、馬車の陰から強面の大男が姿を現してきた。
 俺と同じくらいの体格。それに禿げ上がった頭には眉毛すら生えておらず、いくつもの刀傷がついている。
 そう。こいつがその一人。今回の作戦を指揮する隊長と言ってたな。名前までは言ってはなかった。
 しかし、当たり前だがほかの奴とは身体つきから何から全然違う。

 隊長はアスティの頭を小突くと、「こんな奴といちいち会話するんじゃねえ」だと言いやがった。
 もちろん俺は頭にきたさ。「おいコラ、声がデカかったのは謝るが、こんな奴とはなんだ」と言い返してやった。本来ならここでもうブッ飛ばしてるはずなんだが、少数部隊の、しかもリーダー格を再起不能にしちまったらさすがにヤバいな。と俺も思ったしな。

「ハア? 獣人ごときがたいそうな口叩いてんじゃねえよ、無敵のナントカかは知らねえが、ここじゃ俺がリーダーだ、分かったら黙って従え」ゆっくりと押し殺した声で俺にそう答えた。

 言いたいことはわかるが、獣人ごときというセリフ、思いっきり頭に来たね。
「ラ、ラッシュさん、隊長には逆らわないでくださいよ!」アスティの言葉で俺はぐっとこらえた。しかし獣人嫌いはまだまだ根強く残っているんだな……

「ちょっと前なんですが、同じような掃討作戦を行っている最中、仲間を殺してオコニドへ亡命した獣人がいたんです……それで軍の方も獣人の動向にピリピリしちゃってまして」
 ふとつぶやいたアスティの言葉に、俺は耳を疑った。
 ちょっと待て、オコニドって言えば獣人が一切いない国だろ⁉ なのに何故亡命なんてしたんだ? 俺は聞き返した。
「それが謎なんですよ……でもってその話を聞きつけて、国境付近の獣人たちが結構オコニドへ行ったまま帰ってこないらしくって」

「発端は貴様と同じ傭兵の獣人、ゲイルってでっかいたてがみ生やしたクソ野郎だ。知ってるだろ? ああ?」
 隊長の言葉に、息が詰まった。
 ゲイル⁉ ゲイルって、あの……
 ルースのあの手紙、そしてオコニドへと謎の亡命をしたゲイル。ああ、全くもって同一人物だ。

 すると突然、隊長が俺の胸ぐらをつかんできた。
「貴様、以前ゲイルと組んで傭兵の仕事してたって話じゃねえか。ってことはここ最近の亡命の理由くらい、すこしは知ってンじゃねえか?」ギリギリと掴む力が強くなる。
「分かるか? 貴様を今回仕事に呼んだのはそういう意味もある。これから向かう村で目撃情報があったんだ。オコニドの敗残兵をかくまっているリーダーが『たてがみを生やした獣人』だとな」
「そ、それがゲイルだと踏んでるワケか⁉」
「そういうことだ。つまり貴様には囮になってもらうって寸法よ。知っていないわけがなかろう、だからゲイルに接触して、油断させたところを俺たちが捕らえるって作戦だ」

 この隊長ってやつもムカつくが、ゲイルの野郎ももっとムカつく野郎だ。亡命⁉ いったいどうして敵の国なんかに逃げたりしたんだか。全くもって意味不明だ。
「ヘタなマネすんじゃねえぞ、貴様も一緒に逃げるって言うのなら、俺が二人まとめて始末……ぐふっ!」

 突然、隊長の手から力が抜けた。
 薄暗がりの中、目をこらすと……半開きの口の中から、おびただしい量の血とともに鋭い矢が飛び出ていた。
「敵襲だー!!!」前方を走っている馬車から絶叫にも似た声が聞こえる。
 すると、今度はアスティが俺の胸ぐらを引っ張ってきた。
「ラッシュさん! 伏せて!」

 直後、馬車の屋根を貫いて降り注ぐ大量の火矢……

 ー奇襲か。つまりは裏の裏を読まれてたってことか。なかなか面白くなってきたなー

 炎が燃え盛る馬車の中、冷静な俺の心が、ふと俺自身にささやいていた。
「そうだ……こうでなくっちゃな! オイ!」
 今度は俺が、もう一人の俺に叫び応えた。

 1年以上眠り続けていた戦いの血が、徐々にまた熱さを取り戻してくるのが感じられた。

 ここが、俺の生きる場所なんだ……!

 前後含めて三台の馬車がめらめらと燃えている。これじゃほかの連中を助けるのも難しい。
 周りを見回すと、進行方向右手が小高い山になっていて、上に行くほど高い木々が生い茂っている。そして左はと言えば……崖だ。
 前から射掛けて足止めして、右から火矢でと……なるほど。奇襲の最たるやり方だな。

「隊長は即死でした、それと僕とラッシュさん以外に生き残った仲間は2名、でもかなりひどいケガを負ってます……」
 奇跡的に無傷なのは俺とお前だけか。と聞くと、アスティはがっくり顔を落とした。
 かくいう俺たちも、馬車を抜け出して近くの岩陰に身を潜めている状態だ。やつらはまだ近くにいるだろうし。
「ありがとな、お前が言ってくれなかったら俺も隊長と一緒に巻き添え食ってたかもしれなかったぜ」
 っていうか、俺の言葉でなぜか真っ赤に顔を赤らめてやがるし。ファンだっていうのは本気だったんだな。

 しかし……俺がここまでおしゃべりになってて、しかも人にお礼を言うなんて、おそらく生まれて初めてじゃないかな。
 戦場じゃ基本一人。背後で悪態垂れ流す連中を尻目に、先陣を切って、ひたすら無言で死体の山を築いていくだけだった。
 そこは友情とか、尊敬とか、馴れ合いとか、助け合いとか完全に無縁の世界だったし。
 いや、俺以外はみんな人間だったし、しかも一回顔を合わせたらそれっきりの連中……下手したら俺しか生き残ってなかったっていうのもザラだった。

 チビといい、このアスティといい、俺を慕ってくれている人間がわずかながらにも存在している……昔だったら考えられないそんな状況に、俺の心の中も少しずつ柔らかくなってきているのかも。

「よっしゃアスティ。お前の得意な武器はなんだ?」
「は、はい! これです!」と、奴はボウガンを俺に見せてきた。
「前線は苦手なんで、ひたすらボウガンの腕を磨いてきました!」
 見てくれは頼りないけど、唯一の戦力だ、託すしかない。それに飛び道具なら俺の後ろを巻かせるにはちょうどいいし、幸運だった。
「おそらく、この火が消えたら襲撃してきた連中の何人かは遺体の確認に来るはずだ。まずはそれを俺が仕留める。そしたらこの山上って、連中の注意を引き付けてくる。お前は暗闇に目が慣れてからでいいから、俺の後ろを守ってくれ」

 そうだ。人間と違って俺は……いや、獣人の目はこんな真っ暗闇でもよく見れる。それに耳と、鼻と、身体じゅうの毛の感覚と。
 
 どちらにせよ俺のファンを危険にさらすわけにもいかない。ああ、いつもと同じだ。先陣切って、真っ先に俺の首を狙おうと飛び込んでくる連中を斬り落とすだけだ。

 馬車を包む炎がようやく消えかかってきた。そろそろ確認に何人か来る頃だろう。
 だが正直これは賭けだ。確認に来るかもしれないし、下手したら帰ってこないかもしれない。

 岩陰で息を殺しながら、じっと待つ。
「ラッシュさん……なんか、楽しそうですね」ふと隣で、アスティがささやいた。
 顔が緩んでるのか? いやしかし合ってるかもしれないな。
 今の俺は、この状況をすごく楽しんでいる。
 以前の傭兵ラッシュへと戻れたこの感覚、この張り詰めた空気。すべてが楽しさに満ち溢れている。
 死と隣り合わせの状況なのに。

 そんなことを考えていると、上の方から二人の人間が下りてきた。
 見慣れぬ袖なしの地味な茶色の革鎧に、ヒョロ長い手足。わかる、襲撃犯……オコニドの連中だ。

 行ってくるの合図代わりに、アスティの肩をポンポンと二度軽く叩く。
 あいつもそこら辺は訓練されているのか、黙ってうなづいた。

 身を低くして一気に相手のもとに駆け寄る、まだ背中に背負った斧は抜かない!
「!!」俺の姿に気付いた一人目に、ご挨拶代わりのパンチを一発。助走付きだから遠くまで吹っ飛ばされていった。
 二人目。
「獣人⁉」その次に何を言うのかは知らねえ。でも言った瞬間に、俺の愛用の斧が肩口から深く切り裂き、そのまま自重で真っ二つになって事切れた。絶叫とともに。
 この間、おそらく10秒にも満たなかっただろう。

 さて、一人目は……と。
 歩み寄って倒れているのを確認する。鼻が折れたようで顔面血まみれになってはいるが、意識はあった。
「答えろ、お前の仲間は何人いる?」
「くたばれリオネングのクソ犬!」毎度聞きなれた侮蔑の言葉とともに、俺の顔面に血まみれのつばをベッと吐きかけた。
「あっそ」そのまま俺は奴のヒョロ長い首に向かって、斧の切っ先を落とした。

 それだけだ、尋問なんて俺の性に合わねえ。イヤだと言えばさっさと殺すだけだ。

 さて、叫び声も上がったことだし、おそらく連中はこっちに戻ってくるだろう。ならば……
「何人かはわからねえが、ま、どうにかなるだろ」

 顔にこびりついた血をぬぐい落し、俺は山に向かって走り始めた。

 愛用の大斧を手に、俺は一気に山を登って行った。

 身体じゅうが熱くなっていくのが感じられる、それに伴うように、感覚も研ぎ澄まされていった。
 目は夜の暗闇でも動くものをとらえ、耳はどんな遠くでも枯葉を踏みしめる音すら逃さない。
 鼻は……ちょっと鈍いが、人間のにおいは恐らく分かるだろうし、全身の毛は風の気配にまぎれたやつらの動きを察知できる。
 久しぶりに取り戻したこのすべての感覚。やっぱり俺はこの中で生きてゆく方が似合ってるんだ!

 すると突然、前方から奇声を上げて俺に向かってくる奴が。三人目か。
 斧を横に振っただけで、そいつは勝手に真っ二つになって坂を転げ落ちていった。

 普通、斧と言えば刀身を叩きつけて食い込ませて斬るんだが、俺の斧はまた違う。刃自体が鋭い切れ味を持っていて、振りぬけばほとんどのものが真っ二つになってしまう。よく研がれた剣の切れ味に加えて、斧の長さと重さを併せ持った、まさに俺のために作られたような武器だ。

 さてさて、今度は三人ひと固まりになって、鉤付きのロープを投げてきた、捕らえる気だろうがそうはいかねえ。
 斧を投げて一人を串刺しに、そして投げてきたロープごと相手を投げ飛ばし、さらに串刺しの仲間入りにしてやった。
 だが、さっきから何かおかしい……

 月の光すらほとんど届かないくらいの暗さなのに、やつらはそんなこと全然おかまいなしに俺に襲い掛かってくる。
 まるで俺同様、夜目が効くみたいに。
 木の葉は生い茂り、月の光すらまともに届いてない。
 普通の人間なら、たいまつでも灯さない限りまともに歩くことすらできない場所だ。なのにこいつら……
 本当に人間なのか? もしかしたら俺と同じ獣人じゃないのか⁉

 今度は木の上からナイフを振りかぶって飛びかかってきた。俺は斧で受け止めつつ蹴倒そうとしたのだ……が。
 まるでそいつはサーカスの曲芸みたいな身のこなしで、俺の蹴りを軽々避けてきた。こんな足場の悪い坂道でだぞ⁉
 明らかにさっきの連中とは違う……それに、よく見ると目が黄色く光っている。
 なんなんだコイツは……⁉ いや、こいつ人間じゃねえ!

 そうだ、目がジールと同じような。姿かたちは人間なのに、身のこなしから何から、まるで獣人のよう。

 形勢不利と判断したのか、そいつは突然山の上へと逃走した。くそっ、こうなった以上全員ぶっ殺そうと考えていたのに。
 俺も全速力でその獣人とも人間ともつかないやつを追いかけた。まるで跳ねるみたいにものすごい速さで登っている。やっぱり変だこいつ。

 息が切れかかりそうになった頃、ようやく開けた場所へと着けた。
 最低だ……最後の一人は見失うわ、運動不足で息を切らすわで……

「よお、だれかと思えばラッシュじゃねえか」すると突然、俺の背後から聞き覚えのある声が。
「その声……!」振り向いた瞬間、ゴッと顔面に重い衝撃が襲い……

 俺の意識は飛んだ。

 

3話

 どのくらい意識をなくしていたんだろうか。これほどまで重いパンチを食らうだなんて、親方のゲンコツ以来だ。

「おいおいラッシュ、このくらいでぶっ倒れるだなんてお前らしくないんじゃねーのか?」
 ふと、意識の向こうで、わずかに聞き覚えのある声が聞こえた。誰だっけかなこの声……あ!
「……ゲイル、か?」
「はい、ご名答~!」ゆっくり目を開けると、そこは屋根もないボロボロの廃屋だった。そして……
 俺の前にいる奴、それはゲイルのようでゲイルじゃない、妙な姿をした大男だった。
 いや、ゲイルはゲイルだ。獅子特有の顔中をぐるりと覆った長いたてがみに、大きめの鼻。と言いたいところだが、微妙に違う、いや全然違う!
「お、お前、本当にゲイルか?」しゃべるたび、口の中に鉄の味がする、切れてるなこりゃ。
 たてがみに似たようなふわりとした長髪にあごひげ。しかしそこに生えているはずの毛はそれ以外なかった。人間特有のつるりとした、ほとんど毛の生えてない肌だ。
 襲撃犯と同じ袖なしの革鎧を着たその身体にも毛は生えていない。むきだしの腕の外側と、脛に以前の面影を残すような長い毛がわずかに残っている程度。あとは人間と全く変わりがない。

「ああ、確かに俺はゲイルだよ、以前お前とちょこっと組んで仕事したな。けど今は違う」
「聞いたぞ、お前オコニドに亡命したっていうのは本当だったのか……?」着ている鎧はオコニドのもの。そう、やっぱり奴は敵に寝返っていたのか……

「オコニド? ああ、あの国ね。確かに軍隊の装備はオコニドのものをまだ拝借してはいるが、もうあんな弱小国なんて存在しねえから」
 存在しない? 一体どういうことだ。俺はそれを聞いてみた。

「お前、兵隊の仕事ばっかりで歴史の勉強もろくにしてなさそうだしな。まあいい。お前みたいな脳みそ筋肉野郎でも分かるようにやさしく説明してやるよ」

 いや、そこに関してはこの前ルースがいろいろ教えてくれたからそこそこ大丈夫なんだけどな……なんて思いながら、俺は奴の話を聞いた。

 つまりはこういうことだ。兄弟王のいさかいから生まれ、百年近くにわたる戦争をしていたはいいが、獣人を軍に引き入れたリオネングにオコニドはもはや崩壊寸前だった。
 そして残された唯一の道、それは隣国のマシャンバル神国に助けを求めること。
 だがしかし、それは容易な道ではなかった。
 マシャンバルの王にして絶対神であるディ=ディズゥにオコニドのすべてを明け渡すこと。それが絶対条件。
 オコニドは同盟を結んだといわれてはいるが、あくまで表向きのことだ。

 そして、以後オコニドの歴史は闇へと消えた。
 住民も、そしてオコニドの現王リューセル12世も。残っていたのはオコニドの土地とわずかな物資だけ。
 すべては、マシャンバルに『吸収』されてしまったのだ……と。

「でな、リオネングにいたとき風のうわさで聞いたんだ。マシャンバルは俺たち獣人にとってもいいところだぞって。オコニドみたいな徹底された獣人差別なんて存在しない。むしろ俺たちを暖かく迎え入れてくれる国だとな」
「で、お前はあっちに亡命したわけか……」そういうこと、とゲイルはうなづいた。

「しかし、よくわかんねえのが……お前のその恰好。なんか皮を剥がされたみたいで、どうなってんだ?」
「そう! よくそこに気が付いたねラッシュ君!」と単にゲイルの顔が気味の悪い笑みに変わった。
「マシャンバルになんとしてでも行きたかったのは、実はこのためでもあったんだ!」
 さあ、分かるかな? と、ゲイルは突然のクイズを出してきやがった。分かるかそんなの。

 今のゲイル……獣人としての厳つさが消え、むしろ人間みたいな姿になっている。

 ……人間? 人間⁉

「お、おまえ、まさか人間に……⁉」

「ご名答! マシャンバルはな、俺たちを、いや、獣人をだな!」
 突然、夜空に響き渡りそうな高笑いをした後、ゲイルはようやく言葉を続けた。なんだコイツの勿体ぶり方は。

「そうだ、俺たち獣人を人間にしてくれるんだよ!」

 ゲイルはまるで自分に酔っているかのように、一人くるくるとダンスを始めやがった。おかしい。こいつ頭までどうにかなっちまったのか。

「ラッシュ君、マシャンバルは最高の国、いや神の国さ! こうやって俺を人間の姿にしてくれるんだからね」
 そうだ、この違和感の正体……人間の皮だ。
「人間の皮でもかぶったみてえだが、いったいどうやって⁉」俺は尋ねた。
「そんな残酷なことはしないさ、マシャンバルで新しく大臣になられたラザラス大司教様の作られた秘薬に定期的に漬かるだけでこの通りさ! まあ最初のころは全身の毛が抜けたりして痛かったけどね。ラザラス様はまだまだ改良の余地があるともおっしゃっておられたし」

 俺はもう一つ、気になっていたことを尋ねた。そう、森で戦った人間ともつかない謎の連中の事を。
「フフン、よくそこに気が付いたねラッシュ君。俺みたいに、獣人から人になれるのだったら……その逆もまた存在する。わかるかい?」
「人間を俺たちみたいにしたってことか……⁉」
「そういうことさ、これも同じくラザラス様の作られた秘薬でもって、俺たち獣人が生まれつき備えた感覚を人間に植え付けるのさ! まあこれも今は実験段階だがね」
 獣人を人間に。そして人間を獣人にする……そんな薬を作り出したってことか。マシャンバルは。

「ラッシュ、思い出してごらんよ、リオネングで一緒に戦っていた時の頃を」
 ゲイルはそうは言ってきたが、あいにくコイツとは一度しか戦場で肩を並べたことがない。しかも気が弱いのか、前線に出た瞬間に泣き出して逃げだしそうになりやがったし。そのとき俺は一発殴って……
「獣人というだけで俺たちは人間どもから避けられ、煙たがられ、あまつさえ最前線にほっぽり出される始末さ。ひどいとは思わんかね?」
 確かにそれは言えてる。マトモな待遇なんて一切されなかった。だけど俺はこの拳で乗り切ってきたがな。うるさい連中は殴って黙らせた、中にはそのまま動かなくなった奴も結構いたけど、それはそれで好都合だったし。
「もうちょっとで俺は念願の人間の身体になれるんだ。そうすりゃもう人間の社会へも行けることができる、誰も俺を獣人だとは言わないし思わないしな」

 ゲイルのその考えが歪んでいるように思えてきた。差別されたからって、その差別する側の存在になるって……?

「ラッシュ、お前もマシャンバルへ来ないか? 友としての俺の紹介で、すぐにでも受け入れてもらえるさ、それに……」
 それに、なんだ?
「お前も人間にならないか? 俺みたいに人間になって幸せになろう!」
 俺の心が揺らいだ。確かに人間の身体になること、それは人の生活にも難なく溶け込めるってことかもしれない。しかし……
「なあラッシュ。ディ=ディズゥ神王に忠誠を誓えばすぐにでもお前はマシャンバルの国民になれるんだ、さらにはこの身体を生かして軍を率いることだって……いや、すぐ将軍にまで上り詰めることが可能だ。獣人の力を持った人間と人間の姿を持った獣人……わかるか? マシャンバルは新しい人間を作って、リオネングを……いや、世界を征服して、より良い、差別のない自由な新しい世界を創り上げようとしたいんだ! みんな幸せになれる新しい世界なんだぞ!」

 ゲイルは俺に延々と力説した。言いたいことはわかる……わかる、が、なぜか同意できねえ。

 人になることがそんなにいいことなのか?

 自分を変えてまでこれからを生きていくことが、それほどまでに夢だったのか?

 今の自分じゃダメなのか?

 すべてを捨てて、また新たな自分を生きる……新しい世界を創る。そこに幸せとか自由はあるのか?

 教えてくれ、親方……どうすりゃいいんだ。

 その時ふと、親方が最後に言った言葉を思い出した。あの宿題って言葉のことを。
 ゲイルが言っていることは正解なのか? いや……俺は、俺の自由っていうのは……!

 俺は立ち上がって、ゲイルに答えた。
「おっ、ラッシュ決心ついたか。俺と一緒に……ってグハァ!!!」
 まずはそのムカつく笑顔に一発パンチを見舞ってやった。さっき殴られたお返しも含めて。
「なぜだ! なぜ殴るんだ!!! 最高の条件じゃないか!それのどこに不服があるっていうんだ!」
 吹っ飛ばされたゲイルは、だらだら流れる鼻血を押さえながら俺に言ってきた。ほんとうるせー野郎だな。
 しかしお前の言う理想論は最高だということはわかった。
 だけど俺は……今の俺には俺の姿が俺にとって一番最高の俺なんだ。

 だが説明するのはややこしいだけだし、とりあえずいつも通りこの浮かれ調子のバカを殴って黙らせたかった。
「おめーの顔がなんか気に食わねえんだよな」

 これで交渉決裂だ。けどなんかスッキリした。

4話

「ななななんでだよおおお! これから俺は完全な人間になれるんだ! 今まで俺たち獣人を見下してた人間にだぞ! お前にだってそのチャンスがあるんだ! その誘いを何で断るんだ!!!」ゲイルがうろたえながら俺に詰め寄ってきた。
「で、人間になったら今度は俺たちを見下す側になるってことか?」
「え……?」ゲイルの目が呆然と大きく見開かれた。
 やっぱりな。その先のことは一切考えてないってことだ。
「そういうのって弱いモンの考えじゃねえのか? 差別されたからって、今度は差別する側になる。お前自身が強くなかったからそういう考えになるんじゃないかなって」その言葉に、もはやゲイルは答えることができなかった。
「ゲイル、お前はいい仲間でいられると思ったんだけどな……だけどそれももう昔の話だ。身も心も最低の奴に成り下がっちまったな」

 そうだ。俺にはマシャンバルだの人間になれるだのなんて正直どうでもいい。明日のことなんて明日に考えればいい。今までそうやって生きてきたんだし。
「く……そ、クソクソクソクソォォォォォォ!!! もうお前なんか絶交だ! 友達でも仲間でもなんでもねえ!」
 ゲイルは廃屋の壁に立てかけてあった斧を取り、俺に振りかぶってきた。
 え、それどっかで見たことある……って俺の斧じゃねえか! 殴られて気絶してる間に持ってったのか! ってオイ!
「死ねやぁ!! ラッシュ!!!」うわバカ! 殺す気か!

 ヒュッ!

 ふとその時、俺の耳元をかすめるなにかの音が。

「え、あ……がぁあ」ゲイルの弱い悲鳴とともに、その左目には短い矢が深く突き刺さっていた。
「ラッシュさん! 大丈夫ですか⁉」背後からアスティの声が、あいつの撃った矢か!
「な、んで……なんでお前……」目を貫いたが、まだ致命傷にまでは至ってないようだ。力なく俺の斧がゴトリと落ちた。
「行けよゲイル……二度と俺の前に来るんじゃねえぞ」一応仲間とは言ってはおいたが、もはやそれ以下の存在でもない。しかしそうは言っても、同族を殺したくはなかった。
 それは、唯一の俺の良心かもしれない。
「そんな気持ち悪い姿、もう見たくないからな……」

 俺とアスティは廃屋を後にした。背後でゲイルが何か叫んでいるようだったが、今はもう何も聞く気にもなれなかった。
 頭の中に複雑な考えが入り混じる。別にこの国に居続けることには全く未練はない。王様とやらの顔を見たことも生まれてこの方一度もなかったし、お偉いさんに忠誠を誓ったこともない。朝出かけて、夜には金もらって帰るだけの日々だったし。

 ゲイルの考えは、あいつなりの自由と幸せを追い求めた結果だろう。だから賛同はできないが、やめろということも言えなかった。

「いいんですかラッシュさん。あの人放っておいちゃって?」
 そうそう。小走りで俺に駆け寄るアスティに、奴が例のゲイルだということを話してやった。
「ええええ⁉ だってあの人全然ラッシュさんみたいな獣人には見えなかったですよ!」
 ということで俺は、こいつに例のマシャンバルの件を全部話した。
 獣人を人間に、そして人間に獣人の力を与え、ゆくゆくはリオネングの、いや世界を手中に収めるという計画を立てている最中だということも。

「大変だ……! それ一刻も早く報告しないと! ラッシュさんも行きましょう」
 いや、と俺は首を横に振った。これはお前の手柄にしたほうがいいんじゃないかってな。
「ラッシュさん、人が良すぎますよ……」
 いや正直俺みたいな獣人が報告するよりか、軍にいる人間のアスティが言った方のが、周りの連中は聞いてくれるんじゃないかと思っただけなんだが。

 焼け残った馬車と馬を引き上げ、俺たちは帰路へとついた。
 チビのやつ大丈夫かな……なんて思いながら。

 結局、予想外の奇襲で隊長他ほとんどの兵が殺された。生き残りは俺とアスティと、ケガ人2名だけ。
 
 実をいうと、仕事で俺もここまで痛手を受けたことは生まれて初めてだった。これもゲイルの言う『新たな時代の人間』のもたらした結果なのだろうか。
 いずれにせよ、このままじゃリオネングは奴らに圧倒されてしまうだろう。とはいえ俺みたいな傭兵が言ったところで門前払いが関の山かもしれないが。
 
 ということで、俺はアスティにゲイルが話していたことを分かる限り言っておいた。
 もはやオコニドという国は存在しない。あるのは神国マシャンバルといういまだ全貌の見えない小国。
 だがここの王とやらは獣人を人間に、そして人間には俺たち獣人の力を付与した、敵に回したら相当厄介な兵士を作っている。

 しかし……こういう場合って証拠とか持っていかないと信じてもらえないかもしれないな。とはいえ襲ってきた連中は皆殺しにしちまったし。
「あ、いますよここに」帰りの馬車の中、アスティはあっけらかんとした顔で答えた。
 焦げてボロボロになった荷台の上、そこには縄でぐるぐる巻きにされた、あの襲撃犯の……獣人の能力を身につけた兵士の姿が。
「ラッシュさんを追っていったときにうろついてたのを見つけたんです。足を狙ったら偶然にもうまく当たってくれて。で、もみくちゃになりながらもなんとか生け捕りにしました」

 なるほどな、あいつら木の上から飛んで襲い掛かってきたし、身体の能力も人間以上ってことか。
 舌を噛ませず、声が出せないように分厚い布で口をくるまれている、何か叫んでいるようだが俺たちにはさっぱりだが、きっとあの時みたくくたばれリオネングって言ってるに違いない。

「しっかし、見ればみるほど異様な姿してますよね。最初は化け物かと思っちゃいましたよ」
 朝の光に照らされたその姿。さっきは暗がりでイマイチ分からなかったが、こうしてみると本当に異形そのものだ。
 目は大きく、そして月の明かりのように黄色い。耳は大きく横に張り出し、先端は俺たち獣人みたいに長い毛が生えている。
 手も足も長く、指先には長く鋭い爪が生えている。
 そうだ、こいつらは人間でも獣人でもない、言うならば化け物に近い存在だ。
「大丈夫ですよラッシュさん、軍に戻った時にコイツを上司に見せれば、僕の説明がいかにへたくそでもすぐに信用してもらえますって」

 なんて他愛のない会話をアスティと長々しているうちに、急にデカい睡魔がやってきた。しかもよく見ると身体じゅう返り血だらけだし。まあしばらくすりゃ乾いて勝手に落ちるだろ、この程度で身体なんて洗いたくないし。
 アスティには「ヒマなときには遊びに来い」と言って、街で俺は馬車から降りた。なんかもう金すらもらう気力すらなかった……
 いろいろありすぎて、頭の中にとどめておかなきゃいけないこともたくさんあって、そう、脳みそが疲れると身体も疲れるんだなということを初めて知った気がする。
 気が付いたら太陽は頭のてっぺんあたりに来ていた。そっか、もうお昼か。腹減ったな。
 なんていろいろ頭のすみで考えながら、俺は住処のギルド兼宿屋へと帰ってきたのだ……が。

 俺の姿を見たチビが、やけに怖がっていたんだ。
 いつもなら仕事から帰ってくると「おとうたんおかえり!」って真っ先に飛びついたりタックルかましてきたりするのに、今日は違う。
 トガリのいる厨房の陰で、おびえながら俺を見つめていたんだ。

「おい、どしたんだチビ……? 来ねえのか?」
「おとうたん……やだ、こわい」

 ワケ分からねえ。いったいどういうことだ……?


 よくわからねえ。別に俺はツノ生やしたりとか、誰かの首を土産にぶら下げてるわけでもないのに、ずっと逃げちまう。
 俺が近づくと、逃げる。その延々繰り返し。
 しかもだんだん泣きそうな顔になってくるしで、俺もそんな行動に対してイラつきを感じてきた。

「あああ、ラララッシュおかえ……」厨房の奥で支度をしていたトガリがようやく俺に気付いたが……
 あいつも同様に、表情が凍り付いた。
「とがりー! おとうたんこわい!」援軍が来てくれたからか、チビはさっとトガリの後ろに隠れてしまった。
「ああ、あのさラッシュ……」「どうもこうもねーだろが!」
 チビもトガリもなんだっていうんだ、旅の疲れも相まって、俺のイライラはついに頂点に行ってしまった。
「だだだだだからさ、ラッシュ、その、わわ分かる?」トガリもすっかり怯えきっているし。

 けど普通俺が帰ってきたら、おかえりーとかご飯できてるよって真っ先に言ってくるのがいつものお前じゃねえか。
 食堂の長椅子にドカッと腰かけた俺に対して、トガリはまた申し訳なさそうな顔で言ってきた。

「ラ……ラッシュさぁ」「あァ?」
 俺も俺だから、こいつらに対して引き下がろうという気は全くなかった。いつもの俺だろ? まるでどこぞの沼の怪物が入ってきたみたいな怯え方しやがって。

「ラッシュ、いいから自分の姿を鏡で見て。それ以上僕は何も言わない」
 大きく深呼吸をした後、ふとトガリは押し殺した声で俺に言い放った。
 俺の背中に冷たい氷のようなものが走る。
 メガネの向こうは眠そうな目じゃない。思いっきり俺をにらみつけている。
 いつものトガリじゃない。しゃべり方も変じゃないし。これは大掛かりなメシ作っているときのマジな目つきだ!

 ああ、ヤバい。これ本気で怒っている……!

 たしか親方が言ってたような気がする「いいか、これは俺の経験から感じたことだが、トガリのやつは絶対に怒らせるな。それとメシ作ってるときは絶対邪魔するな」って。
 あいつ怒らせたらどうなるんだ? って逆に聞いてはみたんだが、親方は知らない方がいい、とにかく怒らすなとだけ念を押してたな。
 おびえるチビの肩を抱き、奴は俺と一切目を合わせずに厨房へとまた入っていった。
 分かる。背中から言いしれない怒りの気迫が漂っているのを。戦場で強い人間から見えてくるものだ。
 俺はトガリに気付かれないように、そっと食堂の奥にある大鏡へと足を進めた。
 いつも装備を確認するときに使うデカい鏡だ。俺の耳の先から足の先まで全部見れるほどの。
 なんでも親方がどっかの国から大枚はたいて買い付けたとか……ってそんなことはどうでもいいこと。

 ……でも、別に俺の姿はなんの変哲もなかった。いつもの仕事帰りの俺の格好じゃねえか。
「全然異常ナシだろうが。お前一体俺のどこ見てるん……ヒッ!」
 鏡に映った俺の背後に、さっき以上の怒りをまとったトガリが立っていた。その気配に全く気が付かなかった……
「……異常ナシ。そう、いつものラッシュだよね」
 俺はその気迫に逆に怯えを感じていた。いや、怯えるってこと自体全然なかったことだ。
「だけどさ、今は違う。ううん、もう昔とは違うんだよラッシュ! チビちゃんはラッシュの何に怖がっているのかちょっとでも考えたの⁉ ラッシュはあの子のお父さんなんだよ。つまりチビの親方なんだよ! それが返り血まみれの真っ赤な姿でいきなり家に飛び込んできたらいったいどう思う⁉」
 目に涙を浮かべながらトガリは一気にまくし立てた。こいつがいつもの聞き取りにくい喋りをせず、ここまで言ってくるなんて相当の覚悟と練習をしてきたに違いない。

 俺はもう一度鏡を見つめた。
 ……俺の血じゃない。真夜中にオコニドの、いやマシャンバルの連中どもを何人も叩き殺した、その返り血が……顔から、身体から。そして奴らの骸を踏んづけた足元まで、赤黒くべったりとこびりついていた。

 今までだったら、トガリはヒッと驚く程度で特に何も言わなかった。
 それが日常だから。
 親方も「おう、今日は何人やったんだ?」って喜んで話してきたし。
 それが普通だったから。
 でも、いまトガリに言われて初めて『昔とは違う』ことを思い知らされた。
「べべ別に仕事をすることをやめろとは言わない。ラッシュが生きてきた道だもの。いいい今さら生き方を変えるだなんて無茶だしね。ででででもそれをチビに悟られないように気を使わなきゃ! そうでしょお父さん!」

 皮肉でも何でもない、トガリのお父さんという一言がズンと胸に響いた。
 チビと初めて会った時、あいつは親の死体のそばに寄り添っていた。
 俺はあの時怖がらせたくない一心で、襲ってきた奴らを倒すところを見せないように抱きしめていたじゃないか。
 それをすっかり忘れていたんだ。久しぶりに傭兵の俺の血が騒いでいたおかげで。
「……悪かったトガリ、俺もついチビの気持ちのことを忘れちまってて」
 トガリは、ううん僕に謝らなくてもいい、でもチビには出来得る限り優しくね、と話してくれた。いつもの口調と眠そうな目つきに戻って。

「っってこことでさ、そそその臭くて汚い身体を一刻もはははやくきれいにして!」
 いやそれとこれとは別だろ、俺が風呂嫌いだってこと知ってんだろ、ほかの方法をだなと返したかった。
 しかしトガリを再度怒らすともう二度と家事をやらなく……いや、ヘタしたらチビを連れて家出する危険性もあり得るだろうと瞬時に俺は判断したワケだ。そう、トガリとのこのやり取りも戦争の一つみたいなもの。ここは落ち着いて……だな。

 ということで俺は駆け足で、離れにある来客用の浴室へと向かった。もちろんチビに気付かれないようにだ。
 後ろでトガリが呼び止める声が聞こえたが今はいい。恐らく石鹸を忘れてるよって言いたかったんだろう。

 浴室の前で、俺は数回深呼吸をした。
 何年もの間、風呂はおろか、身体すら洗ったことがなかったことを思い出しながら。
 そうだ、すべては川に投げ込まれて水恐怖症にさせた親方が悪いんだ。
 でもその、やっぱり怖い。
 なもので俺は何も考えずに、どうせ服きたまま風呂に入っちまえば全部洗い落せるだろう、洗濯といっしょだと思いながら浴室のドアをバン! と開けた。

 そこには、湯気に包まれたジールの細い身体が。
 街中に聞こえるくらいの甲高い悲鳴とともに俺を襲った。
「せせせ盛大に引っかかれたねラッシュ」苦笑しながらトガリは俺専用の巨大なハンバーグを持ってきてくれた。
 その向かいでは、チビがまだ俺の顔色をうかがいながらメシを食っている。そんなに俺の顔が怖いのか。
 そして食堂の隅では、ジールが背中を向けながら黙々とメシを食っていた。

「だだだから言ったじゃない。おおお風呂はジールが入ってるってさ」
「聞こえねーよ」
 かく言う俺の顔面には、無数の鋭いひっかき傷が刻まれていた。そう、ジールのだ。
 だが今の俺にはすべてが理解できなかった。風呂に入ってたジールを見ることが何で悪いのかってことを。

「そそそっか、ラッシュって女性っていうものを全然知らなかったんだね」そう言ってトガリは説明してくれた。
 人間や獣人に限らず、俺たち男性は女性がお風呂に入っているところを見てはいけないことを。いや、そういうプライベートなところは許可なく見てはいけないんだということを。

「考えてごらんよ。お風呂中に突然血だらけのラッシュが飛び込んできて、しかもジールの身体を見て平然としているだなんて。チビちゃんだって怖がっているのに」
おやっさんがそういう教育一切やってこなかったのも原因だけどね。まあ戦場に女性なんてほとんどいないからしょうがないとは言え、次やったら本気で殺すからね。覚えときなさいよラッシュ!」
 先に飯を食い終えたジールが去っていった。まだ口調からは怒りがこもっている。
「後できちんと謝るんだよ」こっそりトガリが言うものの、俺はまだまだ解せなかった。

 なんなんだ今日は。仕事の件といい、チビに嫌われるわトガリにマジで怒られるわ、とどめにジールに引っかかれるわで最悪だ。
 おまけに……そのあと川に入って身体を洗ったおかげで、びしょぬれですげえ寒いわで。

 今一度身体を乾かさなきゃと、俺はチビと一緒に裏庭へと出て行った。
 今はほとんど手入れしていない草ぼうぼうの庭。ゴロンと寝転ぶと、ひときわ大きな青空が目に飛び込んできた。
「おとうたん、ねてるの?」チビが心配そうな顔で俺の顔をのぞき込んできた。
 お前も一緒に寝るかというと、あいつも俺のマネをしてとなりに寄り添ってきた。

 ……なんか、こうやって寝るの久しぶりだな、なんて思いながら、仕事の疲れもあってか、俺はそのまま眠ろうか……
 と思ったものの、急にゲイルの言葉が気になってきた。
 あの時、奴の話に乗って俺も人間になっていたら……なんて。
 でもそんな姿を見て、チビは喜ぶだろうか、とも。
 複雑な気分がもやもやと頭の中を覆う。

 当分は、この悩みは俺の頭から離れないだろうな……
 すうすうと寝息を立てているチビの肩を抱きながら、俺は無理やり目を閉じた。
 


 終わり

 

ラッシュ、使命を知る

1話

 眠い。
 もっと正しく言えば、クソ眠いってやつだ。
 昨日のゲイルの一件以降、ジールは口きいてはもらえないわ、チビはなんかよそよそしいわで俺は踏んだり蹴ったりだ。
 それに加えて、夜は珍しく夢を見た。
 俺は基本的に夢自体を見たことがない。疲れてるから記憶にないのかも。だなんてトガリは言うが、それにしたって今までその手の記憶が一切ないというのもおかしい話だ。

 それもすごく変な夢。
 俺が戦場で倒れているのを、遠くから俺自身が見つめているという奇妙な内容だ。
 ブッ倒れている俺はまだ身体がちょっと小さくって、察するに10年位前の自分かななんて思える。
 そんな俺が、背中に大量の矢が刺さった状態で、泥の中でうつぶせに倒れているんだ。
 おいおいよせよ、ここにいる俺、死んでねえか?
 だからってんで俺はそいつを起こそうかと思った瞬間、目が覚めた。

 目を開けると、チビが心配そうな顔で俺を見つめていた。
「おとうたん、ずっとうんうんうなってた」って。夢でうなされてたっていうのか、俺が?
 しかもきちんと寝ていたっていうのに、なぜか起きてもだるい疲れは取れないまま。それだからトガリには機嫌も悪く見えちまったようだ。

 そんな俺のことを察してくれたのかは分からないが、トガリがお使いをお願いしてくれた。
 あいつの方も結構仕事がいい感じらしく、働き先の狭い厨房より、こっちのの広い台所で仕込んでいった方が効率がいいんだとか。
 頼まれた仕事は簡単。事前に注文しておいたジャガイモを買ってきてくれとのこと。
 だけど量がハンパない。要は俺の出番ってワケだ。
 そして、チビも一緒に連れて行ってくれって。
 ……………………………………………………………………………………………………………………………………………
 久しぶりに街中へ出た感じがする。最近は裏で畑仕事とか屋根の修繕を一日がかりでやったりと、買い物とかは出なかったしな。
 そうそう、チビを肩車していると街の連中がジロジロ見てくる。
 まあ……それはいつもと変りないんだが、やっぱり戦争が一段落したということで、ここの連中にも余裕ができたっていうのかな。みんな笑顔で俺たちのこと見てくれてるんだ。
 以前は変な目で俺らのことを見ていたし。まるで誘拐でもしてきたかのような……まあ実際似たようなものなんだが。
 今はチビをあやしてくれたり、手を振ってくれる人もいれば、アメをくれたりとか、俺たちはすっかりここの人気者になっているような気すらする。
「おとうたん、きょうはなにかうの?」頭の上からチビが俺に聞いてきた。
 ルースの勉強のおかげでこいつの話す言葉も色々増えた。しかしそのおかげで、ワケの分からない質問もたくさん増えてきたんだけどな。
「なんでおとうたんとトガリは毛がいっぱいあるの?」とかならまだ適当にごまかして切り抜けられたけど「おとうたんのおしりにくっついてるのなに?」とかって思いっきり尻尾を引っ張られたときはマジで痛かった……
 そういうときはきちんと叱った方がいいよってトガリは言うんだが、それにしたってどうやってこいつを叱ればいいのか。
 いつのときだったか……メシのときにカリフラワー嫌いだからって全部残した時だ。親方のときみたいに怒鳴っちまった時は、泣きわめいて一日中俺のところに近付きもしなかったし。ほんと難しい。

 さてさて、イモ屋の親父からは巨大な編みカゴいっぱいのジャガイモを渡された。こりゃ確かにトガリには無理だってくらいな量だ。
「これたべれるの?」
「バカ、リンゴじゃねえつうの、そのまま食べるな」
 両手に下げたカゴからあふれんばかりのジャガイモ。俺からしてみればこれくらい鍛錬の足しにもならないくらいだ。
 チビは俺の隣を歩きながら、泥だらけのジャガイモを手に取ってあれこれチェックしている。
 食べるなよ、食べたら腹壊すくらいじゃ済まされねえし。

 そんなこんなでチビと会話にならない会話をしながら家に向かっていた、そんな時だった。
 家の近くにかかっている大きな橋……そこにやたら大勢の人だかりが。
 なんだなんだ、珍しい魚の群れでも泳いでいるのか、なんて最初は全然気にもしなかった……が、近づいてみると、それは魚じゃなかったんだ。
「ちょ、ちょっとラッシュの旦那、あそこ! あそこ見てみなって!」行きつけのいつもリンゴをくれるオバちゃんが、俺の尻尾を引っ張りながら呼んできた。
 いや、だから尻尾を引っ張るのはよしてくれって。尻尾とくすぐられるのだけは大の苦手なんだ。あと水に入るのは。

 ってなワケで渋々橋のてっぺんから下をのぞいてみる……と。

 魚じゃなかった。人間の死体だ。それもまだそれほど年のいってない身体つきの、下着姿の人間がうつぶせに浮いていた。
 でも、なんかこれどっかで見たことのあるような……なんて思っている矢先。「ラッシュの旦那、ついでだからあれ拾ってきてくれねえか」と周りから声が。
 おいおいよせよ、なんで俺がこんなとこで水死体取ってこなきゃいけねえんだ。
 と、それに昨日もそうだが、俺は身体が濡れるのが大嫌いなんだし。二日連続は勘弁してもらいたい、俺の方が逆におぼれ死んじまう!

 ……なんてコトをここの連中にいうなんてできずに、結局俺が回収するハメになっちまった。
 ちょうど橋の真下の脚のところに引っかかっているところを運良くつかむことができた。確かにここだけはちょっとした深みだ。俺じゃなきゃ逆に溺れちまうところかも。
 身体じゅうの毛に水が浸みてくるのがジワジワ感じられる、それと寒気。これだ、この感覚が大嫌いなんだっていうのを頭の中でごまかしながら岸辺に戻った。
 しかし、どういう理由で川に落ちたんだろうな、事故か、はたまたどっかの戦いで流れ着いた……なんて思いながらこいつの顔を見てみた……ら!

「アスティ……?」それは紛れもなく、昨晩まで俺と一緒に行動を共にしたリオネング軍の若い弓兵、そして自称俺のファンであるアスティだった。
 しかも身体じゅうは傷だらけで、顔にも殴られた痕が残っている。
「アスティ、お前……なんでこんな」目を硬く閉じたままの奴の死体に俺は問いかけた。
 やめろよオイ、お前は俺のファンなんだろ? まだ一回しか会ってないのに! 仕事終わったら俺の家に行きたいって喜んでただろオイ!
 無意識に俺は、アスティの胸をぐいぐい押していた。
 それは親方から教わった……なんたらっていう目を覚まさせる方法だ。
 こうすると人間は止まった心臓がまた動く可能性があるって聞いた。だけどバカだな俺、こいつ死んじまっているのに、なんで起きろだなんて言って目を覚まさせようとしているんだか。

 そうだ、親方だ。

 目の前で大事な奴が死んじまうってこと自体がもうイヤだったんだ。
「起きろ! 起きろ! クソっ! 目を開けろ!」
 肌はまだ血色がいい、大丈夫だ、大丈夫だ! と俺は俺に言い聞かせた。懸命に胸を押し、水のたまった腹を押し、そしてなんども顔を叩いて揺り動かす。起きろ、起きろと何度も叫びながら。
 やめろよ、俺と友達になりたいって言ってただろ。親方みたいに俺より先に死んじまうだなんて……と、思った瞬間、アスティの眉がピクリと動いた。
 錯覚じゃねえ、こいつ……生き返った! じゃない、まだ命が残ってたんだ。
 ほどなくすると胸の鼓動はどっどっどっとゆっくり動き出し、うげえと飲んでいた大量の水も吐き出してくれた。
 橋の上から拍手が巻き起こっているのが聞こえたが関係ねえ。俺は生き返ったアスティを抱きかかえてすぐに近くの医者の元へと走っていった。
 ……………………………………………………………………………………………………………………………………………
 野盗か暴漢に袋叩きにされて川に投げ込まれたか、それでも生き返ったのは奇跡だな、なんて医者のジジイが話していた。
 治安はそこそこよくなったにしても、夜になるとまだまだ危険な奴らがうろついているのは今も昔も変わらない。例えば酒場の周りとか。こいつもそれに巻き込まれたってことかな。
 いずれにせよ、ケガはかなりのものだったが、命に別状はないと言ってくれた。よかった……

「ところで治療代はどうする? この若ぇ奴に払わすか、それとも……」

 俺はポケットにいつも入れてた金貨を一枚手渡した。やっぱりこのジジイもそうか。驚いた顔で金貨をじっと見つめていた。

 まあ、とりあえずアスティのことはここに任せておいて……なんか肝心なことを忘れていた気がする。

「あ、チビとジャガイモ……」

 案の定トガリからは大目玉を食らったが、いつも通り一発殴って黙らせた。
 だってそうだろ? チビもジャガイモもアスティも何事もなく無事だったんだ。それでいいんだ。

 

2話

「ジャエスおやっさんに聞いてみれば?」と、俺の悩みにジールはそっけなく答えてくれた。まだ昨晩の件で怒っているみたいだな。
 そんな名前の奴いたかって返したら、忘れたの? って……俺はそんなに人間の知り合いなんていないのに。
「親方の戦友の名前も忘れちゃったわけ? まったくもう……」
 と言われてようやく思い出した。
 親方がまだ俺を買う前。現役バリバリの岩砕きのガンデと恐れられていた頃に知り合った、いわゆる舎弟という間柄の人だ。
 傭兵やってた頃はどこへだって一緒についていった仲だったそうだが、結婚を機にいち早くこの仕事を卒業し、逆に傭兵に仕事を紹介する斡旋業という道を選んだと聞いた。

「俺がいないときに仕事やりてえときは、まずはジャエスのとこへ聞いてこい、割のいい仕事見つけてくれるからな」
 そう、まだ俺に名前すらついていなかった頃の話だ。その頃に1,2回会っただけだから、正直どんな人だったかほとんど覚えちゃいない。

 ……無論、親方の葬儀の時だって姿は見ちゃいねえし。
 親方が墓に埋められるときは、俺ら獣人はそこに参列すらさせてもらえなかったしな。
 俺たち4人は、墓地の高い壁の向こうから聞こえる変なお祈りの声だけ聞いてるだけだった。トガリなんかずっとわんわん泣きっぱなしで……いやそんなことはどうでもいい話だ。
 今は、ジャエスの親方に……って、なんでその親方に聞けばいいんだ?
「あのおやっさん、いろんな占いに凝ってるって聞いたからさ。夢見とかでも相談に乗ってくれるんじゃないかなって」いい加減すぎるなジールも。
 占いそのものも俺は一度も信じたことがないんだが、こればかりは自分でもどうしようもないってことで、俺はすぐさま、町はずれにあるジャエスの親方の家へと行ってみることにした。

 

「おいおいおい! 誰かと思えばガンデ兄ィのとこのバカ犬じゃねえか! おいコラ元気でやってンのか⁉」
 親方とは5歳くらい年下とはジールから聞いたが、まだ生きてればきっとこのくらいの年の重ね方だろうな、って思えるくらい年を取った感じだ。
 浅黒い顔に刻まれたシワがとても太く、深い。
 そして頭に毛は一本も生えておらず、陽の光を受けたらキラキラまぶしいんじゃねえかと思えるくらい、ピカピカに輝いていた。
「で、いったいどうしたんだバカ犬よぉ、仕事を探しにでも来たのか? いくらでも相談に乗ってやるぞ!」
 
 通された客間は、まるで親方と趣味が瓜二つなんじゃないかと思えるくらいだった。足の裏がムズムズするくらい深い毛足のじゅうたん。それに咳き込むほど染みついた煙草の匂いがあちこちから漂ってきやがる。どこでもたくさん吸ってるんだな。
「へ、へえ、実は……」俺はこれでもかっていうくらい低姿勢でジャエス親方に例の件の相談をした。
 これ、ジールから聞いたことなんだが、とにかく先に親方を上機嫌にさせておけとのこと。
 普通に見た夢を話してお願いするよりか、親方の相談が良く当たると聞いて……と、まず最初に言っておいたほうが、ラッシュ的にはいいぞとジールは言ってた。つーかラッシュ的ってなんだよ。

「ガッハッハ! そういうことか! 俺の噂がそこまで広まってるってか! 面白いじゃねえか!」
 うん、それを話しただけですげえ上機嫌になってきやがった。これでいいワケだなジール。
 ジャエスの親方は、手脂とヤニで黒光りするパイプに火を点けると、いきなり親方との過去話を始めてきた。
 この煙自体俺は好きな匂いじゃねえし、おまけにこういう長ったらしい話は大嫌いなんだ。我慢して聞いてたって30分が限度だ。眠気の方が勝っちまう。また俺にそこで夢を見させろっていうのか。

 ざっくり言ってしまえばほとんど自慢話だった。親方がオコニドの将軍の首を取りそこなったとか、ヒザに矢を受けたけど3日で完治して戦線復帰したっていう武勇伝とか……
 ああもう、正直どうでもいい。俺にとって親方は特別な存在なんだから。
 クッソ長い自慢話が終わりを告げて、さて、お前の見た夢っていうのを教えてくれという話にようやくなってくれた。

「それなんですが……」

 俺が見る夢。
 おそらく生まれて初めて見る夢。
 そして、正直口にもしたくない内容だ。
「俺……死んでるんです。戦場で」

 ジャエス親方は、これ以上にない驚きの顔で俺を見ていた。

 夢の始まりはこうだ。
 どこだかわからない戦場。周りでは敵味方の死体があちこちに散乱している。
 その中に俺も交じってる。背中に何本もの矢が刺さった状態で、泥の中に突っ伏して。
 ……と、ここまで来てなんとなくわかるかなと思うが、なんで俺が死んでるのが分かるのかっていうこと。
 そう、俺は、俺自身はそれを離れたところから見ているんだ。死んでる俺の身体を。
 死んでいる俺は今の姿じゃない。まだ体格もそれほどしっかりしていない、十年近く前の自分だ。
 どのくらいいろんな戦場を渡り歩いたかなんてもう知っちゃいない。泥と血煙にまみれながら斬りあっているだけの場所。

「なぜそれがお前だとわかるんだ?」ジャエスの親方が、使い古した手帳に何かを書き込みながら聞いてきた。
 俺一人くらいしか獣人の傭兵なんていなかったし、それに来ていたズタボロの革鎧が、以前着てた自分のやつと同じだったから……ゆえに、これは俺自身だと直感したワケだ。
「ふん……俺も趣味で人の夢を聞いて相談とかをやってはみたものの、この手のは生まれて初めてだな、死んでる自分を自分が見ているなんてぇのは」
 グレーの煙を大きく吐きながら、だがな……と親方は続けた。
「別に死んでるからっていって、それがヤバいことにはならない。そこだけは安心しろ。ただ……これからのお前の境遇とか環境、そして生き方が大きく変わる兆候かもしれん。夢の中の自身の死っていうのはそれを現してる」
 ほかに何か変わったことはなかったかと親方は俺にたずねた。

 自分の姿を見ている俺はというと、なんか地面からほんのちょっと浮かんでるみたいで。まるで、そう……この感触のイヤなじゅうたんに寝てるみたいな感覚だ。歩いても歩いても一向に若いころの俺には近づけない。
 そう、そして、まだ鼻面に十字傷がついていなかったっけ。
「結構鮮明な夢見だな……しかしそりゃもしかすると、本当に起きたことだったりするのかもしれねえぞ」
 親方はいったん書くのをやめ、分厚い手帳の前の方をパラパラとめくって読む。
「その時、なにかお前の身に重大なことがあったのかもな、それを思い出せなかったりとか。変な夢見なのは、記憶の底からそれをお前自身が引っ張り出したい潜在的な意識がそう作用させている……まあいずれも過去にあった体験談から導き出した答えだ」
 
 悪いな親方、もうここまでくると言ってる意味が全ッ然俺にはわからねえ。でもそんなことは今の俺が死んでも言えねえ。
 ってなワケで、また何か変化があったら俺に知らせろとのことで、俺はジャエスの親方の家を後にした。
 久々に緊張していたせいか、身体じゅうがすごく硬くなっていた。途中からわけのわからねえことばかり言ってるし、俺も頭から変な煙が出そうだったし。
 とりあえずは家に帰ってチビの相手でもするか。別にこの夢のせいですぐに死んじまうとかってことでもなさそうだし。

 その夜、案の定俺はまた同じ夢を見ていた。
 だが今度は違っていた、見ている俺自身じゃなく、俺の意識そのものが泥の中に突っ伏していたんだ。
 あの時、俺が遠くから見ていた若い俺自身。
 しかし身体を動かそうにも、指一本すら動かせない。そして耳から聞こえてくるのは人間たちの殺し合いの怒声ばかりだ。
 息をしようにも、胸の奥には泥水と鉄臭い血が詰まって、ヒュウと鼻から漏れるわずかな呼吸だけしかできない。
 ああ、そうだった。痛みって、『痛い』を通り越すと焼けつくような熱さになるんだっけな。
 真っ赤に焼けた鉄の串を刺されたみたいな猛烈な熱さが、背中を覆っていた。矢だ、何本もの矢が刺さっているんだよな、俺。
 今まで見ていた夢を思い出しながら、俺は現実じゃない熱い痛みと戦っていた。
 しかし、そのうちだんだんと意識が泥と同じになって……

『おれ、ここでしぬのかな?』

『ああ、ばかやっちゃったな、へんにとびこんじゃったからいっぱいやをうけちゃった』

『おやかたごめん、いきできない。おれ、もうだめ』

 しかし俺の意識が薄れてゆくうちに、だんだんと今の俺自身の意識ははっきりとしてきた。
 そうだ、俺は確か最前線で勇み足で出て行っちまったから、塹壕に隠れていたオコニド軍の弓兵の矢を背後から受けて……!

『おやかたぁ、おれもっとでっかいにくくいたかっ……」

 ーいけません。

 その時だった、倒れている俺の目の前に、声とともに光り輝くなにかが。
 優しくも厳しい、だけどどっかで聞いたことのあるような懐かしささえ感じる……
 そう、それは生まれて初めて聞いた女性の声。

『だ……れ?』

 ーようやく見つけましたよ。わたしの……ー

 そしてまた、俺は汗だくの状態で目が覚めた。
「なん……なんだ、あれ」
 悔しかった。あともう少しで俺の夢が、忘れていた記憶が見えてくるとこだったのに。
「おとうたん、だいじょぶ?」俺の隣では、チビがずっと俺の指をつかんでいた。
「あ、ああ、ちょっとな、また変な夢見てたんだ」
「おとうたん、ずっとうんうんいってた……」
 
 そっか、俺、ずっとうなされてたのか……

3話

「で、どこまで見れた?」
「爪先……です」
 と、こんな感じに俺は、ジャエスの親方に夢の詳細について語っていた。

 あの後俺は、謎の女性の姿をちょっとだけでも見なければと、動かない身体を必死によじらせて、どうにか首だけ上げることができたんだ。
 で、見えたのが足だけという結果に。

「どんな感じだった、靴は履いてたか?」
「いえ、それが……俺と同じだったんでさぁ」
 黙々とペンを走らせていたジャエス親方の手が、止まった。
「なにぃ⁉ っていうと、お前と同じ獣人の……女がそこにいたってことか?」
 俺は無言でうなずいた。もちろん俺の足みたいなでっかいやつじゃない。もっとほっそりとした、クリーム色のきれいな爪先だった。

「どうにかこうにかお前はその女を見ようとしているワケ……か。ふん、なかなか興味深いな」
 この親方のパイプの煙にもようやく慣れてきたころだった。それだけじゃない。その声に妙な懐かしささえ感じていたんだ。
「女の獣人の傭兵なんざ見たこともないしな……いや、一応はあるがお前の言ってる足とはかけ離れてるし、こりゃあ、お前の夢でこの女はなにかを伝えようとしていたのかもな」
 自分もそうじゃないかと思っていた。俺が戦場でのたれ死ぬなんてこと自体あり得ないし、だけど……

「……いや、違うな」
 突然、ジャエスの親方が高い天井をじっと見据え始めた。
 違うってどういうことだと聞いてはみたが、俺が違うと言えばきっと違うんだ、と。どういうことだ一体。
 そんなことを言って親方は黙りこくってしまった。
 
 まあ俺もこれ以上どうしようもねえし。ということで、仕方なく親方の家を後にした。
 …………………………………………………………………………………………………………
 そしてまた、俺は同じ夢を見ていた。

 薄れゆく意識の中、あの女の声が頭の中に響く。

 ーこんなところで倒れてしまってはいけません。
『なんでだよ……おれ、もうつかれちゃったよ、からだうごかない』
 ーだめです、あなたにはこれからまだまだやるべきことがあるのです。さあ、立ち上がりなさい。
『やるべき、こと……?』
 ーそうです、わたしは、あなたの……
『あなたの、なんなんだよ……?』

 いいところにまで来て、また俺は目が覚めた。
 チビが言うことには、うなされつつも何かをしゃべっていたらしい。
 全く、いつまで俺はこんな変な夢に振り回されるんだか……なんて思った直後だった。

「オイ! バカ犬いるか⁉」
 1階から、どっかで聞いたような声が響いてきた。わかる、あれは親方……ジャエス親方の声だ。
 食堂に降りると、親方は一番大きなテーブルの上に、何枚もの古地図やら古びた分厚い本を広げ始めた。
「おいバカ犬、ガンデの兄ィの書斎はまだそのまんまか?」
 俺と顔が合うやいなや、ジャエスの親方は唐突に親方のことを聞き始めた。
「へ、へえ、全く手はつけてません」
 そう。俺は全然親方の部屋には入ってない。すべてをあのまま残しておきたかったから。
「よっしゃ、んじゃしばらく兄ィの部屋使わせてもらうぞ!」
 おいおい一体どういうことだ、いくら弟分とは言ったって、やっていいことと悪いことくらい分かるだろうが。親方の部屋を荒らす気か⁉ なんて思った俺は、ついついジャエスの親方に食ってかかってしまった。
「つべこべ言うんじゃねえボケが! おめえのためにここに来たんだろうが! 答えが見つかりそうなんだからつべこべ言うんじゃねえクソ犬!」
 え、答えっていったい……?
 バカとかクソとかさんざん言われたことをすぐに忘れた俺は、また親方に問い返した。
「お前の夢に出てきた女だ! 確かに女性の獣人の傭兵なんてえのは過去の記録には一切存在しなかった。だがな……一度だけあるんだよ! 似た記録がな!」
 記録にないけど一度だけある? どういう意味だ⁉
「サン=デレクト高原の戦いって言ってな。13年前にあったでっけえ合戦で……あったんだよ!」
 ジャエス親方は俺に向き直り、ニヤリと笑った。

「狼聖母、ディナレが降臨したんだ……!」

4話

 ジャエスの親方は、まるで俺の家に引っ越しでもするかのようだった。
 ここからそれほど離れてもいないトコに住んでいたのにもかかわらず、馬車に積まれた大量の荷物。これ全部ジャエス親方の持ち物かよ。と思わずトガリと俺はぽかんと放心してしまった。
「あァ? まあ知らんでもしょうがねえか。この家を建てたのはガンデ兄ィと俺なんだ。傭兵の仕事の給料からコツコツと貯めてな。けどお前の稼ぎの方がかなり上だったみたいだな……全然広くなっていやがる」

 そういって俺やトガリの手を借りながら、どかどかと専用の椅子やらでっかい鉢植えまで、搬入作業は昼まで続いた。
「お前の話を聞いててなかなか興味深いことに気付いたんだ。もっとも趣味でカミさんから習った夢見解読法だけどな。しかしそういうものとは違う。分かるか……?」

 分からないから、さて昼メシっと。

 ジャエスの親方はスパゲッティが大好物だそうだ。これまた自分の家から持ってきた大量の麺を、トガリに命令してぐつぐつ茹でるわ具を作るわで、さすがのトガリも悲鳴を上げそうになっていた。
 そんなこんなで皿に盛られた超山盛りの、そしてニンニクと唐辛子が大量にぶち込まれたスパゲティを、さあ食えと俺たちにも勧めてきた。
 あたりまえだろ、ここまで旨そうなニンニクの香りさせてきたなら一気に腹の虫が鳴っちまう。食うぞ食うぞ!
 (もちろんチビにこんなキツい臭いの奴は食わせられねえから、別にトマトソースを作っていた)

「兄ィと一緒に食った時のことを思い出すぜ……金なんて全然無かったころ、大好物のスパゲティに具なんてぜいたくで全然入れられなかったんだ。塩とオイルとニンニクだけのこいつをな、昼間に腹が張り裂けそうなくらい食って、夢を語ったよ」
 ジャエス親方はメシを食いながら、合間合間に親方との思い出話を語ってくれた。

「今でも思い出すさ、いつか俺は自分で傭兵ギルドをオッ立ててやるぜ! ってな。二人で誓ったことを。それがこうして……」
 口いっぱいに含んだメシを、これまた自分で持ってきたビールで流し込んで続けた。
「…お前みたいなやり手の戦士が受け継いでくれている。兄ィも地獄で喜んでいるだろうぜ」
 その言葉に俺はちょっと鼻の奥がツンとなっちまった。大量のニンニクが鼻に来たせいじゃない。ヤバい。でもいま泣きでもしたら、ジャエスの親方にアホかとか言われそうで、ぐっとこらえた。

 そう、俺たち傭兵は絶対に天国へなんか行けないと分かっている。だから地獄で待ってろ、地獄で騒ごうぜと、あえて最悪な場所である地獄を俺たちの待っているあの世としているんだ。親方は口癖のように言ってたのを思い出した。

 脱線しっぱなしだったな。さてと、俺の夢の話の続きだ。
「兄ィはな、ああ見えても結構手帳にその日その時の気になった出来事を書くのが好きだったんだ。日記ほどでもないけどな。それがここの書斎に大量にしまい込んである。それを見させてもらいに来たわけさ」
 手帳とはいえ相当な量だ。まだ字が読めなかった自分でも、書斎においてある大量の手垢まみれの分厚い本の量を見ればわかった。
 手帳を一冊書き終えると、それに革表紙を貼り付けていつでも読み返せるようにしてたんだ。
 
 けど、それと狼聖母の降臨と一体どういう関係が?

「そこだ! お前みてえな頭が空っぽのバカ犬には無理かもしれねえがな、見た夢からしてどうもそりゃディナレ降臨があった日の軍の記録と不思議なほどに状況が一致してるんだ」
「でも、俺にはそこまで記憶が……」
 そう。まだいまいちピンと来ない。『それ』が本当に俺が過去に体験したものであるのかすら。
「ああ、それを今日からじっくり調べ上げてやるのさ。お前を実験台にしてな。ガハハハ!」
 実験台ィ⁉ なんかイヤな響きだなそりゃ。
「安心しろバカ犬。おめえの頭をカチ割ったところで砂利しか詰まってないのはわかってる。やりてえのはな、俺が独自に編み出した『夢見質問法』だ!」
 ジャエス親方いわく、夢見質問法とは、なんでも寝ている相手に話しかけることによって、その夢を操作したり、質問に答えさせてしまう方法なのだとか。
 つーか、どういう方法なんだ? ちょっと怖くなってきた。

5話

 夜がきた。
 俺は珍しく久しぶりに食堂のテーブルでチビと一緒に横になった。仕事から帰ってきてすぐに泥のように寝たことを思い出しながら。
 しかしそばにいるのは親方……でなくジャエスの親方。それにトガリが俺の左右で見守っている。俺がさっさと寝るのを。

 当たり前だが、こんな状況で眠れるワケがない。
「……どうしても、ここで寝なきゃいけねえのか?」隣にいるチビもこんな状況でうつらうつらしている。ちょっとかわいそうだ。
「まあな、おめえの寝室は臭いわゴミ置き場みてえだわでちょっと……ありゃ無理だ」と言って親方は手にした小さい革袋の中から、茶色い固まりを取り出した。
「あ、そそそれもしかして!」その固まりを見てトガリ歓喜した「ご名答だメガネ、こいつはお前の故郷、アラハス産のお香だ」。
 お香って確か金持ち連中が部屋の中とかで点けてる、俺たちの鼻にはちょっときつい匂いを放つやつか。
「これを焚くとな、催眠効果のほかに、夢の中でも意識と記憶を保てられるようになるらしいんだ。分かるなバカ犬。俺の言ってることが」
 半分眠りながら俺は聞いていた。わかる。要は何としてでも謎の女の正体を確かめてこいってことだろ?

 そんなことを考えてるうちに、親方の香に火がともされ、それほどキツくない穏やかな香りが俺の周りを漂い始めた。
「なな懐かしいな、このお香……たしかこここれ一個で金貨20枚くらいの値段がしししたはず」
 げっ、マジか。と思った瞬間、俺の意識は深く落ちた。
 ……………………………………………………………………………………………………………………………………………

 夢の中で相変わらず、俺は血の匂いのする泥水の中で倒れていた。背中には無数の矢が刺さり、痛みでもう意識すら朦朧としかけている。
 そして、目の前にはあの白い爪先が。

 ーさあ、立ち上がるのです。私にあなたの命の輝きを見せて!

 耳……いや、頭の中に響く女性の強くて優しい声。
 なぜだろう、この声を聞くと、ここであきらめちゃダメだ、って奮い立たされていくようだ。
「うっせえな……おきるよ、おきてたちあがりゃいいんだろ」まだ年端も行かない俺は、激しい痛みをこらえ、ゆっくりと立ち上がった。
 沈むぬかるみの中をしっかりと両足で踏ん張り、泥だらけの俺はようやく立ち上がれた……が。
 張り詰めた意識がそこで尽きかけようとしたとき、ふわりと、目の前にいた女が俺の身体を支えてくれたんだ。

 それは、生まれてから今まで感じたことのない、どんなものにも例えることのできない、優しい風のような両腕。

 そのままぐいっと、彼女に強く抱きしめられた。
 こう言ってしまうとアレだが、ジールの身体よりも柔らかく、そして今まで嗅いだこともないような甘い花の香りがした。
 ああ、意識がそのまま眠りについてしまいそうだ、なんて思ったが、あいにくここは夢の中だった。夢の中でさらに眠ってどうする。
 でも、ほんと気持ちがよかった……これが女性っていうのか、なんて俺は思ったさ。

 ーよく立ち上がってくれました。それでこそ……。
「それでこそ……?」俺は彼女に問いかけた、そう、彼女の……もしも狼聖母であれば、顔も見てみたいし。

 ゆっくりと首を上げて、俺は彼女の顔を見た。
 白く輝くような薄いベールの向こう側に見えた、その顔。
 長い鼻面に黒くとがった鼻。頭の上には三角の耳。ああ、俺と同じ獣人だ。
 そして……眉間から両目の間にかけて、深く刻まれた十字傷。
 これか! これがルースの言ってた彼女の傷跡……狼聖母の証か!

 ーよく立ち上がってくれました。それでこそ私の子です。

 え、俺が……あんたの子供⁉
「なんなんだよ、こどもって。わけのわからないこというんじゃねえよ、いいからはなせってば!」
 いつの間にか背中に受けていた矢の痛みは消えていた。

 ーあなたの命の輝き、そして力と優しさ。ずっと私は求め、探し続けていました……

 ディナレは俺の身体を地面におろした。
 なんなんだこいつ、いきなり俺を抱きしめるわ、意味不明なことを言ってくるわで。
 けど、周りにいたやつらと違って、この顔に傷のある女には、不思議と警戒心は沸いてこなかった。
 それどころか、なにか……自分の心の奥底に、懐かしさと、それでいて感じたこともないような暖かさがにじみ出てくるようにも思えた。
 親方という存在しか知らなかった自分にとって、初めて感じた柔らかく優しい声、そして抱きしめられたぬくもり。

「かあ……さん?」ふと、自分の口からそんな言葉が漏れ出た。
 彼女は静かな笑みを浮かべ、こくりとうなづいた。

 ーええ、何百年と続く私たちの意志を受け継ぐ子。それがあなたです。

 そういえばそうだった。ディナレはこの時生きてりゃ、もう百歳は優に超えているはず。俺らは百歳以上生きてゆけるからとはいえ、いま目の前にいる彼女のような若い姿を保っていられるはずがねえし。
「おれをどうしたいんだ?」
 俺は問いかけた。なぜ死にかけの俺を救ったのか、なぜ年齢すら全然違うのに、俺のことを子だなんていうのか。それに……

 意志って、いったい何なんだと。

 そんなことを思っていると、彼女はひざまずき、泥まみれの俺の頬に両手をあてがった。
 細く長い、ジールのようなすらりとした手の指。ああ、女性の指だ。

 ーあと何年かしたら、あなたの元に様々な出会いと別れがあるでしょう。みんな、あなたを慕ってくる仲間たちです。その中であなたは……

 彼女は俺の鼻面に、軽く口づけをした。
 突然の出来事に、一気に俺の胸はドキドキと早鐘を打ち始めた。爆発する寸前だ!
「な……⁉ ちょ!」暖かな吐息が俺の鼻や耳元へとかかる。全身が心臓にでもなったみたいだ。なんなんだよ一体!

 ー自分の使命に、少しづつ目覚めていくはずです。私が叶えられなかった思いに。

「おい、いってることがよくわからねえよ! つーかはなせよ!」抵抗したいが、ドキドキが治まらなくて力が出ない。

 ーさあ、いまから私の思いを、あなたに捧げます。

 その時だった。
 鋭い刃で斬られるような、真っ赤に焼けた鉄を押し当てられたような。今まで体験したこともない激しい痛みが俺の全身を襲った。
 全身を切り刻まれるかのような耐えきれない痛みが身体じゅうを駆け巡り、そしてそれは俺の鼻面へと一気に集中していった。
「ぎゃあああああああ!!! いたいいたいいたいいたいいたいいたいいたい!!!!」
 俺は痛みに耐えきれず地面を転がりまわった。だけどその程度じゃこの激しい痛みは一向に消えなかった。

 ーそれは私のしるし。私があの時負った痛みです。辛くても今は耐えるのです。

「いてえ! いてえ! いてえ! いてえええええ!!! ぢぐしょおおおおおおお!!!」

 ーこの痛みが消えたとき、あなたはここで遭ったことをすべて忘れているでしょう。別の思い出に変わって。そう……

 彼女は白く輝く光になって、痛みに叫び、のたうち回る俺の前から姿を消した。

 ーいつか、その日が来るまで。
 ……………………………………………………………………………………………………………………………………………

「フィゼットの月の4日。あいつはいつにもなくフラフラになりながら帰ってきた。俺がどうしたのか尋ねると、『鼻を斬られちまった』と弱々しい声で一言。見てみると、やつの鼻面の上には十字の傷がついていた。おれが名誉の傷だなと笑って答えてると、こんな傷つけられて最悪だ。と、そのままふて寝してしまった。結局のところ、誰にこんなご丁寧な十字傷をつけられたのかは、全く記憶に残っていないとか言いやがる。確かにそうかも知れないな。戦っているときにそこまで気を回せられるもんじゃない。俺だって昔はそうだった。家に帰ってようやく腹に槍が刺さってることに気付いたことだってあったし。戦場で張り詰めた気が、記憶も痛みも全て忘れさせてしまうんだ。まあいい、明日にでも傷を癒しに温泉にでも連れて行ってやるか。確か近くの火山の……」

「と、こういうことだ。お前はあの時つけられた傷を全く思い出せずに記憶の奥底へ封印していたんだ」
 静まり返った書斎で、ジャエス親方が一冊の日記を手にぽつりとつぶやいた。
「フィゼットの月の3日……その時にリオネングの騎士団を含む多くの残存兵が、白く光る服に身を包んだ女性を見たと記録に残ってる」
「それが、狼聖母ディナレの降臨……っすか」俺の傍らでは、トガリが驚きの顔で俺を見つめていた。
「ああ、そしてその翌日にお前はここに帰ってきて、ガンデ兄ィにそれを報告したんだ。けどディナレのことなんてもはや思い出せずに、誰かに鼻を斬られたってことでな。運よく兄ィがその日のことを記していた。これですべて納得がいく。つまり……」
 
 親方は俺の鼻面の傷跡に手を置き、こう言った。
「おめえのそれは刀傷とかじゃねえ、いわゆる『聖痕』ってやつだ」
 聖痕……初めて聞く名前だった。

「お前は狼聖母ディナレの加護を受けたんだ」

 いつものことだが、カゴって何なんだかさっぱりだった。
「ンなことも知らねえのかバカ犬。つまり、えっと、神様の……」ほら見ろ、ジャエス親方も答えに困ってる。
「えっと、まま護られてるってことだよ。いいいいつでもディナレ様が側にいて、厄災から守ってくれるんだ」
 トガリの野郎がそう言ってくれたのはいいが、あいにくと俺はこういう生き方してたから、身体だけは頑丈だし、ケガというケガなんて全くしたことなかった。矢が刺さってもメシをたくさん食って寝てれば半日で治っちまうし。
「ん。まあとにかくその夢見からして、おめえがディナレ様に選ばれたってことだけは確実ってことか。しかし……」
 親方は天井をじっと見つめ、何か考えながらパイプの紫煙を吐き出した。
「ディナレの言ってた、その日っていうのは一体何なんだか……な」

 親方は知らないけど、俺にはそれなりに心当たりがある。そう、マシャンバルのことだ。
 しかしもっとも、この件は俺だけで済む話じゃない。国同士のことだ。俺は仕事が来たら敵対するやつを叩ッ斬るだけ。
 あまり俺には関係のないことかもしれないな。そういうのはお城にいるお偉いさんだけでちゃちゃっと済ませてもらいたい。

「ところで……」そうだ、ちょっと気になってたことがあったんだ。
「俺がこの鼻に傷をつけられてからってものの、イマイチ嗅覚……っていうのかな、鼻の感覚が悪くなってきたんだが、それにも意味ってあるのか?」
「おめえが風呂嫌いで臭えからじゃねえのか? 元が臭けりゃ鼻だって参っちまうわ」
 マジか……原因は俺そのものだったのか。

「でででもこれで、ラララッシュを悩ませている原因が分かったのはいいいいことじゃない? きっとこれでゆゆゆっくり眠れるって」
 窓を見ると、朝日が昇りかけのところだった。そうだな。みんなには夜通し俺に付き合ってもらったんだよな……
 そんなこんなで加護の意味もイマイチ分からぬまま、俺を毎夜悩ませてた悪夢は、これを機にぴたりと見なくなった。

 ジャエス親方はというと「お前に興味がある」ってことで、親方の遺した日記やらメモを読みつぶしたい。だからここにしばらくの間居させてもらうぞとのこと。
 
 最初ははた迷惑だったが、こうして見てみると、まるで親方の生きていた昔に戻った感じがして。俺はちょっとうれしかった。
 チビの方もやっぱり同じ人間だからか、ジャエス親方に結構懐いてるみたいだし。なんかちょっぴりさみしい感じもするが、これでいいのかな……なんて。

 町外れにある誰もいない公園で、俺はチビの遊びに付き合いながら、ジャエス親方の言ってたことをずっと考えていた。
「俺、もうこの町に居続ける意味がないのか……」なんて独り言を漏らしながら。

 そうだよな、この前の戦いで感じた胸の高鳴りと高揚感、そして熱くなった身体。それが今の生活には一切存在しない。
 このままここで年寄りになるまで生き続けるのは、結局俺自身の心を殺してしまうのかもしれない。
 そうやって考えてみると、案外あの時ゲイルが言ってた生き方……別の国に行って新たな人生を選ぶってやり方も、一つの正解なのかもしれない。
 だけど、こいつを……チビをこのまま置き去りにしちまってもいいのか? と俺のもう一つの心が問いかけてくる。
『お前はチビの親なんだろ? 以前孤児院へ連れて行ったときに泣き叫ばれたことをもう忘れたのか? 保護者ならばあの子が大きくなるまでここにいるべきじゃないのか?』と。

 チビは芝生の上で飛んで逃げてゆくバッタを追いかけたり、時には俺の頭を踏み台代わりにして、高い木によじ登ったりと、ずっと楽しそうに遊んでいる。
 そう、今は楽しい盛りだ。だけどこいつがあと何年かして、いろいろ自身で物事を考えられる年頃になってきたらと思うと……血の繋がりも一切ない、そして人間とも違う獣人の俺。チビはこんな存在をきちんと認めてくれるのだろうか?
 やはり、同じ人間であるジャエス親方夫婦のところへ預けたほうが……

 ずっと座りっぱなしだった腰を伸ばして立ち上がると、公園の先の方に教会が見えた。そっか、ここの教会ってたしかディナレを奉っているんだったっけか。
 なんて思い出しながら、俺はこの前の夢での一件を思い出しながら、フラリと惹かれるように協会の方へと足を向けた。チビの手を取りながら。
 俺の背丈より大きな教会の扉の上には、手を合わせて祈りを捧げている狼聖母ディナレの石像があった。
 だけどやっぱり彼女の顔そのものが見えない作りになっている。
 肝心の顔……それはフードで隠されていて、彼女が獣人であることが分かる程度に細い鼻面がちょこんと見えるだけだ。
 しかし俺は見たんだ。こいつの素顔を。
 俺と同じ。いや、彼女が自分自身で刻んだ傷。それと同じ痕が俺の鼻面の上にも存在する。

「かあさん……か」ふとあの時に出た言葉。
 不思議だよな。俺は生んだ親の顔も、ましてや親方に買われた時のこともほとんど覚えちゃいない。つまりは親そのものが記憶には存在しちゃいないんだ。だけどあのとき、ディナレの顔を見たときに口から出た母さんという言葉……分かってるさ。彼女が俺の本当の親じゃないっていうことは。
 でも、ちょっとだけでも知ってみたい。俺の親ってどんな人だったのか。

「チビはかあさんに会ってみたいか?」そういえば、チビも俺と同じだったな。俺と初めて出会った時、もうお前の傍らには冷たくなった存在しかなかったし。つまりはあの死体も親かどうかだなんて全然わからないワケだ。
 チビは小首をかしげたあと「おとうたんだけでいい!」だと。やっぱりこいつには俺が必要なのかな。いや俺だけがすべてなのかな。

 チビも俺と一緒。親を知らずに育った仲なんだよな。つまりは……

「探しに行くとしたら、チビ、お前も一緒に行くか」チビを抱き上げ、帰路へとつこうとした時だった。

「ミツケタ」

「⁉」どこからともなく、奇妙な、人とは思えない声が風に流れて聞こえてきた。
 抑揚のない、無機質で低く消え入りそうな小さな声が。
 周りを見渡しても、人気のない街並みと木々しか生えていない。俺とチビだけしかいない空間。

「ミツケタ……」「ミツケタ」「ミツケタ!」その声はだんだん数を増してくる。

「おいコラ姿をあらわせ! 俺の前に出てこい!」
 俺の耳を働かせても、声の主たちはどこにいるのか全く見当がつかない。家の陰か、路地裏か、はたまた屋根や木の上か……俺はたまらず、見えない存在に向かって大きく声を張り上げけん制した。
「こわい……やだ」チビは小さく震え、俺の胸にしがみついていた。
 小さな身体をぎゅっと抱きしめると、チビの恐怖感が俺の身体にも伝わってくるのが感じられる。わかる。チビにも聞こえるんだ。

 そして、声はそれっきり途絶えてしまった。なんだったんだあれは……
 急いで俺とチビはこの場を後にした。足早に、振り向かずに。

 俺は一生懸命考えた。ミツケタ……って声、あれはいったいなにを見つけたんだ。俺のことか? ジャエス親方の言ってた加護とかなにかに秘密でもあるっていうのか。
 まさかそれとも……チビのことか?

 いずれにせよ、俺たちは誰かに見られている、ワケの分からない奴らにあとをつけられているってことだ。
 今まで感じたことのない、言い知れぬ恐怖を感じながら、俺とチビは帰路へとついた。

 終わり

 

番外編 漆黒の花園

 長らく続いてきた大戦で、今はすっかり手入れの行き届かなくなってしまったリオネング城の花園。
 ほとんどの植物が枯れ果てた中、その奥に一つの小さなドアがあった。
 そのドアの先はどこへ行くのか、どこにつながっているのか、だれも知らない。
 ただ一つだけ城の皆が知っていること。それは特殊なカギがないと絶対開かないとのこと。

 ある日のこと、小さな白い手が、がちゃり、とそのカギを開けた。
 小さなドアよりもさらに小さな背丈。おおよそ人間と違うその風体。
 小さな身体は、陽光さす奥の広間へと続く長い石造りの廊下の上を、ちゃっちゃと爪の音を立てながら歩んでいった。
 その廊下の突き当りには『研究室』と表札の札の下げられた扉が。

「お久しぶりです、デュノ様」ドアを開けると、埃で薄汚れた白衣に身を包んだ若い人間の女性が、笑顔で小さな存在に挨拶をした。
「う……ん、その名前で僕を呼ぶのはやめてくれって言ってるじゃないか」
「でも、デュノ様はれっきとした……」
「僕はそれ以上でもそれ以下でもない。ルースでいいんだよ。タージア」気まずそうに鼻を掻きながら、白く小さな獣人の青年=ルースは言った。
「ルース……様」
「様もいらない。ルースでいいって」
「は、はい……ルース」

 部屋の中心にある広い机の上には、赤や緑、カラフルな色の薬が入った試験官があちこちに散らばっていた。
 その傍らには、医学書と思しき厚い事典が何冊も積み重ねられている。
 無造作に開かれたそのページには、人体の解剖図、さらには骨格図と……

「聞いたよ、マシャンバルの捕虜が手に入ったんだって?」いそいそと専用の白衣を身にまとい、ルースはタージアに告げた。
「ええ、傭兵のラッシュと弓兵のアスティが先日の作戦で運良く捕まえまして。ただ無傷ではありませんが」
 ラッシュという言葉に、ルースの眉がぴくっと反応した。
「ラッシュ……ほかに何かなかったかい?」
「はい。ルース……様が事前におっしゃっていらした通り、マシャンバルへ亡命したゲイルという獣人からも情報を入手することができました、ただ……」
「ただ、なんだい?」タージアから渡された羊皮紙のレポートを読む、その目は真剣だった。
「報告をしてくれた新兵のアスティなのですが、その日の晩に飲みに行った帰り、近くの川で溺死体となって見つかったとの連絡が……」
「な……⁉」
「泥酔した挙句、誤って川に落ちたとのことですが、遺体には暴行された痕があったそうで……おそらく内部の親オコニド派の仕業ではないかと」
 その言葉に、ルースの奥歯がぎぎっと鳴る。
「く……そっ、奴らまだいたのか! ほぼ掃除し終えたとばかり思っていたのに!」
「残念ですが……このリオネングの大臣たちも、一枚岩とは言えませんから」

 まだまだ道は長いな、と小さな黒い瞳を天井に向けた。
「この場所も、いつまで隠しおおせるか分からないもんな……」小さなため息が一つ、埃の舞う空間に消えた。

「捕虜、ご覧になられますか?」タージアがさらに奥へとつながる扉を開けた。
 さっきまでの日の光がさす通路とは違い、そこから先はランプのか細い明りだけが手がかりの、頑強な石造りの湿った通路となっていた。
 だが、レポートを読んでいるルースの身体は一向に動く気配すら見せない。
「ルース様?」
「ラザラス……」小さなその手は小刻みに震えていた。

「ラザラス……だと⁉」

 暗い一本道の終わりに、その牢屋は存在した。
 頑丈な鋳鉄で作られた仕切りの厚い扉を開けると、重々しいかび臭さが二人の鼻をつく。

「気を付けてください。まだまだ凶暴さは残されているかもしれませんので」前を行くタージアが、小さな身体のルースに話しかけた。
 身長差にしておおよそ彼女の半分くらいといったところであろうか。
 扉と同様に太く重厚感のある柵の奥。そこにマシャンバルの捕虜はつながれていた。
 
 ボロ雑巾のような上衣だけを身につけた身体はすっかり痩せ細り、暗闇にらんらんと輝いていた瞳は、まるで老人のように白濁していた。
「ここに来た当初はまだ普通な身体つきだったのですが、みるみるうちに老化しているようで……」
「食事はどうなんだ?」その言葉に、彼女は首を左右に振った。
「会話は?」
「ぎりぎり保てている状態です……が、基本我々リオネングに対する悪態しか口にしません」
 
 捕虜は二人の存在など意に介さず、ひたすら牢の中を行ったり来たりしていた。
「ずっとあの調子です。だけどあの進行具合からして、時間の問題かと……」
 わかった。との言葉にルースは、牢のカギに手をかける。
「ルース様!」
「言っただろタージア。僕はそれ以上でもそれ以下でもないって」
 牢に足を踏み入れると、床にはおびただしい量の血と、吐しゃ物が散乱していた。
『やはり、副作用か……』つぶやくルースの前に、捕虜が顔を近づけてきた。
 その鼻で、ルースの身体をふんふんと嗅ぎ続ける。まるで同族かを確かめるかのように。
「お前、は、人じゃないな」ひとしきりチェックをした捕虜は、ルースに小さな声で話しかけた。
「わかるかい?」
「ああ、お前、から、はラザラス大司教様と同じ匂い、がする」
 ラザラス……その言葉にルースは一瞬息を飲んだ。
「ラザラス…会ったことはあるのかい」
「いや、祭壇で少し、だけ姿を見た、だけだ。遠目でしか、見れな、かったが、お前と同じ……姿」
 ルースはなにかをこらえていた。怒りにも似た感情が沸き上がるのを。
 しかしそれを深い呼吸で抑えながら、また質問を続けた。
 オコニドとマシャンバルの関係について。

「マシャンバルは、とて、も友好的だった……が、その国に足を、踏み入れること、は我々には一切許されなかった。たとえ我が国の王であっても、だ」
「君たちはどこで儀式を受けたんだい?」
「ツタの壁、の、奥に、神殿がある。唯一オコニドに許された場所」

 捕虜は続けた。マシャンバルの神の子として永遠の命、さらには人を超えた力を授かりたいのならば、私たちに従え……と。
 神殿でそう我々に告げたものこそが、マシャンバルの神にして王、ディ=ディズゥだと言う。
「まだ、少年くらいの背格好だった、が、やせ細って、まるで骸骨のようだった……ああ、生きている感じすら、しない。骨、が、話しているようだった」
 そう。神王の言葉にだれも異を唱える者はいなかった。もうオコニドにはそれを受け入れるしか道はなかったからである。
「われわ、れ、オコニドの兵、は、神国の民となるべく、儀式、を受けた。神の血と呼ぶ真っ赤、な水の、沸き立つ風呂に浸かり。そして神の酒を飲み……」
 だが朝を迎えるたび、兵の数は一人二人を数を減らしていった。唯一話すことのできたマシャンバルの神官いわく「身体が耐えきれなかった」とのことだ。
「徐々に自分、の感覚が研ぎ、澄まされて、ゆくのが分かっ、てきた。耳も、目も、鼻も。だが同時に姿、も、少しづつ変わ、ってきたん……だ」
 だんだんと捕虜の息が荒くなってきた。血にも似た生臭い吐息が、ルースの鼻を覆う。
「そう……一人、お前の国から来た獣人……我々と同じ儀式をして、そいつ……俺たちと同じ、人間と同じ姿、に、なった」
 ルースは直感した、ゲイルのことだと。

 そうして儀式を続け生き残ったオコニドの民は、一年で半数近くにまで減ったという。
 儀式に耐えきれず死んだとしてもそれは脱落ではない。お前たちの血肉として、お前たちの、そして神王さまの一部として生きるであろう、と神官は告げた。
「われわ、れ、は、新たな力を得て、またお前たちとの戦いに挑んだ。分かるか……? 新たなるオコニドは、今までの比ではない……それに、もうこの国の中にも……ガハァ!」
 突然、捕虜は大量の血を吐き出した。
「どうした、大丈夫か⁉」ルースが身体を支えるも、捕虜の目から、耳から、そして鼻からも血が流れだしてきた。
「はや、く、神の酒……もう、時間、な……い」
「死ぬな! お前にはもっと聞かなきゃいけないことが……!」ルースがぎゅっと手を握るが、まるで身体じゅうの血が抜けてゆくかのように、蝋のように白くなり、そして……
 血の海の中で、捕虜は、果てた。

「ルース様、大丈夫ですか⁉」
 おびただしい血のカーペットの上で、白い毛の獣人、ルースの肩は小さく震えていた。彼女の叫びに一切応えることなく。

「ク……ククク、そうか、わかったよラザラス。これがお前の答えなんだね」
「ルース……さま?」

 血にまみれた手の先。ルースは笑みを見せていた。
「いつか行ってやるさ、そして、僕が……この手で」

 不気味にゆがんだ笑みが、血の池に映り込む。

「この手でお前を……殺してあげるね」

ラッシュ、奇跡と出会いと

1話

事のはじまりは、俺が例の夢からようやく開放され、久々に熟睡している時だった。
「おい、起きろバカ犬」
「ンあ……誰だよもお……」
 ゴン!
「いでえ! 何するんだちくしょう!」
「俺だ、ジャエスだ。目ぇさめたか? さっさと起きて出かけるぞ」
「……へ、仕事っすか?」
「まあ、一応仕事みてえなモンだ、だがワケは聞くな」
「でも、なんでわざわざ親方が……?」
 ゴン!
「だぁあ! なんで殴るんすか⁉︎」
「ワケは聞くなと言っただろ!」
「で、でも、どこへ行ってなにするかくらい聞いてもいいンじゃないっすか? それくらい」
 その言葉に、ジャエス親方は突然ささやき声になって俺に告げてきた。
「ふん……この前な、お前が川で溺れている若者、助けたよな?」
「え、アスティの事っすか?」
「そうだ、あいつをこれから引き取りに行く」
 俺は直感した。外を見ると、まだ暗い……夜明け前だな。
 なんかウラがあるなと思った。だが親方のゲンコツがまた炸裂するから、とりあえずは聞かずに着いてくか、と。
 家の裏口から、誰も周りにいないことを確認していざ病院へ。
「先に礼を言わせてもらう……甥のアスティが世話んなったな」
 またまた殴られつつも聞いてみたが、アスティはジャエス親方の甥。オイと言われても全然俺には分からなかったが、アイツはジャエス親方の奥さんの弟の奥さんの……ダメだ、ややこしくて忘れた。
 まあとにかく、アスティは親方とは家族なんだってことだ。
 
 後から聞いた話だが、アイツは早くに親父を亡くしたらしく、ジャエス親方が親父みたいにかわいがっていたらしい。親方の方も奥さんが病気で子供を作れなくなったってことで、なんか自分の息子のようにかわいがっていたんだとか。親を知らない俺には全くピンと来ねえ。

 さて、本題本題。
 病院の裏口で身を潜めていたときのことだ。
「あいつ、どうもハメられたみてえだ」と。
 ハメる……? しかし誰がなんであんな奴を?
「軍……いや、このクソな国そのものだ」
 なんでこのリオネングがクソなんだ……普通に居心地はいいし。もうオコニドとのイザコザも済んだハズだし。意味が分からねえ。

 そんな俺の思っていることを察したのか、親方はまた俺に言った。
「思った以上にこの国は腐ってる……まさかここまでとは」
 親方はほとんど独り言のような言い方だった。

 しかし腐ってるだのクソだの…この前までのジャエス親方とはえらい違いだ。
 その時、ふと親方は俺に言った言葉……おそらく、この時に俺たちの運命は変わったのかもしれない。

「おまえ、この国を捨てる覚悟はあるか?」

事前に病院の親父とは話を済ませていたらしく、俺はアスティを目立たぬように麻袋に入れ、こっそりと病院を抜け出した。
 とにかく頭の中がハテナだらけだ。アスティの件といい、国がハメたといい……

 家に戻ったときには、もう朝告鳥の鳴き声が聞こえてきていた。
 アスティはまだ頭とか身体に包帯が巻かれていたが、それ以外には特に深刻なケガとかはなかったみたいだ。
 だが、ひどく落ち込んでるみたいで……ちょっとやつれ気味だし、この前会った時とはまるで別人のようだ。
「やっぱり、殺されそうになったんですね、僕……あのときはてっきりチンピラか何かに突然因縁吹っ掛けられたものだとばかり」
 家の奥にある大きい部屋にアスティは運び込まれ、あいつはことの経緯を話してくれた。
 深夜までひとりで飲んでいたアスティは、軍の宿舎に帰るときに数人の男に突然袋叩きにされて、そして川に放り投げられたんだとか。
 なるほど。それで川に投げ込まれて溺れ死んだようにされたってことか。
「アス坊、どうもお前を生かしちゃおけない奴らがいる……ある程度察しはつくだろうがな」
 アスティは力なくうなづいた、つーかジャエス親方ってアスティのことをアス坊って呼ぶんだな。

 つまり、先日の仕事が発端だったんだ。
 ゲイルの……そして人ともケモノともつかない奴らに襲われ、俺らの舞台は奇襲によって壊滅状態にさせられたこと。
 それしか考えられない……しかし誰が、いったい何のために⁉
「俺も人づてに聞いた話なんでな……要はこの国が、半分オコニド……いや、マシャンバルの連中に乗っ取られちまってるみてえなんだ」
 しかもそれは、つい最近の話でもないらしい。まだオコニドとの和平が締結する前のことだとか。
「俺たちが思っている以上に、マシャンバルってえのはヤバい国だってことだ」
 外に俺たちの状況が見えないように、親方は窓の厚いカーテンを閉めた。
 しかも、この前俺らが行った仕事……オコニドの掃討。あれはほかの場所でもあったらしく、親方が知る限りじゃリオネングの方がほぼ全滅するくらいの損害だったとか。
 そう、それもほとんど聞かされていない。
「軍部がマシャンバル派にとって代わられている……おそらくアス坊とバカ犬もこれで潰される危険性があったんだが、運良く残ったのはお前たちだけ……さらには出会ったライオン野郎から秘密を聞き出せた。これはマシャンバルにとっては誤算だったってことだ」
「そして僕も消されようと……そんな、そんな……!」アスティが悔しさに泣きだした。そうだろうな、今まで信じていた自分の居場所が、実は敵国に乗っ取られていただなんて、正直あり得ないことだし。
「とりあえず俺の知り合いが何人か軍や城に出入りしている、そこから中身がはっきりするまで、アス坊、お前はここでしばらくいろ」
 そうだな、いずれにせよまたアスティが治って外に出て戻っても、もしかしたらコイツ自体の籍が亡くなったことで消えているかもしれないし。
 あ、そうそう。
 ついでだからと思い俺は、先日チビと公園で遊んでいた時の謎の声をジャエス親方に話した。
 案の定、親方は深いため息をついた……そうだよな、これはもしかして俺も監視されているってことなのかもしれないし。
「こいつぁ、俺が考えてた以上に深刻かもしれねえな……」

 

2話

 とりあえず当分の間は外出を控えろ。とジャエス親方は言ってたけど、正直この家に缶詰めにされるのは俺もチビも耐えきれなかった。
 我慢して一日は家にこもっていたのだが……ダメだなこりゃ、トガリの手伝いでメシ作りとかしていたが、不器用だからあいつの足引っ張りまくりで、結局「ラッシュは何もしないで見てていいから」って。
 ジャエス親方は親方で、傷の癒えたアスティと一緒に書斎でいろいろ調べ物とかしてるみてえだし。
 やつも前線で身体動かすよりかは本を読みふけっているほうのが大好きだとか。だから後方支援の弓兵だったのか。
 こういう時、ジールやルースがいりゃ少しは話し相手にでもなれたのかな、なんて思っていると、通りの向こうの武具の仕立て屋から、俺の着てた鎧をきれいにしたぞとの連絡が来た。
 ありがてえ、この前の戦いでけっこう返り血で汚しちまったからな。あれ持ってるとチビも寄り付かないし。
 まあ、ちょっとならいいだろうと思い、俺はチビを連れて店へと足を運んだ。親方も最初はそれに難色を示してたけど、まあお前なら大丈夫かな、なんて、でも人のいない通りは気をつけろよとのこと。分かってる。俺もそこンところは警戒して歩くさ。

 店に行くと、さっそく年食ったオヤジが出迎えてくれた。
 ここは親方の時代から懇意にしてくれてる店だ、俺のときも鎧なんていらねえと言ってるのにもかかわらず、動きやすい革と金属の鎧を俺の体格に合わせて作ってくれた。だから俺はここの店しか行ったことがない。
「よお、子供連れてきたか! 元気でやってっか⁉」他愛のないことを話しながら、俺はいろいろ補修してくれた鎧をつけてみた。
 当たり前だが、俺の身体の一部みたいにぴったりだ。それに余計なパーツも足さないから断然動きやすいし。
「おとうたんかっこいい!」チビが手放しで喜ぶと、店主はいつかチビのも作ってやるか、だなんて言ってくれた。
 おいおい、俺はチビに戦い方を教える気なんてないぞ、なんて冗談交わしながら言ってたら、店主がポツっと俺に話した。
「お前、この1年でずいぶん丸くなったな」って。
 初めて親方に連れられてここに来たときは、まるで火の付いた薪みたいだったって。
 そりゃ一体どういう意味だって聞き返したさ。
「触れないし近寄れない、それにまともに見ることだってできねえだろ。お前はそんな感じがした」って。
 そっか……確かにそうかもな。俺はまだ小さな(鼻に傷がつく以前の)頃なんてまだ、親方以外誰とも口を開かなかったしな。
 でもそれは、裏を返せば親方以外の存在にどうやって接すればいいか、それが分からなかったせいもある。
 今はもう話せる仲間がいるしな。トガリジール、ルース……そしてチビ。
 丸くなったというよりかは、誰かしかと話せられる俺になれた、って言った方が正しいのかも知れないし。

 だけどそういえば……親父これからどうするつもりなんだろう。今までたくさんの下っ端かかえて、このリオネングの連中の鎧とかも作っていたが、今はもう落ち着いてきたし。
「ああ、近いうちにここ引き払って、別の国にでも行ってみようかなと思ってる」
 見渡すと、結構広かった工房もがらんとしていた。弟子も独立させて離れていったらしい。
「何十年とここリオネングで工房やってきたが、どうやらここで潮時みたいだしな。血なまぐさいとこがいいとは言わんが、もうちょっと平和じゃないところが俺の性に合ってる」
 親父は俺に目を向けて「お前もじゃねえのか?」って。そうとも。分かってるじゃねえか親父。
 今までみたいに金貨を渡して仰天させないように、今度は銀貨を渡して俺とチビは店を出た。チビの方はというとおまけで作ってくれた革製の小さな短剣のおもちゃをもらって上機嫌だ。
「おとうたんぱーんち!」やっぱりそうだ、っていうか剣で突っついてくるな。特に尻尾は。
 なんてまた人気の途絶えた道を歩いていると……

 ざわり、ざわりと俺のもとに迫ってくる気配が。
 この前といっしょだ。街路樹の上から、建物の陰からと。結構な数が潜んでいる。
 分かってる。どんなにお前らが身を隠そうが、気配を殺そうが一切無駄だ。
 俺の全身の毛にびりびり来るんだ。お前らの殺気が。
「チビ……いいか、俺にしっかりつかまってろ、それと……」
 チビも俺の感触の変化を薄々感じていたのか、心配そうな……それでいて何かを決したような目で俺の胸に抱き着いてきた」
「耳もふさいでるんだ、いいな」
 
 愛用の斧を持ってきていないのもそうだが、俺は左手にチビを抱えている。正直、ちょっと不利かもしれないかな。
 なんて考えることはやめて、俺は走った。まずは人通りの多いところまでいけば、奴らも手を出せないはずだ。
 城とかは行ったことがないので無理だが、それ以外の街の地図は大体頭に入っている。ずっとここで育っていたからな。
「ミツケタ……」背後から、あの気色悪い声がだんだん数を増してきている。
 時間を稼がないと、そしてチビをまずは安全な場所へ……
 正面の路地を抜けて、もう少しで開けた場所へ出られる、そう思った時だった。

 ガキッ!!

 鋭い金属音とともに、俺の右足首に激痛が走った。
「しまっ……!」俺は反射的に肩から仰向けに転んでいた、チビを投げ出さないように。
 恐る恐る足元を見ると……俺の右足首に、金属の鋸刃のトラップが思いきり食い込んでいた。
 トラバサミかこれ、踏んだ時に発動して、足をはさんで身動きとれなくさせるやつだ!
「おとうたん……」「見るな!」涙目でチビが訴えかけてくる。
 くそっ、誰がこんな街中にトラップなんてしかけたんだ。悪態をつきながら俺は挟んだ鋸刃を外そうとしたが……思いのほか食い込んでいた。骨は折れてはいなさそうだが、動けば動くほど鋸刃は食い込み、血が止まらなくなってくる。
 トラバサミともども地面から抜こうとしても、杭が地中深く埋め込まれていて容易に抜けないときやがる。

 まさか……俺の動きが読まれていた⁉ 最初から全部つけられていたのか?

 そんなことを考えているうち、奴らの足音は消え、何匹ものひょろ長い身体をした10人ほどのオコニド……いや、マシャンバルの気持ち悪い兵士が倒れた俺の周りを取り囲んできた。
 この前のときと同じ。だが中には服も鎧も身につけてない奴もいる、もはや人間とも呼べない姿だ。
 ぎょろりとした大きな目を俺に向け「カカッタ」とケタケタ笑っている。ちくしょう、俺を野生の動物と思っていやがるのか。
 じりじりと俺との距離を詰めてくる……さて、どうしたものか。
 足首が切れ落ちそうになるほどの激痛から意識を切り離し、俺は考えた。
 まずは一番近いやつを殴り倒してから武器を奪い取ることができれば3人くらいは一度に行ける。
 その後は……いや、またトラップが仕掛けられてる危険性もあるからな、相打ち覚悟で……

 ……相打ち⁉ なんで俺、自分が死ぬことなんて考えてんだ。
 狼聖母にカゴとかいうやつを受けてるんだろ、俺! チビを護らなきゃいけないんだろ!

3話

 ぎょろっとした目の男が剣を首筋に突き付けた瞬間、俺は身体をそらしながら顔面にパンチを叩きこんだ。
 直後に剣から手を放す、そうだそれでいい。
 そのまま剣を奪い取り、よろけた肩口に振り下ろす。これで一人目。
 隣にいたもう一人の腰を、俺はしゃがんだままの状態で一気に横に薙ぎ斬った。二人目。
 そしてその背後にいた奴の心臓めがけて剣を投げつけて三人目。ほんの一瞬で三人片づけることができた。

 だが、これ以上は距離が遠すぎて無理だ。どうする俺……このまま右足斬り落として残りを片付けちまうか。
 万事休すだなんて死んでも思いたくないが、これがピンチっていう状況なのかな、なんて思っていた時だった。
 距離を置いていた連中が二人、膝から音もなく崩れ落ちて行った。それも同時にだ。
「ラッシュさん!」
 ふと、俺の後ろから声が。それも、聞きなれたちょっとやかましげな声。
「久々に帰れたと思ったら……。ケガ、大丈夫ですか」やっぱり、ルースだった!
 両手には刃が内側に湾曲したダガーが握られている。こいつで二人瞬殺したってことか。
「あんまり大丈夫じゃねえけど……お前がいれば大丈夫かもな」
 その言葉に、ルースはあなたらしいですね、と鼻で笑っていた。
 いつもならここで一発殴る予定なんだが、今はとても心強い。
「わたしが奴らの気を引きますから、そのうちにそのトラバサミを外してください」そういうと、またルースは姿を消した。
 あいつ結構すばしっこいんだな。っていうかまともに戦っている姿を初めて見た気がする。

 残りのマシャンバル兵の視線が白い存在に向いている間、俺は足首に食い込んでいる鋸刃をどうにか外すことができた。

 俺が三人。ルースが二人仕留めて、残るは五人。
「正面からやり合うのは苦手なんで」と以前話してたことがあったなあいつ。
 とにかくいまルースに頼るしかない。
 と考えている内に一人が剣を振りかぶって俺の懐に飛び込んできた。
 チビに見えないように殴り倒した後、俺の足に食い込んでいたトラバサミをそいつの頭に被せてやった。鋸刃が顔面を食い破り、これで六人目。

 ルースはというと……腰につけているガラス瓶の中の液体を相手の顔面に引っ掛け、その隙に首筋をかっ切る……と、なかなか手の込んだ倒し方をしている。俺みたいに胴体ごとブッた斬るなんてのは、体格からして無理だしな。
 残る三人も同じような思考ばかりだった。何も考えずに闇雲に斬りかかってくる。だから俺も簡単に倒すことができた。

「足、大丈夫ですか⁉︎」片付け終わったルースが一目散に俺のもとに駆け寄ってきた。
 大丈夫……とは正直言えないかもしれない。予想以上に鋸刃が深く食い込んでいたから、歩こうにも全く力が入らないし、血もいまだに止まらない。
 こりゃ、もしかするとヤバいかもな……
「誰か呼んできた方がいいかも知れませんね」傷の具合を調べたルースの顔も深刻だった。
 くそっ、以前の俺ならこんなトラップすぐに避けてたっていうのに。
「ところで、なんでここが分かったんだ?」俺はチビに後ろを振り向かせないように下ろした。背後は死体の山だ。見せたくない。
「用事があって仕立て屋さんに行ったら、その直前にラッシュさんが来てたよって聞きまして……でもって後を追ってたらばこんな事態に」なるほど、タイミング良かったな。
 もう少し遅かったら俺もチビもヤバかった。
「ありがとな、ルース」
 俺のその言葉に、あいつは黒い瞳をまん丸くして驚いてた。なんだ一体?
「ひょっとして……ラッシュさんが私にお礼を言ってくるのって、生まれて初め……ッ!」
 突然、ルースの背後からドッと鈍い音がした。
「え……?」
 あいつの胸が、どんどん真っ赤に染まり始めてくる。
 槍が、まだ生きていたマシャンバルの兵が、事切れる直前、渾身の力でルースに槍を投げつけていた。
 ルースの小さな胸から突き出た槍……
「ちょ、なに、これ……」
「お、おい……ルース! 冗談じゃねえぞ! 死ぬな!」
 白い足元に広がる血だまりの中、ルースが……

 死んだ。

4話

血の海の真ん中で、俺は必死にルースを揺り動かした。
「おい! 起きろルース! 久しぶりに会ったのにいきなり死ぬな!」
 だが、その小さな身体は急速に温もりが消えていった……流れ出る血とともに。
「フザけんなよ……お前からまだ全然勉強教わってねえんだぞ! バカ野郎! 起きろ!!!」
 だらりと力なく下がる腕……完全に息絶えていた。

「るーす……?」胸に抱かれていたチビの目に、ルースが映った。
「るーす、どうしたの?」
「……死んだんだ」
「しんだ?」
「動かないんだ、もう……こいつは」
 何も知らないチビにどう説明していいかわからない。こいつと初めて会った時、チビは親らしき死体の隣にいたっていうのに。
「なんでうごかないの……? るーすどうしちゃったの? ねえ!」
「うるせえ……もう、黙ってろ……」悔しさと虚しさの入り混じったものが身体じゅうを覆う。もうどうすることもできないんだ、と。
「ねえるーす、おきてよ、おきてってば」もう片方の手で、チビはルースの身体をぐいと揺り動かす。
「やめろ……チビ。もうこいつは……もう」
「おきてってば! るーす!!!」
「やめろ!!!」

 そのときだった、不意に俺の周りの景色がグラリと揺れ動いた。
 まるでめまいか、それとも地揺れのような……もしくは誰かが突然突き飛ばしたような、妙な感覚が。
 俺も結構流血してたから、失血でめまいでも起こしたのか、なんて思ってしまったかのように。

「え?」
 あまりにも突然のことで俺もつい変な言葉が出ちまった。
「え?」
 そして、ルースも俺と同じ言葉を上げていた。

 ……じゃない。
 ルースの奴が、生き返っていた。
 いや、そうじゃない。
 ルースから流れ出た血が俺の周り一面に広がっていたはずなのに、それも消えていた。
「あれ、私……今さっきまで」
「ああ……死んで、た」あまりに唐突なことで、俺もルースもそれ以上の言葉が出なかった。
 もちろん、ルースの胸を刺し貫いていた槍も、そして傷も消えている。
 恐る恐る後ろを振り返ると……マシャンバルの兵の死体も、そして血の跡も、まるで最初からなかったかのようにきれいさっぱりと消えていた。
 もしやと思い、トラップに挟まれてちぎれそうになっていた俺の足首……も、だ。
 血の跡もない、動かしても全然痛くもない。
 そう、まるでケガなんてしてなかったかのように。

「落ち着きましょうラッシュさん。まずは深呼吸して状況を……」
「るーすー!」そんなルースの背中に、チビがうれしそうに抱き着いてきた。

 なんなんだ一体……⁉ 倒したはずのマシャンバル兵は消え、死んだはずのルースも、それに俺のケガもすべてが消えていた。
 でも、確かに戦った時の記憶は残っている……なぜだ⁉
「そういえばラッシュさん、私のことを突き飛ばしませんでしたか?」
 聞いてみると、ルースの意識が遠くなる直前、誰かに思いきり突き飛ばされたような衝撃を感じたらしい。それがこの結果だ。
「俺もな、誰かに突き飛ばされた感覚があって……」

「と、とりあえず、帰りましょう……」
 事態が呑み込めずにまだ呆けているルースと一緒に、俺とチビも帰路についた。

5話

 夜。俺たちは親方の書斎に集まり、ランプの明かりの下、これからのことについて話し合っていた。
 もう俺にとっては理解できない不可解なことだらけだ。アスティが殺されかけたこと、マシャンバルの気色悪い連中に襲撃されたこと。
 今日遭ったことなんてまるで俺たちの行動が完全に読まれていたし、オマケに奴らはご丁寧に罠まで仕掛けてくれやがった。

「マシャンバルという国は、国民が一目たりとも我々の前に姿を現したことのない暗黒の国家なんです。しかしその一方で、侵略した国の人たちを洗脳及び改良して自国の手駒にするという……全くもって恐ろしい国です」
 テーブルに広げられた地図を前に、ルースは説明を始めていた。
「それが僕とラッシュさんを通じて外部に漏れそうになったから、僕は殺されそうになったってことですか」アスティの言葉に、ルースはこくりとうなづく。
 そう、アスティの一件が気になっていたジャエスの親方は、ルースを通じて様々な情報を探っていたらしい。
「残念ながらアスティの件で分かる通り、このリオネングの軍も着実にオコニド……いや、マシャンバルに乗っ取られつつあります」
 俺がチビと出かけたときに聞いた謎のささやき、そして今日の襲撃。ここにいる限りもはや奴らの監視からは逃れられないところまで来ていた。
「マシャンバルの秘術……というと聞こえがいいかもしれませんが、奴らはもっと血なまぐさい方法を使い、ターゲットにした人に擬態するんです」
 ルースが言うところによると、リオネングの軍のお偉いさんがすでにその方法で『すりかえられた』らしい。
 でも、どうやって替えることができるんだ?
「その人から剥ぎ取った皮をかぶるらしいです……」
「未開の部族がやりそうな手だな。でもって秘術やらなんやらでそっくりに着せ替えるってことか」
「ええ、オコニドのスパイたちはそうやってこの国に難なく潜り込んだそうです」

 そうそう、ルースが最初に言ってたんだが、現時点で判明しているオコニドの尖兵は二種類。
 一つはさっきのスパイ連中と、もう一つは『人獣』という存在だそうだ。
 人獣……俺やルース、トガリはいわゆる獣人と呼ばれているのは知っての通り。
 そして今回のように、人体改造によって俺らに匹敵する力を手に入れた人間……いや、今のところは敵対するオコニドの連中といった感じだろうか。奴らは俺たちとは真逆の存在。つまりは人の姿のケモノ、人獣と呼ぶにふさわしいと、ルースが名付けたんだ。
「正直、この静かな進行を止める手立ては現時点では見つかりません……かと言ってここに居続けるのも、我々だけで打って出るのも無防かつ愚策ですし。ですから……」
 軽く深呼吸をして、ルースは続けた。
「この国を出ましょう、ラッシュさん」


 あの時言ったルースの言葉が気になって、結局俺はほとんど眠ることができなかった。
 ジャエス親方にも言われて、そしてルースにも同じことを言われて……
 正直、ここを出たくない気しかなかった。

 俺が鍛えられ育った町。親方と過ごした町。

 ここの王様とか姫とか王子とかどうであろうが俺には全く関係がなかった。昔も、そして今もだ。
 いろいろ考えているうちに、屋根から雨音が聞こえてきた。正直雨は好きじゃないが、今は別だ。このざあざあと屋根を叩く音がとっても聞いてて落ち着く。
 だけどそのうち、俺の鼻にもぽつぽつと水滴が落ちてきやがった、え、雨漏り⁉
 この前修繕したばっかなのに、もうかよ、と俺はつい一人で愚痴ってしまった。俺はまだいいけど、チビが濡れちまって風邪でも引いたらかなわねえし。
 寝ているチビを雨漏りから遠ざけながら考えていた。こいつ、そういや今まで風邪とか引いたことなかったなって。
 恐らくルースかトガリに言わせてみたら、お父さんそっくりなって答えてくるのは明らかだ。
「父さん……」か。思わずおれはふふっと鼻で笑っちまった。

 ーいいか、今日から俺のことは親方って呼べ、別におやっさんでも構わねえけどな。
 ーおっかっさん?
 ー違う! おやかただ!
 ーおやかか?
 ーだ! か! ら! 親方って言ってるだろうが!

 ふと、昔のことを思い出した。ルースやトガリジールも言わなかったな、親方って。ずっとおやっさんで通ってた。
 俺だけがずっと、親方って呼んでたんだっけか。

 そんなことを考えてるうちに、雨音がいっそう強くなってきた。こりゃやべえな、なんて思いつつ俺はチビを抱いて部屋を脱出した。
 こりゃ明日は部屋の中びしょ濡れだな、なんて。

「どどどっかでかけるのラッシュ? 外は大雨だよ?」いつもながらトガリは寝るのが遅い。しかも早起きだし。
 こいつの一族は早寝早起きだとは聞いていたけど、こいつだけは違うんだよな。いつも仕込みとかしているうちに遅く寝るのが大丈夫になってきたとは話してたけど……

 そうだった、俺は……
 眠ったままのチビをトガリに預け、俺は夜の雨の中、墓場へと走っていった。
 そう、親方が眠っている墓へ。

 俺は今、そんな気分なんだ。

 町の外れにある共同墓地、その一角に親方の眠っている場所がある。

 ひときわ目立つ大きな巨石……そこには『岩砕きのガンデ ここに眠る』と荒々しい字で彫ってある。ルースが字を教えてくれなかったら、なんて読むのか俺は未だにわからなかったろうな。
 最近は誰もここに来ていなかったのだろうか、雨に濡れた枯れ葉が地面を覆い尽くしている。

「俺、これからどうすりゃいいんだ……」墓石を前に、ふとそんな言葉が口から漏れた。
 俺が命を狙われてることもそうだが、それ以上に、この鼻の傷跡。
 加護。自分がなすべきこと。使命。こんな俺に一体なにをどうしろっていうんだ!?
 謎めいたことばっかり叩きつけられて、もう正直俺の頭じゃ何から手を付けていいのかさっぱりわからなくなってきた。

「けっ、こんなトコで弱音吐いてるとはな、豪腕のラッシュが聞いて呆れらぁ」
 聞き慣れた声に振り向くと、そこにはルースが。
「お前……」
「ラッシュさんが行くとしたら、ここくらいかな、なんて思いまして」
 そうだな、俺は酒ってものがてんでダメだから、その手の場所で愚痴ったり発散することなんてしない。行くところはここしかないんだ。

「あのときの件……ですが」ルースは腰につけていたポーチから、空の瓶を俺に見せてきた。
「僕がとっさに使った薬……この中には目潰し用の酸が入っていたんです。これが使い切ったままだったんです、つまり……」
「俺とお前がマシャンバルの連中と戦ったことは、夢じゃなかったってことか」
「ええ。そして僕は何事もなかったように生きてる……でも、いくらラッシュさんが聖母ディナレ様の加護を受けているとはいえ、これっておかしなことじゃありませんか?」
 ルース……お前、俺の鼻の傷のこと知ってたのか? そこを逆に聞いてみた。
「はい。ジャエスおやっさんにひととおり聞きました。あなたが小さい時に戦場で彼女に遭遇したって」
「でも、それがおかしなことって、一体どういうなんだ?」
「通常、加護というものは聖痕を授かった自身にのみ受け継がれる事象なんです。ラッシュさんがあのとき深手を負っていたにもかかわらず、しばらくしたら何事もなかったかのように治っていた。それはそれで加護としてはうなずけるんです。だけど自分が胸を貫かれて死んだこと……その後が全て加護としては納得行かないことばかりなんです。なぜ僕まで恩恵を受けていたのか……いや」
 ルースは大きくかぶりを振った。
「もしかしたら、ラッシュさんとは別の奇蹟の力が……そう、チビちゃんとか」
「チビが!?」
「はい、そう考えると納得がいきませんか? マシャンバルはチビちゃんを欲しているんですよ。僕はそう思うんです」

 そうか、チビを初めて見つけたとき、そして教会の前で聞いた奴らの言葉……ミツケタ。の意味。全部合点がいく。
「あの子にはきっと隠された何かがあるんです。マシャンバルが手に入れたくなるほどの大きな秘密が。わかるでしょうラッシュさん! ここに居続けること自体がもう限界なんです、それに……」
 ルースは親方の墓石に付いた枯れ葉を落としながら、俺につぶやいた。

「あなたは外に出て、世界をもっと知るべきです……それこそが聖母ディナレ様が望んでいたことかもしれません」

 ルースは親方の墓石についた枯れ葉を落としながら、俺につぶやいた。
「あなたは外にでて、世界をもっと知るべきです……それこそが聖母ディナレ様が望んでいたことかもしれません」

「それとも、ここを出るのが寂しいとか……ですか?」
 ルースのその言葉、確かに図星だ。
 いつも仕事に出るときはここを何日間も離れているのに、いざ出ようと思う旅に、未練という名の気持ちが足を引き留めちまう。
「でも、わかりますよラッシュさんのその気持ち……僕も生まれ育った家を離れようとしたときに、なかなか身体が動かなかったんです。最後の最後まで懐かしさと思い出が邪魔しちゃって」
 雨が激しさを増してきた。身体にしみ入る雨粒が痛いくらいに。
おやっさんが最後に言ってたんじゃないですか? 俺が死んで自由になったら、ここを離れて外を見てこいって。きっと今がそのときなんですよ。自分の使命を知って……いやちがう!」
 ルースは俺の肩をつかんで言ってきた、また何かを発見したみたいに、喜びを浮かべながら。
「ラッシュさんの故郷を探しましょうよ! おやっさんの日記をたどってゆけば、きっとわかるはずです!」
「俺の、故郷……?」
「そうです、それとチビちゃんの生まれたとことかも探せば、きっと旅がおもしろくなるはずですって!」
 そうだ、そういえば俺は今まで自分自身のことなんて一度も考えたことがなかった。親という存在なんて、親方だけで充分だったし。
 それに、ディナレにあったとき思わず言ってしまった言葉「かあさん」。
 俺はどこで生まれたのか、誰から生まれたのか。ああ、そうだ。
 俺には、見つけたいものがいっぱいあるってことを。
「マシャンバルのこともオコニドの件も、まだあまり考えすぎない方がいいかも知れません。私もまだここで調べたいことが山ほどありますし。まずはチビちゃんとラッシュさんの旅支度とかいろいろ……あ、もし大丈夫なら、アスティも一緒に加え……!」

「ミ、ミツケ、タ……!」

 墓石のそばから激しい雨音に混じって聞こえた声……
 まだやつらが生きてたのか!

 

6話

 親方の巨大な墓石の上から聞こえた声。
 だけどそれは、今まで聞いたことのない声質……そう、女だった。
「ミツケタ……」まるでトカゲのように、長く伸びた手足の指で、そして四つん這いで濡れた墓石から、音も立てずにゆっくりとそいつは降りてきた。

「人獣……!」ルースが腰に下げたナイフを抜きながらつぶやいた。
「ジンジュウってなんだ?」
 初めて聞く言葉。俺たちならば獣人だが、人獣ってのはいったい?
「わ、私たちが人の姿をした獣ならば奴らは逆の存在。獣の姿をした人間……すなわち人獣、ってさっき私が思いついた名前なんですけど!」
 この前戦った奴と同じく、闇夜に光る黄色い目。さらには長い毛の生えた大きくとがった耳。だけど俺たちみたいに頭の上部に生えてはおらず、耳がついてるとこは人間のそれと同じ場所だ。
 しかし、注意して耳を、感覚を張り巡らしても、この女以外に辺りに仲間の気配はない。ただ重い雨粒がばたばたと降り注ぐ音がするだけだ。
 同じく警戒するルース二それを話す。あいつも同じだと首を縦に振った。
 しかし、女の人獣は一向に襲いかかってくる素振りすら見せない。
 変だな……と俺たちが思ったときだった。
 まるで積み木が崩れるみたいに、そいつは力なく倒れ込んだ。

「見てみるか」「罠かも知れませんから気をつけて」と俺は注意して彼女へと近づいた。
 またトラバサミに挟まれたら厄介だしな。いくら加護があるとはいえそれが確実にあるとはまだ言い切れないし、あんな痛いのはマジでごめんだ。

 だが……俺が近寄っても全く反応がない。それ以上に、息がとても荒い。
 ハッハッと、まるで全速力で走った後の俺たちのようだ。
 おそるおそるおでこに手を置いてみると……すごく熱い。
「こいつ、熱がすごいぞ」抵抗しないとわかったルースも、急いで彼女を診た。
「ホントだ……これは雨に打たれて風邪を引いてるのかも知れないですね」呆気にとられた声でルースは言う。

 さてと、どうしたものか。
「つれて帰るか、どっちみちこの熱じゃ手当しねえともたないし」
「いや反対です。捕虜として私の家に持って帰って調べたいです」
「いや先に手当だろうが」
「っていうかラッシュさん、相手は病気だとはいえ敵国の兵士ですよ!? それを普通に家へ連れ帰ること自体おかしいですって」
 妙な気分がした。確かにルースの言うとおり、こいつの仲間は俺たちを殺そうとしてたのだし、調べるなり尋問なりする方が正直真っ当だとは思ったさ。
 だけど……なんだろう、このやるせない気持ちは。
 まるでチビと初めて会ったときと同じような感覚が、この人獣の女にもしてきたんだ。

「悪ィ、なんか……こいつかわいそうな気がして」
 その言葉を聞いたルースの顔、驚きにも似た……そして呆れたような。
「ラッシュさん……あなたの口からそんな言葉が出てくるだなんて」
 ふっ、とあいつの小さな鼻から、白いため息が漏れた。
「まぁ、いいでしょう……ただし動きはとれないように手足はきっちり縛っておきましょう。暴れだす可能性も十分にありますしね。あ、薬は僕が用意しますんで」
 毒薬なんて出すんじゃねえぞと、俺は冗談半分に念を押しといた。ルースだったらやりかねねえなと思って。

「ラッシュさん」女を背負い、家へと向かう足取りの中、あいつは俺に話しかけた。
「あなたって人は……ほんとわからない人ですよね」
 次第に雨粒が小さくなり、止みはじめてきた。これで晴れるかな。

「でも、そのわからなさが逆に好きなんです。私も、みんなも」

7話

 ルースに薬を作りに行かせ、俺は彼女を空いたベッドにしっかりと固定した。要は途中で正気に戻った時に暴れないようにするためだ。
 こいつを連れ帰った時、ジャエスの親方には散々叱られたが、結局の所は折れてくれて内心ホッとした。
「ンで、どうするんだコイツ。お前の嫁にでもするのか?」まだ息の荒い彼女を診ながら、親方はあきれながら言った。
「叔父さん、こいつがこの前話したマシャンバルの尖兵ですよ」
 隣にいたアスティが親方に話した。そうだ、まだこいつの容姿を知ってるのは俺以外にアスティとルースだけだしな。
「え……本当か? こんな薄汚ねえ身なりした奴がか?」
 観察してみると、以前戦った連中と比べてもかなり違うことに気付いた。
 泥だらけでボロボロのシャツに短いパンツ。そして鎧も武器も身につけてはいなかった。
 革の薄手の靴は先端が破け、そこから鋭い爪の伸びた指先がはみ出た状態。
 そう、見るからにこいつは人間ではなく、獣の姿を持ち合わせた人間だ。

「驚いたな、アス坊からオコニドの連中のことは聞いてはいたが、こいつがそうだとは……」
 親方とそんな話をしているうちに、ルースが戻ってきた。
「ラッシュさん、私にもワガママを言わせてください」
 入ってくるなりいきなりなんだと思えば、要はこういうことだった。
 彼女が回復するまで面倒はきっちり見てやる。だけど治ったらいろいろ聞きたいことがあるので、彼女を貸してもらいとのことだ。
 貸すというのもあんまりいい聞こえじゃない……が、彼女は俺たちを襲った一派でもある。そして今後のこともあるし。
 熱さましの薬草を塗った湿布を彼女のおでこに貼りながら、ルースが話した。
「彼女、ラッシュさんと同じ臭いがしませんか? ほら、全然身体洗ってなさそうな……」
 やっぱりこいつは一言多いなと思いつつ、一発殴って黙らせた。
 …………………………………………………………
 看病を続けて丸一日が過ぎた深夜だろうか、ずっと眠り続けていた彼女がようやく目覚めた。
 そして案の定、縛り付けていたベッドを壊さんばかりに激しく抵抗を始めてきた。
 猿ぐつわを噛ませているので、なにをしゃべっているのかは全然わからない状態だが。
「落ち着いてもらえるかな? 大丈夫。君を殺そうとか軍に引き渡そうとは一切考えてないから」
「言葉……分かってるんでしょうか?」アスティの問いかけに、ルースは首を左右に振った。
「それがネックなんだよね……君の言った通り、マシャンバルに改造されたことで身体能力は格段に上がったけど、それと引き換えに思考能力や本能すらも退化しちゃってるんで」

 ルースは椅子の背に身体を預け、じっと彼女を観察していた。ときおり何かノートに書いているみたいだが、俺には読めなかった。
 ひたすら暴れ続けている彼女を冷静に見続けながら。

「ラッシュさん、今回の彼女の件、不自然なことがあるのわかりますか?」
 そんな言葉がルースの口から出た。しかしあいかわらず俺にはさっぱりだ。
「じゃあヒント。今までオコニド国と戦ってきて、女性の戦士っていうのを見たことがありますか?」
 俺の頭の中に今までの戦場の情景が次々浮かび上がってくる。女性……女性……
「ねーな。戦場でやってきたオコニドの連中はみんな男ばっかり……あ!」
 そうだ、こいつ女だ!!!
「ええ、私の知る限りでは、オコニドには女性の戦士はいませんでした。無論、公式の記録にもです」
「確か、マシャンバルはオコニドの連中を次々とケモノみたいにしてるって言ってたし、つまりこいつは……!」
「そうなんですよ。彼女は一体どこの人なのか……きちんと受け答えができればいいんですが」
 
 直後、ベッドから何かバチっと切れる音が聞こえた。
「ラッシュさん、ロープが!」アスティが叫んだ。
 彼女は手首を縛り付けていたロープを渾身の力で千切っていた。そしてその手で、口の枷まで。
 俺はとっさにベッドに乗って彼女の肩を押さえつけた。これ以上暴れられるのはごめんだ。
 ひたすら暴れ続けて体力が尽きていたからか、それほど抵抗する力もなかった……が。
 突然、彼女は押さえつけていた俺の手首にがぶりと噛みついた。まだ抵抗する力がこんなにあるのか……さすがの俺も痛みでグッと声が漏れちまった。
「ラッシュさん!」ダガーを手にしたルースが駆けつけてきた。
「いい、大丈夫だ……ンなもん、トラバサミで足をはさまれたときに比べりゃ屁でもねえ」
 と、ついつい動揺しているルースに言っちまったが、かなり強い噛みつきっぷりだ。俺だったからよかったようなものの、これがルースやアスティだったら、間違いなく肉を食いちぎられていたかもしれない。
「いいぜ、それでお前の気が済むんならな……」息を荒げる彼女に俺は話しかけた。

 どのくらいの時間が経っただろうか。だんだんと彼女の力が弱まってくるのが感じられてきた。
 それと同時に、黄色く爛々と輝いていた目も、普通の人間と同じ色に戻っていた。
 まぶしさを感じて窓を見ると、朝の陽光が窓から差し込んでいる……もうそんな時間が過ぎてたのか。
「ラッシュさん、大丈夫ですか⁉」ルースとアスティの声を聞いた途端、どっと疲れが押し寄せてきた。もしかしてこいつ、俺より力が強いんじゃねえのか?
「ラッ……シュ?」
 彼女の口元がわずかに動く。そうだ、俺の名前だ。
 きょとんとした目で俺を見つめている。初めて俺の姿を見るような、不思議なまん丸い目で。
「ラッシュ……? ふしぎ。みんなと、ちがう……」
 
 こいつ、今まで獣人ってみたことなかったのかな?

 ということで、この家にまたひとり住人が増えちまった。

 一番あきれ返っていたのはジャエス親方だった。
「ほら見ろ、やっぱりバカ犬の嫁じゃねえか」と俺の気も知らずに笑い転げているし。

 あの時襲い掛かろうと噛みついた彼女は、なぜか今は俺にぴったりくっついて離れてくれない始末。
 さらには「君にいろいろと質問がしたいんだ」とルースが話しかけたはいいものの、突然腹の虫が鳴ってみんなで朝飯食うかという結論で終わっちまったし。なんかもう計画が狂いっぱなしだ。
 まあいいか、昨晩まで見せていた凶暴さはすっかり治まっているみたいだし。とりあえずここで監視してれば……なんて思っていたのもつかの間だった。
 
 この女、チビから視線を一切外さねえんだ。
 
 いつも通り眠い目をこすりながら「おはよ、おとうたん」って部屋から出てきたチビ。それを見た直後、まるで獲物を見つけたかのように、俺の隣でじっとチビを凝視したまま動かねえ。
 しかし当のチビは全然そんなモンに構わず「おとうたんのともだち?」って。もっとも俺は「ああ、そこで拾ってきた」って隠すことなく答えちまったけどな。ウソはついてない。
「なんか様子が変です、チビちゃんと距離は置いた方がいいですね」「それもそうなんだけどよ……」
 ルースはそう言うんだが、俺の右に女、左にチビがぴったりくっついたまま。まあいつものチビのポジションなんだけど、女の方がまだ危険性あるだけに、なんかもう一気に疲れが押し寄せてきた、ルースも俺も昨晩から全く寝てないし。
「ラッシュよよよかったね、かか彼女ができて」
 オマケに食堂についた途端、トガリが笑いながら言ってくるモンだから、一発殴って黙らせようか……と思ったが、今日はあいにくそれをする気も失せちまった。

「きき昨日はキノコたくさんもらったから、シチューをね、つつ作ってみたんだ。みみみんなたくさん食べてね」
 予想通り……というか、女の方はまともな食べ方ができなかった。というか以前のチビといっしょだ。スプーンも手も使わず、直接口で皿に盛られたシチューをがつがつと食っている。
 テーブルの向かいでそれを逐次メモしているルース。横目で彼女をちらちらと見ながら食べているアスティ……なんか異様な風景かもしれない。
「そういえば、彼女の名前ってなんなんでしょうかね?」
 ふいにアスティが話しかけた。そうだな。よくよく考えてみたらこいつに関することって、名前すらも分かっていない。ただのオコニド兼マシャンバルの女としか。
「っていうかチビちゃんにすら名前付いてませんしね……ガンデのおやっさんってそういうことにかけては全然でしたし」
 ルースの言うとおりだ。名前なんかなくたって結局通り名が今の名前に追いついちまった自分がここにいる。チビに関してもだ。町の人も特に本名を聞く奴なんて皆無だったし、こいつ自身が疑問持つくらいの年齢になったら、その時に決めてやるかなってくらいにしか今は思ってない。
「ティディ」突然、俺の隣で黙々と食っていた彼女が口を開いた。
「そ、それが君の名前なの?」
「あっちが、チビ。あたしは、ティディ」
 ルースの問いかけには答えず、なぜか女はチビと自分とを交互にそう呼んでいた。
 その言葉に、食堂が静まり返った。
「そっか。じゃあ君のことは、ティディって呼んでいいんだね?」
「ティディ、ラッシュ、大好き」ぐっとティディの奴が俺の腕を引き寄せてきた。なんだなんだ一体!
「やだ! おとうたんだいすき!」負けじとチビも俺の腕を引っ張ってきやがった、やめろ、こんな時に!

 そんなワケで、この瞬間からチビとティディの見えない戦争がはじまった。

 終わり

 

8話

 ティディの一件以来、誰かに見られているという感じがいっさいなくなった。
 正確に言えば、感覚とか、匂いとか。それが突如として消えちまったって言うのかな。チビを連れて公園へ遊びに行ってもなにしても、やっぱり外へでれるって言うのは気持ちいい。
 ……ただ、気持ちいいのと引き替えに俺の仕事が、ついに、全くと言っていいほどなくなってしまったのはそれはそれで痛い。
 トガリ相変わらずせっせと仕事がんばっているし、ルースは……なんかまた出て行っちまった。別の国に行ってジールと一緒に仕事してるとかなんとかって。そーいやジールぜんぜん姿見てないしな。元気かな、なんて。

 ティディに関しては結局なんにも分からずじまいだった。
 あの後ルースがさんざん質問したにも関わらず、すべて「わかんない」としか答えなかったし。それにルースもジャエス親方も口をそろえて「おまえに惚れてねえか?」って言う始末。
 確かにティディは口を開けば「ラッシュ、好き」だし。それに対抗してか知らねえが、チビもあの女に対して妙に嫉妬してるみたいだし。俺からすれば、それはそれで見てておもしろいんだけどな。

 そんなボケッとした生活が一月ほど過ぎた頃だろうか。
 町の外……要は仕切ってる門から外へと出た交易ルートの辺りで、妙な集団が夜な夜な出てくるとの噂が聞こえてきた。
 っていうとやっぱオコニドの人獣? なんて思ってたら、やっぱりそれは正解だった。
 ここから出て、馬車で一時間くらいの昼でも暗い森があるんだが、そこで人によく似た怪物みたいな奴らが、高い木の上や影からこっちをじっと見続けているそうだ。
 しかし不思議なことに手は出さない。やっぱり休戦協定が「一応」敷かれているからだろうか。まあそれだったらまだいいか。いざとなったら軍の方からまた片づけろって依頼がくるだろう。俺としてはそうしてくれた方がうれしいしな。腕がもう最近鈍っちまって。

 そんな毎日が続いてたときだった。陽もそろそろ落ち掛けた頃、重そうな金属の甲冑に身を包んだ俺くらいの若い兵が「獣人の傭兵がここにいると聞いた!」と威勢よく一人で入ってきたんだ。
 最初に出迎えたトガリを相手に「おまえがラッシュか、話がある」といきなり連れ出そうとして、俺は慌てて止めた。
 どう見たってトガリは歴戦の戦士に見えねえだろ。こいつ目が腐ってるのか、はたまた世間知らずのお坊ちゃんなのか……
 あとでジャエス親方に聞いたら「ああ、騎士団の奴だろ。腕よりカネとコネで生きてるボンボン共だ」ってさ。
 案の定、トガリに変わって俺が奴の前にでたら、一気に萎縮しやがった。
「お、おまえがラッシュか……」って驚きの目に変わってたな。
「見ねえ顔だが、初対面にいきなりおまえって言うのもずいぶん度胸ある奴だな、あァ?」と、俺はにらみを利かせて相手してやったら、さらに縮こまってこいつ。「ラ、ラッシュさん、で、間違いないですよね……」って。

 さてさて、なんでこんな偉そうな奴が俺んトコまでわざわざ来たのかというと……
「恐らく町の噂でも耳にしたと思うが、ここ最近、東の森に人ならざるものが出没している……最初は盗賊かと思って我々リオネングの軍も現地へ向かったのだが、どうやら奴らの目的は物取りではなかったのだ」
「で、奴らいったいなにしに来たわけだ?」


 ラッシュと話がしたい。と。

9話

気弱な騎士団の奴が言うには、森へ一人で来い、とのこと。ただし武器は持ってきてもいい……だとさ。普通こういうのって丸腰が基本だよな?

 まあ、そう指定しているのなら……
 ってなわけで翌日、俺は指定された森へ一人で赴いた。愛用の大斧もばっちり磨き込んでな。

 馬車からおりると、辺りはもうすっかり日が暮れていた。それと同じくして、例の人獣の気配が、周りから痛いくらいに伝わってくる。
 こりゃあ相当の人数が潜んでいるな……この前みたいに罠にかからないようにしなきゃなと重い、すねから足首ににかけて鉄板を巻き付けておいた。若干歩くと重いが、前みたいな奇跡だかなんだかがまた起きるとは限らないし。そういや、お前らしからぬ用心深さだなとジャエス親方は言ってたっけ……

「よお、久しぶりだなラッシュ!」ゲイルの声だ。首謀者はだいたい分かってた。こいつしかいないだろうなって。
 森の奥からのしのしと歩いてくる巨体。しかしこの前以上に人間っぽさが進行している。
 たてがみの量は相変わらずだが、肩口や太もも、臑に生えている毛以外はほとんど存在しない。もはや遠目から見ると人間そのものだ。
 そしてアスティのボウガンに貫かれた目……が、あった!
「驚いたか? 確かにあのとき左目は潰れちまったがな、ラザラス大司教様の懸命な治療でこの通りさ!」左目の周りに切られたような傷は残ってはいるが、普通に目は存在していた。
 なんかすごいな、としか形容できなかった。マシャンバルとはそれほどまでに医療が進んでいるのか……と。
「言われたとおり一人で来たぞ、なんなんだ用件ってえのは」俺はゲイルの言葉に答えず、にらみを返しつつ応えた。
「ああ、そう急ぐなって。用件は一つだけさ」
 ゲイルの周りの闇がざわついた。

「姫様を返してもらいたい。それだけだ」

 ……ひめさま? っていったい誰のことだ。

 

10話

「……お、お前、マジで言ってること分からねえのか?」
 訳が分からず答えた俺に、ゲイルは呆れかえっている。
「姫様、女性だよ。えー……っと。お前ンとこにこの前迷い込んでこなかったか?」
 言われてもう一度考える……あ!!!
「ティディのことか!?」そうか、もう女性って言われりゃあいつしかいない。
「お前ンとこじゃそう呼ばれてるのか。まあいい。彼女は我々の国にとって重要な存在なのだ。マシャンバル……いや、オコニドの存続に関わるくらいのな」
 マシャンバルじゃなくオコニド? オコニドはもう存在しないんじゃなかったか。
「あいつ、オコニドの姫さんだったのか」
「そんなことはお前にとってどうでもいいことさ。とにかく、姫様を返してもらえたら、我々ここにいる兵どもはすぐにここから立ち去る。ウソは言わんさ」
「で、返さなかったら、どうするワケだ?」
「お前の生まれ故郷が瞬時に焼け野原になる……簡単だろ?」
 なるほど、こりゃ確かにヤバい交換条件だ。
「姫様をかくまったところでお前にはなんのメリットもないだろ? オコニドとマシャンバルだけの問題だからな。頭の回転の鈍いお前にも分かるだろ?」
 いちいち言うことが気に障るな。この前殴ったことまだ根に持っていやがるのか。
 でも、いいのかあの女。ティディのこと。
 あいつ、俺のことを「大好き」って言ってたじゃねえか。それだけの理由。それだけなのに、なんだかいま考え直すと、あいつの存在がちょっぴりいとおしく感じてくる。

 出会ってまだ全然だってのに。

「ああ、それとな、これだけじゃちょっとお礼が足りないだろうと思ってな、交換条件としてもう一ついいものを用意してるんだ」
 なんなんだ、もう一つのってのは。俺はゲイルに聞いた。
 奴は薄ら笑いを浮かべて俺に近づいてきた。まさか俺とここで……?
 と思ったのだが、ゲイルは腰の剣に全く手をおかないまま、俺の目の前まできた。

「お前が敬愛してやまない、ガンデ親方のことだよ」
 その言葉に、一瞬胸がドキッとする。何でいきなり親方のことを!?

「……誰に殺されたかってことを、お前に教えてやろうと思ってな」

 目の前が、真っ白になった。

11話

 結果、それ以外のことはなにもおこらず……だ。
 だけど俺の頭の中は、もう親方のことだけで一杯だった。

「親方が……!? 老衰って聞いたぞ俺は!」当然のことながら俺はゲイルに食ってかかった。
 だけど当の本人は至って涼しい顔で「やっぱり。そうだろうと思ったさ。この件に関してはほとんどの連中が知らないことだしな。まあ俺もつい最近知ったことなんでね」
「……ウソじゃないんだろうな、もしそれが違ってたなら……」
「ああ、絶対にウソは言わん。姫様を素直に渡してくれたら、親方殺しの真犯人を教えてやるとも」

 親方が、何者かに殺された……
 恨みを買うような人柄だったのだろうか? しかしかつて傭兵をやってたのだから、不特定多数の連中から命を狙われるようなことがあったって当然といえるだろう。
 そうだ、去り際にゲイルはこんなことも言ってたっけ。
「じゃあ大サービスでヒントだけ教えてやる、もっともこれを言ったところで絶対分かりやしないけどな」
 と、もったいぶった前置きを残しつつ、あいつは一言だけ付け加えた。
「……身近にいるやつだ」と。
 身近!? そう言われたってトガリくらいしかいない。それにあいつは恩を仇で返す性格じゃなし。
 ルースか? それともジール? いや、あの二人も……しかし見えないように毒物で殺すのだったらやっぱりルース……なのか? いやそんなこと信じたくもない。
 あとは身近とは言われても、ほとんど接点のない傭兵ギルドつながりの仲間……か。俺とは友人でもなんでもない連中だ。そいつらなのか?

 そんなことをいろいろ考えているうちに、いつもの町の灯りが見えてきた。
「よおお疲れ、で、どうだったんだ?」珍しく門の前でジャエス親方が一人、出迎えてくれていた。
「あの女……あいつはオコニドの姫さんらしい。それをこっちに返してくれとだけ言われました」
 ジャエス親方はふん、と前おいて一言「いいんじゃねえのか、お前に懐いてるとはいえ、所詮よその国の迷子だしな、渡しちまえ」別にオコニドの姫と言うことに関してはどうでもいいみたいだ。
「それと……なんですが、あ、いや」親方の死因の件、言おうとして俺は慌てて止めた。
 もしや、ジャエス親方が殺しに? と言う重いが頭をよぎったからだ。
 俺はそのときほぼ面識なかったとはいえ、二人は兄弟分だ。
 遺産やらなにやらでそのとき仲違いして、こっそり……っていうことだってあり得る。
 でも……それだって俺は信じたくない。

 弱腰の騎士さんにはお昼にでも報告すりゃいいかなと思い、俺は家のドアを開けた。
「ラッシュおかえりー!」ジャンプして俺にいきなり抱きついてきた存在、ティディだった。
「ティディたち、親方がラッシュのためにトガリとチビとでご飯作ってたの!」
「おおおかえりラッシュ。ティディがご飯教えろって聞かなくてさ……」
 トガリのいる厨房をのぞくと、すさまじい量の小麦粉が散乱していた。
 そこには、真っ白になったチビの姿も。
「おとうたん、けーき作った!」ちがう、よく見たらチビの身体はクリームまみれだった。
「ご飯じゃなくてケーキ? いったい何なんだ?」
「ごはんね、ケーキなの、おっきいクリームの!」
 チビとティディが交互に俺に言ってくるもんだから、意味がさっぱり分からねえ。
「ま、まあ、ラッシュにはピンとこないかもしれない……かな?」
 ああ、全然さっぱり分からねえ。誰かの記念日か……?

 なんて思ってると、ティディが食堂の奥で何かに火をつけはじめていた。
 俺の元に駆けつけたチビを抱き上げると、あいつ、耳元でこっそりささやいたんだ。
「おとうたんのばーすでーだよ」って。

 ええええええええええ!?
 もちろん驚いたさ。俺に誕生日なんてあったっけ……?
「ああ、俺がアス坊のやつと書斎で兄ィの日記調べてたらな、あったんだよ! おめえが初めてここに来た日がな」
 ジャエス親方は手にしていたぼろぼろの手帳を俺に見せてきた。
「じゃ……ねえか。正式に言うと、兄ィがおめえと初めて出会った日が、今日なんだ。ってなわけで……」

「ラッシュ、誕生日おめでとう!!!」

 慌てて2階からおりてきた寝ぼけまなこのアスティ含む5人が、俺に言葉を投げかけてくれた。誕生日おめでとう……って。
「え、あ、えっと、あの、その……」
 そしてティディも俺の胸に飛び込んできた。チビと二人、やっぱり重い。

 ……ごめん、やっぱり無理だ、俺。
 ティディを返すことなんて、できやしねえよ。

12話

 手足を縛られた男の首元には、小さな湾曲した刃のナイフが突きつけられていた。
 時おりピタピタと男の頬を叩き、それはまるで鎌首をもたげた蛇、そのもの。

「……もう君の正体はとっくにばれているんだよ。マシャンバルの『五人目の皮』さん」
 ナイフの刃と同じくらいに白い毛並みの小さな身体が、暗闇から姿を現した。
「わ、わしがマシャンバルのスパイだというのか⁉ だ、断じて違う、いいからこの縄を解かんか!」
 小太りの初老の男……袖や裾には金の刺繍が施され、一見して彼が高貴な人間であることをうかがわせた。
「わかるんだよね。汗一つかかないその肌に、時おり妙な動きをする目……中に人、いるんでしょ?」
 その言葉に男は黙った。
「半年前に隣国へ使いに出たまま突然の失踪劇。もうそこで君……いや、アダガ宰相は殺されていたんだ。ただ、皮だけ残してね。ふふ、これでも結構調べるのに苦労したんだよ?」
 そう言って、白い毛の獣人=ルースは、おもむろに男の首元をスッと掻き切った。
 ……が、その傷口から本来出るはずの血は一滴も流れてこない。
「あれ? おっかしいなあ~? 本当なら血がドバっと出るはずなのに。どういうことなのかな?」
「くっくっく……ここまでして、ただで済むと思うなよ……白い死神」男の口元が不気味にゆがむ。
「貴様の言う通り、この城には私を含め5人の仲間がいる。だがそれら全て見つけ出せるとでも思ったのか!」
「ああ、それに関してはもう終わってるから。あんたが最後よ」
 男が監禁されている部屋の隅から、もう一人、女性の声が静かに響いた。
「な……。もう一人いたのか⁉」
「あのさ、僕が単独でこんなことすると思っていたのかい? それこそ思い上がっている証拠さ。オコニドの悪い癖」
「じ、じゃあ残りの仲間も……!」
「もうとっくに冷たくなってるさ、まあこんなこと城のほかの人に知られたりしたら、僕もジールもこの国にはいられなくなっちゃうけどね」そう言うと、ルースは寂しく笑った。
「ここまできて君も命を奪われたくないでしょ? だからこそ教えてもらいたいんだ。外にいる君の仲間たちの目的を」
「ゲイルのこと……だな。奴らは姫様の奪還を命ぜられている」
「姫様?」
「ああ、我がマシャンバルの神王、ディ=ディズウ様の一人娘、ティディ様をな」
 ルースの頭の中に、あの時出会った人獣の少女の姿がよぎった。
「あの人獣の女性が、もしや……マシャンバルのお姫様⁉」
 男は無言でうなづいた。

 命が惜しかったのかどうかは分からない、もしくは死を覚悟したのかもしれない。男はティディの言葉をきっかけに、まるで小鳥がさえずるかのように話しまくった。

 マシャンバルの民は国外へ一切出ることをしない。
 未だにオコニドはマシャンバルの人たちの顔を見たことがない、しかし唯一例外として、姫であるティディに謁見を許されている。
 彼女の姿と同じになることがマシャンバルの民になれる条件の一つ。あといくつかあるが答えられない。
 しかし、ティディの姿もマシャンバル人の真の姿ではないらしい。噂によると、獣よりさらに人ならざる者……だとか。

 そして……
「ラザラス大司教様は、ティディ様の血こそが秘薬だとおっしゃられていた……ゆえに、彼女がいないと我々オコニドもマシャンバルの民へとなれぬのだ。彼女の血、それがイニシエーションに必要なのだ」
「イニシエーション?」ルースの疑問に男は即座に答えた。
「マシャンバルの民へとなること、それがイニシエーションだ。ラザラス大司教様の作りし秘薬を摂取することをそう呼んでいる」
「ラザラス大司教……君はそいつとは会ったことはあるの?」ルースの眉間にしわが寄る。
「いや、マシャンバルの民同様見たことはない。だがあのお方も我々同様、元はこのリオネングから来たとかおっしゃっていたことがある」
 やっぱりそうか、とルースは小さく漏らした。
「なんだ、お前もマシャンバルに行きたいのか? この縄を解いてくれたら連れて行ってやるぞ、さあ……」
 男のその言葉の直後、手首を縛っていた縄が音もなく切って落とされた。
「え、縄、これ、違……⁉ あ、ああああああああっ‼‼‼」落ちたのは縄だけではなかった。
 男の手首とともに、大量の血が噴水のように光さす部屋に飛び散った。
「な、なんでだ……おま……」
「言っただろ、僕は死神だって」ナイフを持つ右手が、男の首を深くえぐった。
 しかしそこから流れたものは真っ赤な血ではなく、どろりとした黒い泥のような液体。
「イ、いいの、カ、オマエ……外にイる仲間をすベテ敵二回すコとになルのダ……ぞ」男の息が止まった。

「ああ、とっても不安さ……だけど僕らにはね……」黒い血だまりの中、ルースは立ち上がった。
「ディナレ様の加護を受けた友がいる。だから絶対に負けることはないさ」

13話

 大人数での来客のときにしか使わない巨大なテーブルを持ち出してきて(持ってきたのは俺だが)、その中心にドン! とでっかいケーキが置かれた。
「まま待っててね、いいいいまロウソク刺すから」
 つーか俺はもう待ちきれなくて腹減りまくりなんだけどな。マジでかぶりつきたい気分なんだが、周りの連中がそうはさせてくれない。
 ティディもチビもニコニコしながら俺の方をじっと見つめている。まあそれは分かるんだが、この二人、いつの間に仲良くなったんだか。
 そんなこと考えているうちにトガリの細い爪で一本、二本と色とりどりのロウソクが刺されていった。

 その数25本大丈夫、それは数えられる。年齢の数だけロウソクって刺されるんだっけか。それにしても俺ってそんな年齢だったんだな。
「意外と若ぇなオマエ」ジャエス親方が感心しながら言った。いや俺も知らなかったんだ、自分の年って。
「アスティがしらべてくれたの、ラッシュにじゅうご歳!」
 ティディがとなりではしゃぎながら開設してくれた。なんでも親方の日記から推測すると、俺は大体こんな年齢なんだそうだ。
「僕も最初驚いちゃいました、30歳くらいはゆうに行ってるのかな、なんて」そう話すアスティも、ケガもすっかり癒えたみたいだ。
「おとうたん、ふーってけして」今度はチビが俺にせかしかけてくる。
「ラララッシュがいないときにね、みみみみんなでこっそり作ってお祝いしようってけけ計画してたんだ。おおおめでとうラッシュ」

「「「お誕生日おめでとう」」」その言葉に合わせて、みんなが一斉に言ってきた。なんなんだ……この心の奥のむず痒い気持ちは。
 とりあえず言いたいのをぐっとこらえて、俺はふーっと一気にロウソクの灯を消した。
 トガリがケーキを取り分け、みんなの皿に盛る。いつも通り俺のは山のように大きい。

 実を言うと俺は極端に甘いものがちょっと苦手なんだが、やっぱり空腹も相まってか、このクリームのこってりした甘さがすごく身体に染み入る。要はうめえってことだ。
「本当ならこういうのって誕生日の夜にお祝いするんですけどね、なんか知らないけど朝になっちゃって……」アスティが照れ臭そうに言う。
 よく見るとこいつ、以前会った時より髪を伸ばしたりして、かなりイメージが変わっていた。それに革鎧も当たり前だが着ていないし、ゆったりした上衣の……なんていうか、ゆるすぎて形容しづらい格好だ。
「あ、分かりますか。もう軍にはいられませんしね。叔父さんにも言われたんです、周りにばれないようにイメチェンしろって。僕もこういう服の方が好きですし……なんというか、画家とか彫刻家っぽくて」
 芸術家がどういう服をいつも着ているかは知らねえけど、割とルーズな格好も似あってるぜと答えてはおいた。案の定真っ赤になって照れてたし。

 そんなことで大量のケーキをがっつり食っていると、突然ティディが俺の鼻の頭をぺろんと舐めてきた。
「ラッシュ、クリームだらけ。ふふっ」
 予期しなかったティディの行動に、俺の胸がいきなりバクバク高鳴った。
 以前ジールに俺の涙を舐められたときあったけど。あれとそっくりな胸の高鳴り……爆発する寸前にも似たアレだ。

「ラッシュ、顔硬いよ。もっとニーっとして」ティディは俺の両頬をつまんで、横にびろーんと伸ばし始めた。
「にゃにやっへるんだおまへ……」
 不思議だ。いきなりこんなことされたら、いつもの俺なら相手を叩き落とすくらいなのに。今は、いやこいつも、チビにもそんな感情は起きてこない。
「おとうたんびろーんしてる!」つられてチビも俺の顔を引っ張り始めて、周りも大爆笑。

 ああ、そうだ。こんなこと今までなかったよな……
 チビが来て、アスティとジャエス親方が来て、そしてティディが来て。みんなでこうやって笑って騒げる。
 昔だったら全然考えつかなかったことだ、これ。
「しかしこうやってみると、まるで家族だなあオイ」ビールをなみなみ注がれたジョッキ片手に、ジャエス親方も満足げだ。

「でよ、バカ犬。ちょっと考えたんだが……さっき言ったことは撤回だ。俺に考えがある」
 ビールを一気に飲み干した親方は、酒臭い息をまき散らしながら立ち上がった。どうした? なんなんだ一体?

「お前、彼女と結婚しろ」

 俺の心臓が止まった。

14話

「お前、彼女と結婚しろ」

 俺の心臓が止まった。
 いや、ほかの連中もその言葉で凍り付いたように固まっちまっていた。

 結婚……ってなんなんだよ。

つられたようにアスティも「いいんじゃないですか、それ」って言いだす始末。
 トガリは……うん、固まってる。
「まあな、結婚って言ってもあくまで偽装だ。お前もオコニドのバカ連中に一泡吹かせてえだろ? そういうこった。ガハハハ!」
 ジャエスの親方は酔った勢いでこれを言ってるのか何なのかよくわからない。俺にもサッパリだし。
 要は、ゲイルたちの目の前で俺とティディが結婚宣言をして、結果彼女をこっちのモンにすりゃいいってことなのかな……

 物はためしにティディに聞いてみた、結婚ってどうよ? と。
「わからないけどおもしろそう!」だってよオイ。
 いやいやそうじゃない、まだ親方以外のみんなに話してねえから、ついでに一切合切を俺は説明した。
 ティディはマシャンバルのお姫様だから即刻引き渡せ、さもないとここを襲撃するぞってことを。
 迷ってるさ、俺も。ここまで彼女に好かれちまったら、もうどうしようもない。クソ生意気で好戦的なオコニドにも尻尾を振りたくない。やれるんだったらここで俺一人で一戦交えてもいい。
 トガリも答えに戸惑っていた。そうだよな、こいつ戦いはからっきしダメだし。かといってここを出てまたどこか自慢の料理の腕を振るえる場所を探すにも酷だし。

 誕生日の席が、一気に静まり返っちまった。
………………………………………………………………………………………………………
「ジャエス親方、もう一つ話が……」
 片付けが終わり、俺は酔いから覚めたジャエス親方に例のことを話す決心をした。
 
……俺の親方の、本当の死について。それを元仲間のゲイルに言われたことを。
 
 誰にもそのことを聞かれぬよう、俺は裏庭の練習用の広場で親方と二人っきりで話した。
「ゲイルって野郎はそんなことを言ってたのか……驚いたな」
 正直、自分の心の中で押しとどめることは無理だった。誰かに言っておかないと、って。
 ならば、一番親交が深かったジャエス親方にだけは……

「俺も普通に兄ィの死因は老いちまっただけだとばかり思ってた……誰かに毒を盛られただとかそんな兆候も話も聞いてねえしな。だが、リオネングを裏切ったクソ野郎の話なんてのも聞く気は毛頭ないだろ? 俺は俺でこのことをきっちり調べてやる、ひょっとしたら気を惹かせるためのウソかもしれんしな」
 そういってジャエス親方は俺の背中をバン! と叩いてきた。安心しろっていういつもの親方の癖だ。

「それと、もう一つお願いが……」
 恥ずかしい話だが、俺は今までリオネングの城へ一度も足を向けたことがなかった。
 そう、あの生意気な騎士の奴にこのことを話さなきゃならねえんだ……が。こういうかしこまった場所はやっぱり心細い。
「おめえ、意外と小心者なんだな」

15話

 ということで、ジャエス親方と一緒に俺はリオネング城へ向かうことにした。
 分かるだろ? 俺がこういうかしこまった場所が大嫌いなことが?

 石造りの長い廊下を歩きながら、俺はジャエス親方の言ってたことを思い出していた。
「悪ぃがここから先は俺は無理だ、お前ひとりで行ってくれ」って。
 どうやら昔、ウチの親方と二人がまだリオネングの正規兵だった頃、中で大ゲンカやらかして追放処分になったらしい。
 若いころから好き勝手やってたとは聞いていたが、軍をクビになるくらいって……残念ながらジャエス親方はそのことに関しては教えてはくれなかったが、一言だけ「堅苦しいトコは大嫌いだったんだ」だと。
 わかる、リオネングの城の門からここに至るまでの間、衛兵に変な目で見られるわ、見たことない動きにくい服を着た連中にジロジロ見られてきたわで、傭兵として戦地に行くとき感じた……あのイヤな雰囲気がここにも感じられたんだ。
「リオネングは獣人には寛容とは前々から言われてはいるが、俺にはそうは感じねえ。だからこそお前はその強さで見返してやれ!」
 ウチの親方はことあるごとに俺にそう話していたっけな。
「お前たち獣人も俺たち人間も、仲良く暮らしていける世の中こそ理想ってもんよ」
 残念ながらこのリオネング城にいる連中はそうでもないらしい。以前殴り飛ばしてやった奴らどもと同じ目つきしてやがる。
「遅かったな、とにかく入れ」先日話しに来た態度のクソでかい騎士が、奥の大きなドアの前で待っていた。
 大きな部屋へと入ると、やっぱり動きづらそうな金属の鎧をまとった連中が一気にざわめいた。ざっと十数人はいるだろうか。
 それに俺を歓迎する目つきでもなかった。そう、見下している目だ。
「傭兵のラッシュとか言ったな、貴様の活躍はかねがね噂に聞いているよ」
 部屋の奥に腰かけている白髪交じりの初老の男……こいつだけ鎧は着ておらず、赤と黒に塗り分けられた国旗のような服を着ている。そして左目には黒い眼帯。確かにここにいる誰よりも地位は高そうだ。

 そいつはまた、トゲのある物言いで俺に低い声で話しかけてきた。
「私はリオネングの騎士団長である。名前はドールだ。貴様は森にいるマシャンバルの兵どもと接触したそうだな……まずは我々に詳しく話を聞かせてもらおうか」
 
 ってなわけで、俺はゲイルと話したこと、ティディのことに関してのすべてを話した……だが、ウチの親方の死因に関すること、それに結婚のことについては言わないでおいた。こいつらには関係のないことだしな。
「なるほど、貴様のところにマシャンバルの女が迷い込んだというわけか。しかもよりによって獣人である貴様に惚れ込んでいるとはな」
 ドールがプッと吹きだすと、つられるように周りの騎士の連中も笑い出した。そんなにおかしいことか?
 なにかここにいる連中は俺らと感性とか性格とか正反対なようだ。やることなすこといちいち癪に障る。
 ああ、なんか薄々分かってきたぜ、親方がここの連中を嫌いなわけが。
「我々が言いたいことは分かるな? すぐにそのマシャンバルの女をここに連れてくるんだ」
 唐突にドールがいった言葉に、俺はつい、えっと声を上げてしまった。
「獣人という種族は無知で愚鈍とは聞いていたが、君はまだちょっとは賢明なようで安心したよ。亡命してきたマシャンバルの女をすぐさま殺さずに『飼いならして』しまったとはね」
 飼いならす……? 一体どういうことだ。
「それももうここまでだ。彼女は我々リオネングで預かろう。奴らとの交渉での重要な人質……いや、切り札になるからな」
「おい、それってつまり……」そうだ、俺がティディをずっとかくまっても、結局同じ成り行きになるとは予想してはいた。
 ゲイルたちと一戦交えることに。
 だが、ティディはこれから一体どうされちまうんだ⁉ 俺はドールに尋ねた。
「貴様がそれを知ったところでどうにもなるまい。まあでもこれだけは言っておく。マシャンバルの人間とやらを知るうえで彼女は貴重な……」
 怒りでドールに詰め寄ろうとした瞬間、俺の首元に槍の切っ先が突きつけられた。
「それ以上近寄るんじゃない! 薄汚い獣人が!」
 そうだ、こいつらはティディを調べ上げるつもりだ。無抵抗な彼女を。
「ああ、森に潜んでいる連中なら心配には及ばんさ、我々リオネングの騎士団にかかればゴミクズ同然、獣人の手を借りることもない。無論この街に指一本触れさせはしないさ」
「俺もお前が言いたいことは分かる、マシャンバルの奴らは目障りだしな。だがあいつは……ティディは……その」

 緊張でカラカラになった喉から、俺は声を振り絞って放った。
「俺に……惚れちまってるんだ」

 

16話

 周りの連中がどっと笑った。大方予想はしていたけどな。
「はっはっは、笑わすな貴様は! 敵国の姫に惚れてしまったとはな、これは傑作だ!」

 だんだんと怒りが抑えられなくなってきた。
 気恥ずかしさを通り越して、こいつら全員今すぐ殴り殺した方がどんなにスッキリするだろうって。
「しかしな、そうなってくると獣人、貴様も逆賊となるのだぞ」ドールは腰に下げていた剣を抜き、俺の鼻先に突き付けてきた。
「俺を……どうする気だ?」
「どうもしないさ、捕らえて一生牢獄へぶち込んでおくまでだ。無論貴様の仲間もな」ドールがニヤリと笑みを浮かべた。気持ち悪い顔しやがる。
「なあ……オコニドと違って、リオネングは俺たち獣人に寛容じゃなかったのかよ」そうだ、さっきっから城内で俺は散々変な目で見られてきた。そしてここでも。元はと言えば俺たちのご先祖が発端とはいえ、この国はここまで俺らを差別する国だったのか⁉
 
 もう、俺らには居場所なんてなかったのか……

 だけど、せめて一発だけ、こいつを殴り飛ばして、そして俺の生きざまなりなんなりと終わりにさせたい。
 このクソ野郎の下卑た笑いだけは、気に食わねえ!
 
 俺は拳を思いきり握りしめ、ドールの顔面に溜まりにたまった怒りを叩きつけた。
 ……のだが。
 
 手ごたえが変だった。普通人間を殴り飛ばした時は、顔面の骨の硬さが拳にガン! と伝わってくるのに、こいつは全然違っていたんだ。
 例えるならば、毛布を丸めた固まりのような……それが皮膚をまとっているかのような、鈍くて柔らかな衝撃。
 無論、ドールの野郎は思いっきり吹っ飛ばされたさ。周りにいた騎士の連中も、あわてて団長を介抱しにいった。
 残った数人は剣と槍を手に、俺を取り囲んだ。
「貴様……ドール団長をこんな目に遭わせて! 即刻処刑してやる!」
 ああ、分かってるさ。結婚だとか加護だとか難しい話はもうおしまいだ。
 っていうか……俺、誕生日に処刑されるんだな……

「……おい」その時だった。ドールがよろよろと立ち上がったのは。
「だ、団長、その首は……⁉」俺の隣にいた男が目をまん丸くして驚いていた。ドールの姿を見て。
 奴の首は、殴られた方向へあり得ない角度に曲がっていた。
 そうだ。完全に直角に曲がっている。普通だったら首の骨は折れてる、もうとっくに死んでるぞ!
「お、これは失敬」と言ってドールは首を元の角度へとボキボキと音を立てつつ戻した。やっぱりあり得ねえ。
 だけどまだおかしい、左目につけていた眼帯。それが首を戻した時に落ちて……
 そこから、赤く光る眼がのぞいていた。
「だ、団長じゃないのです……か?」
 周りで介抱していた奴らも、ドールの異様な姿を目の当たりにして、恐れおののいていた。
 俺に向けられていた剣も、いつしかドールに向けられていた。
「ん? ああ、私はリオネング騎士団長のドールである、ぞ? お前たち、なにを、怖がっている、のだ?」
 話す言葉もだんだんおかしくなっている。
 見渡すと周りのそれは、もはや団長を見る目ではなく、恐れの目へと変わっていた。

 その時だった。

「やれやれ……全員始末したと思ってたのに、まさか六人目がいたとはね」ふと、俺の後ろのドアから聞きなれた声がした。
「「デュノ様!」」しかしその声に驚いたのは俺だけじゃなかった。騎士団全員だ。
 おまけにルースじゃない、誰だデュノって?

 

17話

「やれやれ……全員始末したと思ってたのに、まさか六人目がいたとはね」ふと、俺の後ろのドアから聞きなれた声がした。
「「デュノ様!」」しかしその声に驚いたのは俺だけじゃなかった。騎士団全員だ。
 おまけにルースじゃない、誰だデュノって?
 でも振り向いて見てみると、やっぱりルースだ。いつもの真っ白の毛の小さなルース。

「あのさあ……お前たち、何回言ったら分かるんだ? デュノという呼び方はやめろって。あれほど言ってるのに」
 っていうかお前ルースだろ? って俺が言いかけたときだった。
 ドールの手足が異様な方向へバキバキと音を立て、そしてみるみるうちに倍の長さに伸びていった。
 もはやそれはさっきまでの初老の人間の姿じゃない、例えるならば、悪夢の中で現れてくるような物の怪の姿だった。

「そうか……それがお前たちの真の姿なんだね」

 何倍もの大きさに伸び上がった姿を見上げて、ルースは鼻で軽くため息をついた。

 団長の変わり果てた姿に、残された騎士の連中どもは慌てふためいていた。
 うーん、もうちょっと騎士団ってかっこいい連中かと思っていたんだが、こうやってみると、ただのガキの集団にしか見えない。

 その団長はというと、以前霧の中で見たひょろ長い枯れ木にそっくりなまでに姿を変えていた。
 明け方の濃い霧の中、周りの連中が、化け物がこっちにきたぞって叫んで、近づいてみたらこいつだったっていうお笑いなことがあって。その枯れ木がそのまま巨大化した感じに見えた。
 
 そして、かつて団長だった存在は、俺よりもさらに身体が伸びて、もうこの大部屋の高い天井にまで届いている。
 もう人間だった頃の姿かたちは完全に失われていた。
 
 あきらめず接触を試みる若い騎士に対して、鞭のような手を振り回し、べしべしと壁に叩きつけてゆく。立派な鎧なんてこの怪物には関係ない。壁に叩きつけられた連中はぐしゃりと嫌な音を立てて、そのまま壁の染みになっていった。

 一方の俺はというと……武器も持っていないし、それに第一いままで戦ったこともない敵だ、分も悪いし、ちょっと様子を見てみたい気持ちもあった。
 だが、厭味ったらしい連中だったとはいえ、こいつらが次々と化け物に殺されてゆくのをただ見ているわけにもいかない。

「お前……ルースだよな?」デュノと呼ばれたあいつにとりあえず問いかけた。一応ルースだとはいえ。
「ええ、正真正銘のルースですよ、ワケは後で」ルースは腰のガラス瓶を何本か取り出し、なにやら調合を始めていた。
 右手に持っている瓶の中身が、液体を入れるたび緑や赤にいろいろと変ってゆく。見ていてちょっと楽しかった。
 まずは部屋の外へと抜けだし、ルースは俺に説明を始めた。
「いいですかラッシュさん、あれはドール騎士団長なんかじゃありません、彼はとうの昔にマシャンバルのスパイに殺されていました」
 そうは言われてもなあ、俺の方は正直奴なんてぶっ殺してもいい存在だと思っていた。正直あの騎士団長とやらは性格が悪すぎる。要はマシャンバルが殺すか俺が殴り殺すかの道しかなかったわけだ。
「そのスパイが、騎士団長の皮をかぶってずっと彼になりすましていたのです……僕とジールは、このリオネング城に潜伏した連中を探し続けてきました。決定的な証拠をつかむまで」手にした瓶を軽く揺らすと、中の薬らしき液体はだんだんとドス黒い色へと変化し始めてきた。
「で、そのうち、大臣に化けた奴をとらえて尋問したところ、この城には同じように死体の皮をかぶったマシャンバルのスパイが合計5人潜んでいることを聞き出すことができました」
「で、そいつらはどうしたんだ?」
「それ以上口を割らないし、このまま生かしとくのも面倒なんですぐ殺しましたよ」あっさりと言い放つ。なるほど死神らしいわ。
「でも、そいつを含めて5人ではなかったんです……結局のところトータルで6人。その最後の一人がドール騎士団長だったんです」
「どうやって分かったんだ? 見た目じゃ判断しきれないだろ」ドアの向こうでは、相変わらず若い騎士団員鎧の金属音と、声にならない悲鳴が聞こえている。そろそろ俺らも行かなきゃマズそうな気が……!

「できた! 強酸!」ルースの掲げたガラス瓶の中は、無色透明の液体で満たされてはいた……が、口から立ち上る謎の白い煙、それにツンと酸っぱい匂いが俺の鼻を直撃、思わずゲホゲホとむせ返った。
「えっと……ですね。非常に言いにくいかもしれませんが、あいつら、時間が経つと独特の死臭にも似た嫌な臭いがしてくるんです。それを大量の香水でごまかしたりとかして、違和感が増してくるんですよ。それと妙にぎこちない動きとか、首の動きと合わない視線とかもありますが、でもやっぱり一番の決め手は臭いですね、鼻の鈍いラッシュさんには無理かもしれませんが」

 うん、やっぱりルースだこいつ。めっちゃ早口で、オマケに一言多いところなんて誰がどう見ても俺たちの仲間のルースだ。
 こいつの首もあり得ない方向へ殴って変えたい気持ちをぐっと抑え、俺はルースの説明を聞いた。
「私がいま作った薬。これを刃に塗って、とにかく一撃でいいからあいつに傷を負わせてください」
 
 その言葉が天に届いたかどうかは知らないが、団員が一人ドアから飛び出てきた。
 そうだ、こいつこの前俺のところに来て威張っていた男だ。
「な、なんなんだよあいつ……斬りつけても全然ひるまないし、仲間はみんな殺されちまったし……」
「ちょうどいいや、お前のその剣よこせ」「え?」
 俺は奴の握りしめていた剣を強引に奪い取り、ルースに渡した。
 その刃の部分に、ゆっくり、少しづつ薬を垂らしてゆく……
「ああああっ! 我が家の家宝の剣になんてことをするんだぁぁぁぁあっ!」この前威張り腐っていた時とはえらい違いだ、なんだこのうろたえっぷりは。
「強酸ですから、この剣も長くはもちません。さあラッシュさん急いで!」

 刃の部分をよく見てみると、緩やかに錆びた色へと変化してくるのが分かる。なるほど、それだけ強いってことか。
「僕の! ぼくの大事な剣がぁぁぁあああああ!!」
 最近愛用の斧しか使っていなかったから、正直剣なんて使うの久しぶりだった。けど今はそんなこと言ってはいられねえ。
 今一度大部屋へと、俺はドアを蹴破って突入した。

 ……たった数分の間に、部屋はまるで大規模な戦いがあったかのような状態にまでなっていた。
 血と死体で壁まで塗り尽くされ、その奥には、かつてドールだった怪物が、鞭のような腕をひゅんひゅんと唸らせ、こちらをじっと見つめていた。
「よおおおおお、薄汚い獣人君、ようおおおおおやく戻ってきてくれたか。まああああち詫びていたよおおおお」

 気味悪く反響する奴の声、もうさっきまでの人間の皮をかぶっていた頃の声ではない。
 血だまりと化したベタつく床を一歩一歩踏みしめ、俺は奴へと近づいて行った。
「それで、どおおおおかな? さっきの提案、受け入れてくれえええええる、かな?」
「ああ、ティディのことか?」こいつまだ覚えていやがったのか。
「そうさ。私は、私は、私はね。素直に姫君を渡してくれればもう何も言う気はなかったのおおおおおさ」
 だんだんと奴の話す言葉から、理性そのものが失われてゆくのが感じられてきた。もう何を話しても無駄だろうな。
 だから、一撃で決める!
 錆色に染まってきた剣をぐっと握りしめ、俺は奴の懐へ一気に走って詰めた。
「どうううううする気だね。薄汚い獣人の分際でえええええええ⁉」
 振り下ろされた奴の腕が俺の頬や肩口をかすめ切ってゆく、だが俺の毛はちょっと硬いんだ、だから痛くもなんともねえ。
「うおおおおおおおおっ!!!」俺はそのまま奴の胴体だった場所へと、錆びつく剣を根元まで突き刺した。

 やっぱりさっき殴った時と変わらねえ。ぶよぶよとした脂の固まりに手を突っ込んだかのような、鈍い触感が手に伝わった。
 ……ああいやだ。人間をぶった切った時よりもずっと気持ち悪い感覚。

 直後、ジュワアアアアアと泡立つ音が、化け物の身体から聞こえてきた。
 剣を突き刺したところから、だんだんと奴の身体が溶けてきたからだ。

「なあ、なあラッシュ。なああ、姫君をかえしてててくれなああああいか? 悪いようにはしなああああ……」
 きつい臭いのするこげ茶色の泡に包まれながら、化け物は足元からゆっくりと崩れだしていった。
「……ああ、悪ぃ、お前にさっき言うのすっかり忘れてたわ」
「なに? 何? 早く! はやくううううううう……!」
「俺はな、あいつと、ティディと……」
「がぼがぼがぼげぼげぼがぼおおおおおおおおおおおおお……」泡立つ沼のような床に、奴の溶けた身体が沈んでいった。

「結婚、するんだ……」
「げぼごおおおおおおお……」
 そして、茶色く臭う水たまりだけが残された。

 

18話

 化け物の始末を終え、俺はこの血と酸の臭いが充満した部屋から出ようとした時だった。
「ぼくの剣をかえせええええええ! あれは我が家に代々伝わる伝説の……!」
 そっか、そういやルースの作った酸でこいつの剣も朽ちちゃったんだっけか。しかしドールを前に逃げだしたり、俺に泣きながら逆切れしてくるしで結構うざいな。
「あーうるさい」この前散々威張り散らしていた割には、武器取り上げると結構ヘタレなんだな……なんて思い、心を込めて顔面にパンチを決めてやった。

「リオネングの騎士団は前々からこういうお坊ちゃまばかりで腐敗しきってましたからね……壊滅したのは気の毒ですが、いい気味です」と、毒交じりの言葉をルースが投げかけた。
「でも、ラッシュさん、結婚って……?」
 そうそう、こいつにはまだ話してなかったんだっけか。
 とりあえずドールの一件であわただしくなった城から出なきゃな、と思った矢先、通路の先から見慣れた姿が。
「ラッシュ……よかった!」突然ぎゅっと抱きしめてくる、でもティディじゃない、ジールだ。
ジールと私とで、この場内に潜伏していたマシャンバルの兵をずっと調べてたんですよ」
 なるほどな、最近姿を見なかったのはそういう意味があったのか。
「そうそうジール、ラッシュさん結婚するらしいですよ」
「え……」ジールの言葉が止まった。

 呆然とするジールを連れ、俺たちは人気のない裏庭へと向かった。
 城の庭とはいっても全然手入れすらされていない。雑草は伸び放題だし蔦は壁を覆っているしで、意外と城主っていうのもズボラなんだなって感じすらした。
 それはそうとして、まずは結婚の話だ。とはいえ……
「ラッシュさん、結婚って一体どういうことだか知ってます?」
「いや、知らね」
 その言葉に二人は頭を抱えていた。とりあえず誰かと一緒になって生活とかを共にすること……くらいしか俺は知らかなったし。
「えっと、ですね、愛する男と女が……いや、別に最近は同性を容認している国もあるとは聞いてますが、基本は男女が一緒になって、生活したり子供産んだりして子孫を反映していくのです」
 悪い、途中から全く言ってることが分からねえ。
「う、うん……まあしょうがないかな。ラッシュってこういうことには全く無縁の生き方してたからね、正直に言えば純真なのかも」
 まさしくジールの言う通りだった。親方と寝食を共にする以外は、外の生活になんて全く興味がなかったし。
「結婚するからには盛大にお祝いしてあげないとね。で、だれと結婚するの?」
「ああ……実はマシャンバルから逃げ出してきたお姫様なんだ」
「え……」またジールの時間が止まった。

 ジャエス親方と合流して、どうにか家に帰ってきた俺たちを待っていたのは、また彼女の抱きしめ攻撃だった。
「ラッシュ、おかえりー!」チビも負けじと俺の足元にしがみついてくる。いやもう正直暑っ苦しい。
「奥さんに子供……か。ラッシュほんと大モテだね」と、ジールは呆れ気味に俺に言った。
「バカなこと言ってンじゃねえよ、こいつぁあくまで偽装ってやつだ。もうここまで来ちまったら城の連中の助けなんて呼べねえしな。俺らだけでなんとかするっきゃねえ」
 確かにジャエス親方の言うとおりだ。騎士団がああなっちまった以上もはや頼れるものなんて存在しない。ここにいる俺たちだけでマシャンバルの連中を食い止めるか……もしくは全部片づけちまうか、だ。

 ジールもルースも戦力にはなるが、一度に大多数を相手にするのは分が悪すぎる。
 となると俺一人……いや、アスティとティディの協力も必要か。
 どっちにしたって、渡り合えるのは俺だけ……か。

「いいか、いま俺らはマシャンバルの大事な人質を握っている……これは分かるな? だとしたら余計渡すわけにもいかねえ。それにこっちにはラッシュがいる。これを機に連中を痛めつけてやれば、俺らだけでもあの大国に揺さぶりをかけられるはずだ。違うか?」
「うーん……正直、私はごめんだね。いくらラッシュが強いとはいえ、私たちだけでオコニドとマシャンバルに渡り合えるかって言われると……おやっさんの言葉には賛同しかねるわ」
 ジールは難色を示していた。ゲイル率いる人獣の軍隊がどれほどの数だかと言うのも俺たちは把握していないし。なおかつ俺一人の力に頼りっきりだしな。
「僕がもう一度城に行って、このこと話してきましょうか……」親方の隣で話を聞いていたアスティが提案してきたが……うーん、あいつはこの前殺されかけたからな、死人がひょっこり帰ってきて大丈夫なのだろうか、そっちの方が心配だ。

「……私がもう一度城に戻って、なんとか話を通してきますか」
 後ろで黙々とケーキの残りを平らげていたルースが、クリームまみれの口で話しかけてきた。
「ただ、自分も秘密裏にマシャンバルのスパイを片付けていたので、これがもしバレていたら……ここへはもう戻ってこれないかも知れません」
 指についたクリームをぺろっと舐めて、ルースは続けた。
「……ここの国に見切りをつけて出ようと思っていたので」
「それ、つまりラザラスってやつと関係あるの?」ジールの言葉に、ルースの尻尾がぴくっと反応した。
「そ、それは……」
「どうせだからここで全部話してよルース。あなたとマシャンバル、なにか関係があるんじゃないかなと薄々感じていたわけ。それにことあるごとにラザラスって名前に変な反応してたし」
「……ど、どこで聞いたんですか、それ」
「どこって、タージアからよ。それ以外どこにあるっていうの」
 なにやら変な雰囲気になってきた。しかもラザラスとかタージアとか誰なんだ一体それ。
「ルース、お前なんか隠してるのか?」俺からも問いただしてみた。よくわからんけど一応。
「あ、いや、ラッシュさんには関係のないことで、これは、その」
「いんや、関係なくっても関係ある!」立ち上がったジールは、ルースのクリームまみれの両頬をぎゅっとつねった。
「い、えひゃい! ジールひゃん! ちょっと!」
 
 そしてそのまま、ルースの小さな口元に、自分の唇を重ねた。

「んンんんんん……ッ!!!」
 突然の光景に、俺もアスティも、そして親方もぐっと息を飲んだ。
「昔言ったでしょ、隠しきれない隠し事なら、隠さず仲間にきちんと話せって」
ジール……」
「あんたは違うと思ってるかもしれないけど、ラッシュもあたしも、ルースのことを仲間……いや、家族と一緒だって思ってるよ」
 
 ジールは自分の口の周りについたクリームを、舌なめずりでぺろりと舐めとった。
「さあ、話してルース。そしてすっきりしちゃおうよ」
「は……い」

 長く深い深呼吸を一つ、ルースは俺たちの前に立ち、話し始めた。

「私は……ずっと自分なりにマシャンバルを調べ続けてきました。皆さんには知られずひっそりと。そして……一人であの国へ行こうと計画していたんです。ある男を殺すために」
「ある男? 誰だそりゃ?」親方の問いかけには答えず、ルースはまた続けた。
「そいつはマシャンバルで王の側近をしているとの情報をつかみました。しかもこの人獣化計画、いや、ひいてはあの国の大規模な侵略計画の筆頭だと知って……急がなければ、と。そして……」

 俺の腕をつかむティディの手が、かすかに震えていた。

「僕一人でマシャンバルへ行って、刺し違えてでもそいつを殺そうと思っていました。いや、私の生涯……そいつを、ラザラスを殺すためだけに費やしていたのかもしれないから」
「ラザラス……あの人、怖い」
 ティディが怯えた声で俺に言った。なんなんだラザラスって。それほどまでにヤバい敵なのか?

「ラザラス=ブルシャ=デュノ。それが奴の本名です」

 

19話

 デュノ……そういやさっき、騎士団の連中はルースのことをデュノって言ってたっけか、ってことはつまり……⁉

「奴は私の弟であり、そして……」ルースはこぶしを握り締め、小さく言葉を漏らした。

「私の母を殺した男です」

 ルースは俺たちの前で全てを話した。
 黒い毛の家系に生まれた自分が、望まざる子だったこと。
 幽閉させられて育った子供時代。そこから毒と薬の全てを学んで、リオネング城で暗殺を生業として地位を得たこと……
 まあ、それを話せばめちゃくちゃ長くなるんで、とりあえずはそこまでにしておく。いつかまた話す機会もあるかも知れないしな。

 そんな中、俺はジャエス親方に一人呼ばれたんだ。明日の作戦のことについて。
 親方は銀貨を数枚俺に渡して「これでティディと二人分のいい服買ってこい」って。
 俺も一応、ウチの親方の遺産的な物は結構持ってはいるんだが、こういうお金のことでは素直に従っておくのが懸命と判断はした。信用云々じゃなく、俺とトガリの持っている宝石は二人だけの秘密にしたいんで。

 ってなことで、俺は久しぶりにあの仕立屋へと足を運んだ。ティディとチビを連れて。
 しかし……ここ最近店に全然行かなかったからかも知れねえが、例の店、すごく大きくなっていたんだ。看板も色使いが派手になって人目を惹く作りになっていたし、結構儲かっているのかな、なんて思い、俺は店へと入った。

「いらっしゃ……って、お久しぶりです!」
 うん、店主は全然変わらない姿だった。しかも俺のことを覚えていてくれてたし。なんかちょっと嬉しかった。
 だけど……女の方が見当たらないんだよな。どうしたんだか。
「あなたのおかげです。あのときくれた大金を元手にいろいろいい生地が買えたもので、いまでは服の予約もひっきりなしですし、このとおり店も改築して倍の大きさになりました」
 そうか、それはよかったじゃねえか。確かに広くなった店の奥のテーブルでは、別の従業員が紙とペンで服の絵を描いてたりとか、別の場所では商談っぽいこともしてるし。
 ええ、従業員を何人か雇うこともできましたって、店主はすごく喜んでた。
「ところで、奥さんだっけ……どこ行ったんだ?」と俺は逆に聞いてみた。どこを見ても彼女いないしな。
 ちょっと不安にも思ったりしたが、奥から彼女がゆっくり姿を現したとき、俺は内心ホッとした……んだが、なんか様子が変なんだ。

 お腹がすげえ膨らんでいることに。

「赤ちゃん! 赤ちゃんだ!」後ろに隠れていたティディが、突如大はしゃぎで彼女の前へと駆け寄っていった。
「そ、そうなんです、はい……来月くらいには、生まれる予定で」
 彼女は気恥ずかしそうに「これも生活に余裕が出てきたおかげです」だって言ってくれた。

「ラッシュしらないの? おなか大きくなると赤ちゃん生まれるんだよ」
 すまん、そっちの話はいまいち分からねえんだ。
 ティディを引き戻そうとすると、おなかの大きな彼女が「もしかして、お子さんがもう一人……?」と、そばにいたチビと交互に見ながら俺に言ってきた。
「子供じゃない、明日そいつと結婚するんだ」って説明してやったら、突然夫婦とも目をまん丸くして驚いた。おめでとうございます! って。
「……って、明日ですか!?」
「そうなんだ、だからここで急いで服を作れねえかなって」
「え……」

 二人の動きが止まった。

 たとき、とっても怖かったけど、でもすごく優しかった。だから好きになった。ティディね。ラッシュとなら結婚してもいいって、ね」
 ティディは突然、俺の身体をぎゅっと抱きしめてきた。
 上半身裸だから、熱いくらいに体温が伝わってくる。
 俺の鼻に覆いかぶさってきた髪の毛からは、朝露に濡れた木々の匂いがしてきた……

「そんなに俺と一緒になりてえのか?」俺は改めてティディに問いただした。
 結婚という意味はしらねえけど、こいつが俺と一緒になりたい気持ち、今は痛いほど伝わってくる。
「うん……」彼女も俺を、痛いくらいぐっと抱きしめてきた。

「あの、そろそろ……」いきなり聞こえた店主の一声に、俺たちはハッと我に返った。
 やべえ、服が作れなくなっちまう!

 そんなこんなで、俺とティディ、そしてチビの正装を仕立て上げてくれたのは、陽もとっぷりと暮れたころだった。


 すっかり暗くなった道を、俺はティディとチビを背負って歩いた。
 ティディはともかく、チビはすっかり疲れちまったようだ。俺につかまりながらすうすうと寝息をたてている。
「ラッシュ、明日が楽しみだね」大急ぎで作ってもらった服を手に、ティディは終始ご機嫌だ。
 俺の方は……というと、不安しかない。
 街にともるたくさんの明かりを目に、ここは一体どうなっちまうんだろう……と。
 明日になったら戦場と化しているかも知れない。そうだ、ルース次第だ。もしあいつが城の兵を連れてきてくれなければ……いや、最初っから頼りにしちゃいけねえな。俺一人ででも、どうにかしなきゃ。
 どうせゲイルの奴は激怒して、俺と刃を交えるのだし。
 あとは森に潜んでいた人獣の連中がどれほどいるかだ。

「ラッシュ、楽しくないの?」
「おまえは怖くねえのか?」ティディの言葉に、俺はつい苛立ちで返してしまった。
 きょとんとした目で、ティディは俺の顔をじっと見つめていた。
「ラッシュがいるから、ぜんぜん怖くない」いたずらっぽい笑顔で俺にほほえむ彼女。
 口元をよく見ると、俺たちみたいな鋭い牙も生えていた。
「みんな強いもん、トガリは分からないけど、ジールもルースもアスティもラッシュの友達だもん、友達強いから怖くない。それに……」
 ティディはぴょんと小さく飛び上がり、俺の首にぶら下がった。
「あたしも、ラッシュを守ってあげるから」
 そう言って、ティディは俺の鼻の頭に軽くキスをした。
 でも……不思議だ。
 以前ジールにキスされたときは、心臓が爆発するくらい高鳴ったのに、ティディの時はそれが全く起きてこない。静かなままだ。
 なんなんだろう。この穏やかな気持ちは。
 彼女のことを全然、好きとも何とも思ってなかったのに、なぜか心が落ち着くんだ。
 これが結婚という気分なのかな……なんてよく分からない思いを抱きながら。俺たちは家へと向かった。

 

その覚悟の代償

20話

 いつもと変わらない朝が来た。しかもここ最近ほとんどお目にかからないほどの快晴ときやがった。

 そしていつも通り早起きのトガリやアスティに「おはよう」と言葉をまじわせながら、またいつも通り俺専用の皿に大量に盛られたパンとキノコのシチューの豪華な朝食にありつく。

 となりではチビが俺の真似をしながら、同様にパンを口いっぱいに頬張っている。
 そう、いつもと変わらない。いつもと。
 
 だけど唯一違ってたのは、そう……
 ジャエス親方がジールと一緒に、ちょっと遅れて朝メシの席に着いた時だった。
「もうすぐだよ、ラッシュ」朝からだというのにリンゴ酒片手に、ジールが俺に言った。クスリと微笑みながら。

 一瞬の沈黙ののち、沸き上がる声。
 ティディが白いふうわりとしたドレスに身を包み、食堂に降りてきたから。
「ドレスって着させるの結構骨が折れるのよ」メシも食わず、ひたすらにジールは酒を飲みながら俺に説教をしていた。
 つーかこいつ、昨夜からずっと飲み続けてるんじゃ⁉
「ラッシュ、どう?」花飾りのついた白銀の髪が、きらりと朝の陽の光に反射する。
「よせよせ、こいつは美的感覚ゼロなんだからよ」親方の言葉に周りがどっと沸いた。
 一方の俺はと言うと……なぜか言葉が出なかったんだ。いや、どう形容すればいいんだろう。
 とにかく、ジャエス親方の言う通り俺はこういうモノの褒め方っていうのは全く分からない。
 とりあえず「きれいじゃねえの?」とは言っておいたけど。ティディもそれ聞いて喜んでるみたいだし。
「一応下にはいつもの服着せてあるから安心して、彼女も戦う状況になるだろうし……ね」
 そうだ、ジールの言う通り、今日はゲイルと一戦交える覚悟の朝なんだ。
 街の人間はだれも知らない、そう、いつもと変わらぬ日を送っている。
 ヘタしたらここが戦場と化すかもしれない。そして俺らもどうしたらいいのかわからない。
「あとはルースの奴が上手くいってくれれば……だな」ルースは一人、リオネング城に赴いて事の次第を話しているに違いない。
 唯一自由に城に出入りできるあいつにすべてを託すほかない。戦場じゃ一騎当千の働きをしているとはいえ、俺らは所詮雇われの獣人に過ぎないからだ。軍人でも何でもない、しかも獣人と言うだけで城からも、そして軍からも嫌われているし。
 あ、いや、ルースは特例だったな。でもあいつは家柄からして違うし。
「で、俺はアレ着てけばいいのか?」食堂の広間の奥のハンガーにかけてある、ひときわ大きな……あれ、スーツって いうんだったっけか。
 黒でまとめられた、すっげえ肩が凝りそうなスマートな服。しかしこれも仕立て屋の夫婦が食事も惜しんで作った渾身の作なんだ。
 親方いわく、まずはお前がこれを着て奴らを驚かせろと言う。
 ジールはアスティと一緒に、森に隠れて待っている。ヤバければ相手は倒したってかまわない。どうせ卑怯極まりない思考しかできない連中だし。
 そして、親方はトガリとチビを比較的安全な場所へ……とりあえずここの地下室かな。
 応援が来なければ、あとはひたすら俺が頑張るしかない。やるしかないんだ。
「つーかジール、お前そんな飲んで大丈夫なのか?」俺は正面の席でひたすら酒を飲んでいるジールに尋ねた。
「あン、ラッシュは知らないと思うけど、リンゴ酒ってお酒の内に入らないんだよ」
 マジかよ。つーかもう息が結構酒臭いんだが。

21話

 馬車その他はジャエス親方が事前に用意してくれている、あとは……いや、もうこれ以上心配したって仕方がないか。
 もしかしたら、もうここへは帰ってこれないかもしれないのだから。
「そうそう、これはルースからの贈り物だとよ」と、親方はアスティと俺に小さなザックを手渡した。
 中には液体の入ったフラスコがいくつか、それに無数の小瓶。
「なんなんだこれ?」「混合液を使った爆薬ですね、これ」アスティが間髪入れずに答える。
 同封してあったメモには、色の違うフラスコの液体を混ぜて、すぐさま投げつけてください。と書いてあった。
 小瓶には、この前城内で騎士団長の怪物を倒したのと同じ強酸が入っているとのこと。でもつけた武器をダメにするくらい強力なので、あらかじめ拾った武器で使ってくれと。
 こんな物騒なもの使わないで穏便に終わってくれたら一番いいんですけどね……」メモを読みながら、アスティが愚痴った。
 俺も黙ってうなづくことしかできなかった……が、この争いの種を生んだ当の本人であるティディはと言うと……
 トガリと二人で、シチューおいしいね、服きれいだねと褒めあってた。なんだそりゃ。

 ってなワケで仕度を始めるべく、俺も例のスーツとやらを着てみた。
 ……うん。これで斧振るったら絶対袖が破ける。ぴっちぴちだこりゃ。

「ほんっっと似合わねえなおめえは」ジャエス親方がパイプ片手に笑いながら俺に言った。
「ですね、なんか全然結婚するって感じにも見えないですし」アスティもか、あとでおぼえてろ。

「おとうたん……」チビが泣き出しそうな顔で俺の姿をじっと見ていた。
「大丈夫だ、ちゃんとまた帰ってくるから」
「おとう……」ほら泣くんじゃねえよと、ギリギリで堪えさせる。今までのチビなら、ここで泣き叫んでいたのかもしれないが……こいつも結構強くなったのかもな。

 さて、と。
 外へとドアを開けると、乾いた風がさあっと中へ吹き込んできた。
 いつも仕事で戦場へ繰り出されるのとはわけが違う、今日は特別な日だ。
「……ラッシュ」俺の後ろで、ジャエス親方が呼び掛けた。
 そういや、俺のこと名前で呼ぶなんて初めてじゃないか?

「おめえは絶対死なねえと思うが……でも死ぬんじゃねえぞ」
 そんな矛盾した言葉が、俺の胸にズンと刺さった。
 あらかじめジャエス親方が用意しておいた馬車に揺られてほどなくすると、あの場所……目的地の森が目に入ってきた。
 相変わらず鬱蒼とした、昼でも薄暗い場所だ。ツー過去の前の襲撃のときと言い、オコニドの人獣連中はこういう場所が好きなのかな?

「よお! 待ってたぞラッシュ!」人獣たちを束ねるリーダー格のゲイルが、俺たちを出迎えていた。
「やだ、あいつ嫌い」ゲイルの姿を見て、相変わらずティディは不機嫌だった。
「大丈夫だ、事前に話した通り、な」そうだ、もう俺たちは帰れないところまで来ちまっている。ティディを引き渡す気なんて毛頭ない。あるのは……

 奴らに一泡吹かせてやるという意志と力だけだ。

 まず最初に俺が馬車から出た。
「約束通り来たぞ、姫様も連れてきた」そんな俺の姿を見てゲイルは目を丸くしていた。
 やっぱりな、いつもの革鎧と服じゃなく、タキシード……とかいう名前のすごくぴったりした服を着てきたんだし。そりゃこんな場所柄違和感ありまくりだろう。
「お、おめえ、なに場違いな服着てるんだ……?」
「ああ……っと、理由は後で話す」と言って俺は馬車の中の彼女を呼んだ。
 ふわふわと、すぐさま白いドレス姿のティディが下りてきた。
「な……?」ゲイルは呆気にとられていた。俺の格好と彼女の格好。これを見れば一目瞭然だろう。
「ということだゲイル。俺と……ティディは結婚することにした!」
 その言葉にティディは勢いよく俺に抱き着いてきた。「そう、ラッシュと結婚する!」って。
 案の定、ゲイルは固まっていた。頭の中で処理しきれないといった具合だろうか、いや俺もそうだ。まだ結婚っていうモノ自体が何なのかわかっちゃいねえし。
「あたしね、ラッシュと結婚するの! ゲイルとじゃないよ! ラッシュだよ! ラッシュだーいすき!」
 目の前で呆然としているゲイルに追い打ちをかけるように、ティディは俺に肩車したり、ジャンプしてよじ登ったり……と、まるで元気なチビみたいだ。
「ひ、姫……さま?」半開き状態だったゲイルの口がようやっと動いた。
「姫様……あなたはマシャンバルの神王、ディ=ディズウ様の愛娘なのですよ⁉ それがこんな薄汚い野郎となぜ! あなたは言ったではありませんか! このわたくしめと結婚をッ! 誓ったッ! ではありませんか!」
「うん、やめた。ゲイル大嫌い。ラッシュだいすき」きょとんとした目でティディは言い放った。
「ぬ……グアアアアアアアアアアアアッ!!!」元婚約者はその言葉に激高した。理由はよくわからないが俺もどっちかっていうとゲイルは嫌いな方だ。特に獣人である誇りと、その姿を捨てたところとか。
「姫様! 私と結婚してマシャンバルを……そしてオコニドをより強固な国にしていこうという神王様のお言葉を! もうすでに忘れてしまったのではあるまいな!」
 いや、だからそういうのはもういいから。と言おうとした俺の言葉を跳ねのけ、ゲイルは顔を真っ赤にしながらも続けた。
「このむさ苦しい男にどんな魅力があるのかは存じませぬが……その身に余る行為、もはや断じて許されるものではありませんぞ!」
 わなわなと震える手で、ゲイルは背負っていた大剣を引き抜いた。
 その直後、森の木々がざわざわと揺れざわめく。
「気が変わらぬ以上、もはやこうするしかありませぬな……」大剣の切っ先を俺とティディに突き付ける。そうだ、やっぱり最後はこれしかないんだ。
「この森にはオコニドの人獣兵、おおよそ数百名が待機しております……私の声一つで姫様、そしてラッシュめの首を奪うことは造作もありませぬ。それでもよろしいか姫様! そのお心に変わりはございませぬか⁉」
「うん、ラッシュと結婚を誓いまーす!」このような状況においても、ティディは自分のペースを崩すことはなかった。
 この肝っ玉の太さと空気を読まない力。こいつ、ある意味最強の傭兵になれるかもしれないな……

22話

 そしてゲイルは苦笑いを浮かべながら、大きくうなづいた。
「ならば……覚悟ォ!!!」ゲイルが大剣を大きく振りかぶった瞬間、奴の後方で大きな爆発音が轟いた。
 しかも一つじゃない、二度三度と、至る場所で。
 めりめりと大木が落ち崩れ、恐らく人獣であろう金切り声にも似た悲鳴が森の中に響き渡った。
「な……⁉」ゲイルが構えを解いた瞬間を狙い、俺は奴の身体を思いきり蹴り飛ばした。
 吹っ飛ばされた中、俺とティディは急いで馬車へと戻る。こんなかたっ苦しい服着ていられっかとびりびり破き脱ぎ捨てながら……あとで仕立て屋の店主にきちんと謝っとかなきゃな。
 俺は馬車の中で武器と革鎧を装備しながら、同じく服を脱いでいるティディに言った。
「いいんだよな、あれで……」
 薄暗闇の中、彼女は寂しげな顔で俺に微笑みを向けた。
「うん、いいの。もうどこででもラッシュと一緒」
 そういってティディは俺の鼻……でなく、その下の、口にぎゅっと唇を押し付けた。
「ん……」

 俺の周りの喧騒の音が消えた。
 静かな、だけど森の木々のざわめきだけが心地よく聞こえる……
「ラッシュは、大事な人だから。これから、ずっと」
 ティディは馬車に積んであった何本かのダガーを鷲掴みにし、外へと舞い降りた。
 そして俺も、彼女の生暖かく柔らかな唇の感触を忘れられないまま、愛用の大斧を片手に外へと躍り出た。

 ああ、もう引き返せない。

 馬のケツを叩いて逃し、俺はすぐさまティディの後を追った。
 おっと、もちろんルースのこさえてくれた薬も持っていかなきゃな。

 そうしている間にも、人獣は俺のところへ奇声を発しながら襲いかかってきた。
 群がってくる何匹もの人じゃない物体を、おれは斧で横薙ぎにまとめてぶった斬る。
 そうだ……この前戦ったときのより、こいつらさらに人に見えなくなってきているんだ。
 変な言い方かもしれねえが、異形……といった感じだろうか。
 肌は灰や青緑に、さらには苔の生えたような濃い緑とまちまちだし、手足は前以上に細く長くなっている
 マジで、こいつら人間だったのか……って疑問すら湧いてくる。

 それに加え、もうこいつらは鎧も服も身にまとっちゃいねえ、せいぜい腰にボロ布を巻き付けて隠しているくらいだ。だが俺にはそんなの関係ない、襲いかかってくる奴らは誰だってブッ殺すだけだ。

 俺は先に行ったティディを探しながら、波のように襲いかかってくる化物をことごとく斬っていった。だんだんと、俺の中で居眠りこいていた戦いの血が目覚めてくる……
 そんな中、俺の近くでも大きな爆発が、それと共に化物の手足らしきものが雨のように降り注いできた。
「ラッシュさん!」アスティだ、手にはボウガンを握りしめている。となるとこの爆発もあいつが……?
 ターゲットを切りかえアスティに襲いかかってくる化物を、俺は一息で切り伏せた。
「悪ィ……今はお前の面倒まで見きれねえ。別のところ行ってくんねえか?」
 そう、正直な俺の意見だ。そしてこいつを信じているからこそ言える言葉だ。
 普通ならこんな事言わねえ、今まで仲間なんて居ない戦場でただ黙々と戦っていたから。
 だけど今は違う、アスティにせよジールにしろ、そしてティディにしろ……今は大事な俺の戦友だ。誰一人として死なせたくねえんだ。
 その言葉の意図をわかってくれたのか、アスティは黙って俺の後ろへと走り去っていった。
 さすが俺のファン一号を自称するだけはある。イイやつだ。

 もう何人切り捨てたのかわからねえ。だが、まだ息は一つも上がっていない。
 化物どもの血と脂でドロドロになった斧をブン! と一振りすると、コイツはまたもとの白い輝きを取り戻してくれた。
 そうだな……この斧って一体どうやって作ったのか、例の親父にも会わないとな。
 なんて思ったら、こんな状況なのにもかかわらず、ついプッと吹きそうになっちまった。
「……なに笑ってんだ俺」意識を切りかえ、俺は森の奥へと走っていった。
 だが、この前のときみたいにトラバサミで足を持ってかれちまったら危険だ……ちょっとは用心をな。

「あの姫様、なかなかやるね」
 突然俺の後ろで女の声が、慌てて振り向くとそこには……ジールだ。
 こいつ、いつの間に俺の背後に来てた!?
「へっへー、驚いた?」
「……バカ、心臓止まったぞ」
「何秒くらい?」
「知るか」
 なんて冗談を交じわせながら、俺とジールは合間合間に敵を斬っていった。
 彼女の手には、細く長い刀身の剣が握られている。そういやこいつとこうやって戦うのも初めてか?
「面白え剣だな、ジールのか?」
「ううん、ジャエスおやっさんからもらった」なるほどそうか。親方も粋なことしてくれるんだな

 ジールはそんな中、顔をくいっととある大木の上に向けた。
 視線を追うと、そこには小さな影が飛びながら木々を渡っている。まるで足元なんか気にしてないみたいに。
「あそこにいるの姫様だよ、ああやって木の上で潜んでいる連中を先にやっつけていてくれてるの」
「あいつ……が?」目を凝らすと、同じく木の上にいた化物オコニド兵の首を、音もなく切り落としては消えていった。
 慌てて足元を見ると、樹の下には連中の首のない身体がいたるところに落ちていた。
「上から誰も襲ってこないのはあの子のおかげ。ああ見えても自分の役割をきっちりと把握してるんだよ。かわいいよね」
 ジールの説明に、俺はついつい感心。「はあ~」と変な声を出してしまった。
 そう考えてみると、森の中だっていうのに立体的に敵が襲ってこなかったな、と。そう、化物はみんな俺の方に走って向かってくるだけだった。
 どうもティディの姿を見てないなと思ったら、あいつずっと木の上に居たのか……

 なんて時だった。ジールは俺の首の後ろに手を回し、ぐっ……と、唇を重ね合わせてきた。
 鼻から感じられるちょっぴりの酒臭い吐息……
「あたしからもプレゼント。結婚おめでとう、ラッシュ」そういってジールは、また音もなく森の奥へと走り去っていった。

「まったく……今日は何人からキスされるんだか」木々に覆い尽くされた空を見上げ、俺はため息混じりに一言呟いた。

23話

 ーお前、俺よりモテモテなんじゃねえのか?

 突然、俺の耳元に懐かしい声が聞こえた。
「え……親方!?」周りを見渡すが誰もいない。足元に転がっている死体だけだ。
 そうだ、あれは絶対親方の声だった。それもジャエス親方じゃなく……俺の大好きなガンデ親方の!

「ありがとよ、親方……」ぐっとこみ上げてくるものをこらえ、俺はまた森の奥へと足を進めた。


 ラッシュの住む宿屋内で、一人の男が鼻歌交じりで鎧を身につけていた。
「ふん……だいぶ腹が出ちまったな、ここ十年くらい全然こんなの着てなかったしな」
「ああああの、ぼぼぼく手伝いましょうか?」
 一人いそいそと食材やら金庫などを地下室に運んでいるトガリが、心配そうに声をかけた。
「ああいや、これくらい大丈夫だ、お前はお前の仕事をしてりゃいい」
 そう話しながら太鼓腹の男=ジャエスは、エールのなみなみ注がれたジョッキ片手に、またサイズの合わなくなった鎧に悪戦苦闘をしていた。
「思い出すな……ありゃあ30年位前だったか、ガンデの兄貴と二人でボレスカの砦を襲撃しに行った時のことだったな……」

 ラッシュやティディが去った今、この家に残されているのはトガリとジャエスしかいない。
 さらにはルースが王に陳情すべく城に出向いている以上、ここを守るのはジャエス一人しかいないのだ。
「あん時は兄貴と二人で最前線に取り残されちまって、結局朝が来るまで数百人近く……って、チビのやつはどうした?」
 誰に語るわけでもない武勇伝に聞き飽きていたトガリは、申し訳なさそうにジャエスに話した。
「ししし仕立て屋のご夫婦にああ預けたんだ、ラララッシュがちょっと仕事で出張に出るからお願いしますって」
 街の者はだれ一人今日のことを知らない。ラッシュたちがオコニドの人獣と死闘を繰り広げていることを。
 仕度を終え、ジャエスは壁に立てかけられている鉾槍を手にした。自身の上背よりはるかに長い得物だ。
「何年ぶりだ……こいつをまた手にするとはな」
「おお親方さんがずっと使ってたの? それ」
「ああ、でもって兄貴はこれまたでっかい戦槌を振り回してな、二人で鍛冶屋コンビとか言われてたっけな」
 ガハハと大きな笑い声を轟かせ、ジャエスは愛用のパイプに火を点けた。

「おい、トガリ
「は、はい?」
「あとで地下の武器庫行って、お前が使えそうなモン探してこい」
「え……っ」
 トガリはその言葉に息を飲んだ。
「いや、あくまで最悪の場合だ。当たり前かもしれねえが、俺一人じゃどうにもいかんことだけは承知しておけ」
 手足に冷たい汗のような感覚が走っていく。いつかは通らなければならない道だということは承知していた。だがそれが今だということに、トガリは動揺を隠せず、ただうなづくほかなかった。
「分かってるさ、アラハスの連中はこういうことに不向きだってことはな……だが今のうちに覚えておけ。周りに頼れるもんがいなくなった時……」
 ジャエスはトガリの小さな肩にポンと手を置いた。
 煙草臭く、歴戦の傷跡がたくさん刻み込まれた、丸太のような腕で。
「自分を守るものは、自分だけしかいないってことをな」

24話

話は少し前にさかのぼる。

「久しぶりだね、君と二人でここに来るのって」
ふわりとした金色の髪の毛が、木漏れ日を受けて輝く。
「……ええ」
ルースが日ごろ研究を兼ねて行き来していた城の裏庭で、かぶっていたフードを取った青年が、ルースにやさしく語りかけた。
しかし、ルースはその言葉に目を合わせようともせず、かすかに身体を震わせていた。
「あれからもう、何年くらい経つのかな……ルース」
「……じ、十年はとうに行ってるはずです」
「そうか、僕が王の座についてから、そんなに、か」
「クルー王子……いや、エイセル王、折り入ってお願いが……」
震えながら話すルースの白い肩に、青年ーエイセル王ーの手がそっと触れた。
まるでそれを恐れているかのように、ルースの身体がびくっと震えた。
「分かってるさルース、君は僕と話したいとき、決まって僕をここに呼んだしね」
ルースは黙ってこくりとうなづいた。
「私のかけがえのない友人が今、東のトゥーデルの森でオコニドの残党……いえ、マシャンバルの軍ともうすぐ接触をします……すべてに決着をつけるために」
「場内でドールたちに成りすました奴らが……か」
「ええ、私がずっと調べていた人獣兵です」
ルースは、しかし、と付け加え、さらに続けた。
「おそらく奴らはその接触にかこつけて、ここを襲撃するつもりです。ですので……」
「残された騎士団と兵を、僕にお貸し願えないでしょうか」毅然とした瞳で、ルースは王を見つめた。
先ほどとは違う、断固とした決意。
「ラッシュ……とか言ったっけ。彼の気質にそこまで惚れ込んだのかい?」
ジール以外では初めてでした。僕のことを対等に見てくれる仲間に出会えたのは……」
「君がそこまで言うのなんて珍しい……だけど今の状況じゃ僕の一存だけでは動かせられないのは分かっているはず。それを承知で言っているのかい? ルース・ブラン=デュノ?」
「ここで唯一話せられる存在が、エイセル王……いや、クルー。君だけなんだ」
その言葉に、王は大きくため息をついた。
「彼の友情に報いるために、ルース。君は何かを差し出せるかい?」
「え……?」
王は腰に下げた剣を抜き、鋭い切っ先をルースに向けた。

「君の覚悟を聞かせて……ルース」

25話

 ……自分でもここまで長い時間戦ったことはない気がする。
 もうどのくらい連中を斬ったかわからない。だが意識はますます冴え、身体は熱くなってくる。
 まるでこの大斧が求めているみたいだ。もっと、もっと血を吸わせろ、命をよこせ、と。

 昔、親方が言ってたっけなぁ……この世界には意志を持っている武器や鎧があるって。握ったが最後、数多の血を吸わない限り手から離れないぞと。
 どうやら俺のこの斧がそれみてえだ。まるで手に吸い付いたようで、離れてくれない。
 それに、これだけ斬ったというのに刃こぼれ一つ起こしていない。奴らの血も、脂もひと振りするだけできれいに落ちてくれる。
「これがお前の意志か……?」って、つい斧に向けて話しかけちまった。答えてなんかくれないのにな。

 足元にはおびただしい数の人獣どもが血の池とぬかるみを作りだしていた。それでもまだ奴らの数は減ろうとしない。
 もしかしたら、オコニドの全勢力をここに持ってきたんじゃ? って思ってしまうくらいに。
 ふと顔を上げると、森の奥から……いや、俺の周りがキナ臭くなってきた。木の燃える匂い……なるほど、ルースのくれた薬に火が付いたか、それともゲイルたちが俺たちを追い込むために山焼きでも始めたか、どっちかだろう。
 いずれにしろ、そろそろここに留まっているのも危険だな。俺は一向に木の上から降りてこないティディを探しに、また足を進めた。
 彼女の名を呼びながら……だが、俺の前に立ちふさがったのは彼女じゃなかった。

「ようやくお前と二人っきりになれたな」俺の斧と同じくらいの巨大な剣を肩に掲げた奴……ゲイルだ。
「お前とここで心中する気はないからな」
「俺も同じだ。しかし勝った方がここから出られる……そうだろ?」
 俺の渾身のネタをさらりとかわしやがった。相変わらず可愛げのない野郎だな。
「そうそう、交渉決裂したから言わねえでおこうかと思っていたんだが……例のアレな」
 言われて思い出した。親方の死の真相をこいつは知っているってことを。
「大サービスだ。俺に勝ったら教えてやるよ。俺もこうなった以上、もはやマシャンバルに戻ることすら許されねえだろうからな」
「ゲイル……俺らと一緒に街に帰ろうとは思わないのか?」無理を承知で聞いてみた。いずれにせよ敵国であるオコニド……いや、マシャンバルに就いたこいつは戦犯だ。帰れたとしても捕らえられて拷問された挙句、処刑されるのは目に見えて明らかだ。
「変なところで優しいんだな、お前はいつも」
「お前も優しいじゃねえか。交渉決裂したのに敢えて教えてくれるなんてよ」
 俺は思わず吹き出しちまった。ゲイルもそれにつられて高笑いした。
「なら、これで終わりにしよう……ぜっ!」
 俺とゲイルのぶつかり合う音が、森にキーンと響き渡った。

26話

 俺の知らない間にゲイルは強くなっていた、いや、性格もだ。
 以前はもっと口だけは達者で女々しかった、剣の腕なんて全然大したことなかった。それなのに……いや、俺の方が疲弊しているせいか?
「分かるかラッシュ? 強くなった俺が」俺の思いにこたえるかのようにゲイルは話した。
「身体がなあ! 生き生きしてるんだよォ! もう俺は以前までの薄汚ねえ獣人なんかじゃない! マシャンバルの力で人の姿になれたわ、おまけに今まで以上の力も得ることができたわで、もう最高なんだよおおおおおお!」
 倒れた俺の顔面を踏みつけ、そして何度も蹴りまくった……苦しい、それに火がすぐそこまで来ているからか、胸の奥が熱くなってきた。
「残念だったなラッシュ、もう貴様ら獣人が戦争の主役だった時代は終わりだ。これからはなァ、俺……のぉッ!」
 バカかこいつ。倒したんだったらさっさととどめを刺せ。いつまでも講釈垂れてンじゃねえ!
 俺は顔面を踏んづけていたゲイルの足首を掴んでひっぱり、同じく泥の中へと突き倒してやった。
 そのまま、泥まみれの俺とゲイルは武器を捨て、延々と殴り合い……
 ゴッ! と鈍い音が俺の拳に響いた。ゲイルの頬骨が砕ける感触とともに。
 それでも容赦なんかしねえ、俺は声にならないうめき声をあげているゲイルの顔面に、さらに何度も拳を見舞った。
 
 ……が。直後、俺の背中に刺すような熱い激痛が響いた。
「……矢?」何本もの矢が、俺の背中を刺し貫いていたようだ。
「ひゃははは、どうやら援軍が到着したようだな」血まみれのゲイルの顔が、邪悪な笑みで歪んでいた。
「貴様……!」流れ出る血とともに、俺の意識が急速に薄れていった。
「と、言うことだラッシュ。ディズウ神王様はまだ俺を見捨ててはいなかったようだ。これから俺たちは援軍とともに行かせてもらうとするぜ! ひゃーはははは!」
 その汚ねえ笑い声で俺は一気に目が覚めた。そうだ、こいつら……街に行く気だ!
 しかし、身体がいうことをきかねえ……なにか、なにかこのクソ野郎に何か一発でも食らわさねえと、俺の怒りが……!
 そうだ……あれだ‼‼‼
「じゃあなラッシュ、お前の生まれ故郷が燃えるさまをここでじっくり見ていてくれ……ってウワァ!」
 武器と一緒に投げ捨てていたルースのザック、俺はそのままひっつかんでゲイルに投げつけた。

 直後……真っ白な光と音と。そして身体が引き裂かれそうなくらいの衝撃と。
 その一撃で、俺のすべての意識が飛んでいった。

27話

 …………………
 …………
 ……
「あ……」意識が飛んだと思ったら、今度は急激に引き戻された感覚が俺を襲った。
 溺れそうになったとき、手をぐんと引っ張ってくれた……そんな強引な感じが。

「ラッシュ! よかった……!」ぼんやりとした視界の隅にジールとアスティが。しかしなんでジール泣いてるんだ?
 ああ、なんだ。俺倒れてたのか。でも、なんでだ?
「ラッシュー! 生きてた!」今度はティディだ。起き上がろうとすると、背中が、身体じゅうがズキズキと痛む。
「ラッシュ、吹っ飛んでたんだよ」
「そう、すごい爆発音がしたからすぐさまここに来たんです、そうしたら彼女がずっとラッシュさんを抱いたまま泣きじゃくってたんで……」
 そうか。ゲイルにまとめてザックを投げつけたんだっけ……ようやく思い出せた。
 爆発が目の前だったからか、まだアスティたちの声が遠くから聞こえるように小さい。まあじきに治るか。
 ……いやそうじゃない、ゲイルは、人獣の援軍も来ていたんだ!

 どのくらい俺は倒れてたかってみんなに聞いてみた。おおよその時間は分からないけど、爆発のときからそれほど経ってはいないようだ。
 ならば……間に合うか⁉
 俺はみんなに人獣の援軍が街に向かっていることを説明した。
 ……だが、ジールも、アスティも無傷じゃなかった。二人ともケガの状態、そして体力からして、もう限界に近いだろう。
 二人とも口じゃ大丈夫とは言っているが、これ以上引っ張りまわらせたくはない。
 あとは俺と、まだまだ絶好調のティディだけだ。
「でも……うん。ラッシュってホント不思議」消耗しきってぺたんと座り込んだジールが、俺の姿を見て困惑の言葉を投げかけた。
 ティディが倒れている俺を見つけたとき、すでに心臓の鼓動が止まっていたらしい。
 だから、ジールもティディも泣いてたのか……って、俺死んでた⁉
「爆弾目の前でやっちゃったのもそうだけど、背中からすごい血が出てたのよ。普通の人間だったらとっくに死んでてもおかしくないくらいの量をね」
 でも、まだまだ傷は癒えてはいないが、俺は生きている。
「やっぱり……狼聖母様の加護なんでしょうかね。それとも持ち前の頑強さか」煤にまみれた顔でアスティは笑っていた。
 そうだ、俺はディナレの加護を受けている、やらなければいけないことがあるって彼女に言われたんだっけか。
 つまり、オコニドの連中を片付けること……これも俺に課せられた使命。
 いやいやそうじゃねえ! 街にはトガリが! ジャエス親方……は、恐らくどうやっても死ななそうだからいいとして、そしてチビと町の連中だ!
「馬、探してくれ……俺は町に戻る」俺とティディは口笛で馬を呼んだ。
 いくら爆弾で片づけたとはいえ、まだまだ相当な数の人獣と、そして俺以上に強くなったゲイルが向かっているはずだ、町を襲撃するために。
 そして……奴に勝って聞きださなくちゃいけねえ。親方の本当の死の原因を。
 いよいよ煙がひどくなってきた。ここはもう離れないと危険だ。

「ラッシュ、先に行ってて、あたしとアスティは絶対に追いつくから」
「ごめんなさいラッシュさん……僕も、みなさんみたいに強かったら」
 二頭の馬で燃える森から脱出し、俺とティディは先に奴らを負うことにした。一人でも多く倒さないと、と思って。
 俺の背中にしがみついているティディに、俺は最後の言葉をかけた。
「怖くねえか?」

 ティディは何も言わず首を左右に振った。ほんといいやつだ。

28話

 前にルースから聞いただけだからちょっと違うかもしれねえが、馬っていうのは俺ら獣人みたいに人と同じ姿になるのを望まなかったんで、俺たちの先祖……獣と同じ四本足の姿のまま今も変わらず生きているって話だ。

 人間も、俺たちも馬の恩恵を受けている。長旅をするときだってそうだし、こうやって目的地にまで早く移動したい時だって。
 
 俺とティディの乗った馬が全速力で走ってどれくらい経っただろう。そろそろこいつも休ませてやらねえと限界かなと思ってきた矢先、草原のはるか前方にオコニドの人獣どもの緑色の背中が見えてきた。
 さらにその先には、俺たちの住んでいる町が。
 しかしすげえ数だ……ざっと見ても、俺らがさっきまで切り倒してきた数と同じくらいの兵がいる。
 正直、俺とティディ、そして後から来るであろうジール……いや、あの二人にこれ以上戦いを強いるのはやめておきたい。どちらにせよ……って。

「ティディ、あそこにいる奴ら何人くらいか分かるか?」そうだった。俺は10以上の数を数えることができないんだった。
 ルースの勉強会がいろいろあってお流れになって以降、俺もチビも字の読み書きはそこそこ(無論、チビのほうが飲み込みは早い)できるようになったんだが、肝心の計算とかが……な。
「うーん、千人くらいかな、もっとかな」
 うん、千人ってどれくらいなのかちっとも分らねえ。

 いつかまたルースに会えるだろうか?
 またあいつは勉強会をしてくれるだろうか?
 ……いや。
 この戦いが終わって、またみんなでメシを食うことができるだろうか。

 なぜだろう、これからもっと激しい戦いになるっていうのに、思い出すのは楽しいことばかりだ。
「あたしね、おうちに戻ったら、またラッシュのためにおっきなケーキ作るんだ」
 喜々としたティディの声が背中から聞こえる。俺同様、まるでこれから始まる戦いのことなんて全然意に介してないほどに。
「作り方、覚えたのか?」
「うん、トガリがみんな教えてくれたの。卵と、砂糖と、え……っと」
 ダメだこりゃ。

29話

 さてさて、どうしようかまずは。
 作戦なんてのんきに考えられるわけもない。ましてや俺は基本的にそんなこと考えたことがない。
 できることは、そう、一点突破だ。
 おそらくこの集団の先頭にはリーダーであるゲイルいるはずだ。あの爆発の後、目が覚めた時にはあいつだけいなかった。つまりまだ生きているってことだから。
 とにかく、斬って、斬って、斬りまくって……

 連中が気付くか気づかないかの距離に、俺は馬を泊めた。こいつも休ませてあげなくちゃかわいそうだしな。
 幸いにもティディはまだルース製の爆弾を一個持っていたんで、それを奴らの中心に投げつけて、そこから一気に突っ込んでいこうってことにした。
 まずは盾になる俺、そして後ろにはティディと。

 気配を隠し、背の高い草むらに身を潜めていると、なぜか俺の足がガクガクと震えだしてきた。
 なんなんだ? 怖いのか? それとも武者震いってやつなのか?
 こんなこと、生まれて一度も……いや、一度だけあったのを思い出した。

 生まれて初めて、戦場に行った時のことだ。

 あの時はナイフ一本で無我夢中で名も知れぬオコニドの人間どもを倒して、気が付いたときは真っ白な息をハッハッと吐きながら、死体の山の上で震えながらずっと立ちすくんでたんだっけ。
 凍えるほど寒かったのか、それともあの時の震えが……
「ラッシュ、怖いの?」それを見ていたティディが心配そうに話しかけた。
「ああ? 大丈夫だ。ちょっとな……」
 俺は頭の中に残っている思い出をすべて振り払おうと、ぶんぶんと首を激しく振った。
「嫌なこと思い出しちまっただけだ……よッ‼‼‼」
 手にしたルースの爆弾を、俺は渾身の力で放り投げた。
 しばらくして、またいつもの連中の気持ち悪い叫び声が草原一体に響き渡る。
 大斧をぐっと握りしめ、俺は慌てて散り散りになったオコニド兵どもをつぎつぎ真っ二つにした。
 うおおおおと雄たけびを上げ、隊列のど真ん中へと突進していく。

 そうだ……これが終わったら、俺にもケーキの作り方教えてくれよな、ティディ。

30話

 奇声を上げて、オコニド兵が次々と俺の方へと集まってくる。前後左右、とにかく俺を取り囲むように。
 斧を長く持ち替え、渾身の力でブン! とひと回しすると、たちまちのうちにやつらは血肉の塊へと姿を変えた。
 疲れと身体じゅうの痛みで意識が消えかかる、だがこんなのはガキの頃から味わってきたことだ。まだまだこれからだ。
 目指す一点に向けて走り抜け、立ちふさがる奴らはとにかく切り捨てていくのみ、前の見えない出口に向かって。
「そうだ……意識を俺の方に向けろ、町の方へ行くんじゃねえ!」と荒い息の中から独り言が漏れた。
 ちらりと振り返ると、血塗られた一本道にティディはいなかった。全く、あいつまた違う方向行っちまったか。なんて思ったり。
 今度は上を見上げてみる、さっきまで雲一つない空だったのが、みるみるうちにどす黒い雲が覆い始めてきた。
 降るな……それも雷を伴った土砂降りかもしれない。

 また意識を無にして斬り進むうち、ついに……ついに俺たちの住む町が、高い塀と門が目に入ってきた。
 大丈夫だ、まだ奴らは攻め込んじゃいない。だけど俺らの……ルースの姿も見えなかった。
 やっぱり、お偉いさん方に願いは通らなかったか。

「ふん、ようやくお出ましになったか。その身体でよくここまでたどり着けたな」
 俺の真ん前に再び姿を現したのは、誰でもない、人の姿へと姿を変えつつあるゲイルだった。
 あの時投げつけた爆弾が効いたのか、右腕は肘から先が失われ、顔の右半分も大きくえぐれたようになっていた。
「……つーか、お前、もそんな姿で……よく生きて、いられるな」息が苦しくて、これだけ話すのがやっとだ。
「お前、あの爆弾みてえなものになんか混ぜたろ? おかげで回復が全然進まねえ」
「かい……ふく?」
「……まだ教えてなかったか。俺のこの身体は人間になるためでもあったんだがな、もう一つ、不死身にもなれるんだ」
 不死身……⁉ つまり死なない身体ってことか。
 前にアスティがこいつの目を貫いた時もそうだったな、その後出会ったときにはほとんど治っていたし。
「それにな、こンだけ吹っ飛ばされても全ッ然痛くも痒くもないんだぞ! これも全て神王様とラザラス大司教のおかげさ!」
 なるほどな、確かに身体の右半分が凄まじいことになっているのにもかかわらず、いつもと変わることなく平然としゃべっていやがる。そう、本来なら死んでいてもおかしくないはずなのに。
 ゲイルがそう話している間に、周りをオコニド兵がぐるりと大きく取り囲んでいた。
 まるで、こいつと俺との戦いを観戦するかのように。
 そうだ、これは……闘技場だ!

「俺もこんな身体だし、お前もボロボロだ。まあ互いに五分五分ってとこかな?」残された左手に握られた大剣。片腕なのをものともせず、奴は軽々と振り回していた。
 一方の俺はというと、斧を握り締めていた掌の皮は裂け、持っている重さも感覚も、疲れと痛みですでに失われていた。
「ンな条件いらねえだろ……さっさと始めようぜ」
 俺の口から笑みが漏れだす。
 いいな……この、どうあがいても俺一人だけが死にそうな張り詰めた感覚。それに緊迫感。
「「いくぞおおおおおおおおっ!!!」」
 俺とゲイルの呼吸が合わさり、武器のぶつかり合う重い音が、身体じゅうに轟き、響いた。
 片腕だけなのに、ゲイルの放つ一撃が重い……
 いや、俺の疲れとかじゃない、こいつ、さっきより力を増している⁉
「いいねえ、名匠ワグネル師の創り上げたこの剣は。お前のその斧と共鳴しあってるな。打ちこむたびに身体にビリビリきやがる」
 ワグネル……⁉ ワグネルって、俺のこの斧作ったジジイの名前か‼‼‼ 久しぶりに聞いた名前だ。
「俺が勝ったら、その斧頂くぜ……!」
「!!!」一瞬の意識のスキを突いて、奴の刀身が俺の左わき腹にめり込み、ひざまずいてしまった。
 革鎧のおかげで胴体が二分されることすらなかったが、メキッと嫌な音がした……そして呼吸をするたびじわじわと痛みが増してくる。こりゃアバラが何本か逝ったな。
「けっ、腕が生えてこないから力が発揮できねえ。まだまだだな」
「……腕のせいにすんなクソ野郎。元からテメエの腕前なんて大したことねえだろうが。このヘタレが」
 ペッ、と俺は血交じりの唾を奴の顔へと吐き捨てた。
「こ、この腐った犬野郎がアアアアアアアアアアアアッ!」
 案の定ゲイルは挑発にまんまと乗ってくれた。そうだ、その調子だこの単細胞。

 そうだ、俺も単細胞だ。
 単細胞同士、とことんやりあおうぜ。

 俺とゲイルの一騎打ちはすでに武器を投げ捨て、拳での殴り合いになっていた。
「どうしたラッシュ! まだ終わっちゃいねえぞ!」気づいたとき、俺はまた地面に顔をうずめていた。
 正直もう無理だ、奴の方は人間の身体になって、身体が千切れても再生して、おまけに力も体力も底なしになってて……
 意識も朦朧としかけた、そんな時だった。

「ラッシュ、だめ、立って!」ティディだ。どっかからあいつの声がする。
 鉛みたいに重くなった身体を起こすと、そこには、ティディが……
 ゲイルの背中に組み付き、奴の首筋にナイフを突きつけていた。いつの間にあいつ……!
「姫様、なぜ私に……」一方のゲイルも戸惑っていた。
「ゲイルお願い、ここから引き返して」
「なぜなんだ姫様。リオネングに行きたいって言ったのは貴女じゃないですか⁉ 父上の制止も聞かずに」
 なんなんだ、こいつらなんの話をしてるんだ?
「それがいつの間にかこんな奴に惚れたってんで心変わりですかい? ワケが分からないのはこっちの方ですよ!」
「ラッシュは……あたしが苦しくなった時、ずっと看病してくれた。向こうじゃ誰もそんなことしてくれなかった! ずっと繋がれっぱなしで、みんなのためにいっぱい血を取られて、でもっていきなり結婚しろって、もう嫌だった……」
「姫様……それはマシャンバルとオコニドの民のためであって……」
「そんなことされるのもうイヤ! 私、自由になりたかった。ここに来れば、リオネングに行ければ、きっと……」
 大粒の涙が彼女の頬をつたう……そうだ、ティディは、泣いていた。
「きっと、誰かがあたしを自由にしてくれるって信じてた。それがラッシュだった」
「そうですかい、それが逃げ出した理由だったとはね……!」
 ゲイルは残された腕でティディを引きはがし、軽々と俺の前へと投げつけた。
 とっさに俺はティディの小さな身体を受け止めた……しかしもう身体が、これ以上は動かねえ。
「姫様、貴女はマシャンバルの未来のために必要だった。その存在も、身体に流れる血も……新たな民を作り出すためにもね」
 ゲイルは落ちていた大剣を拾い、高々と天に構えた。
 よく見ると、まだ枯れ枝のように細いが、右腕が徐々に再生し始めている。それに、顔の方も。
「姫様、なんとしてでも貴女には戻ってもらわなければいけないのです、そのためには、この……ラッシュの野郎を!」
 ブン! とゲイルの剣が俺に向かって振り下ろされた。

 

31話

 ギン! と俺の真ん前で鈍い金属音が響いていた、
 ああ、やり残したこといっぱいあったかもしれない、けど最後にティディを抱いたまま死ねるのも……なんて、自分でも似合わない思いが頭の中をよぎっていた。
「あ、あの……ラッシュさん」
 突然のルースの声に、俺は恐る恐る目を開けた。
 そう、ゲイルの一撃を受け止めていたのはルース……じゃなく、その隣にいた、えっと、誰だっけか。とにかく俺も意識が朦朧としていて思い出せねえ。
 唯一浮かんだのが、この前城でバケモノと戦った時に剣を借りたあのやたらと弱腰な騎士のガキだってこと。
 そいつが、ゲイルの剣を自身の巨大な盾で受けていたんだ。
「ご無事……には全然見えないですね」ルースが盾の陰から気まずそうな顔で話しかけてきた。俺のこのボロボロの姿じゃ、もはや皮肉な一言も言えないだろうな。
「……遅かったじゃねえか」絞り出すように俺も答えた。
 っていうか、こいつ何しに行ってたんだっけ?
「ルース、かっこいい!」便乗してティディもルースの頬にキスをしやがった。ナイス。
「つーか、その、デュノ様、こいつを早く!」何度もゲイルの猛攻を受け止めていた騎士が、相変わらずの弱音をこっちに向けてきた。借りができちまったなと思ってはいたが、この軟弱な声を聞くたびに殴り倒したくなる衝動に駆られるのはなんでだろう?
「えっと、手短に話しますね。王子に許可を願ったんです。リオネング騎士団の残った全員を私にお貸ししてもらえませんかって」
 猛烈な早口でまくし立てるルース。つまりはこういうことだ。俺と仲間以外誰もいないこの戦いに、力を貸してくれないかってことでルースはお城の偉い奴に申し立てに行ったってことらしい。
 リオネングとオコニドの長い戦争は終わっている、いわゆる休戦状態。
 そんな中で勃発しちまったこの戦い……これを引き金にまた協定が破られてしまったら元も子もない。
 そう、これは存在してはならない、誰にも知られてはいけない戦争なんだってこと。
 だから、リオネングのお偉いさんも見て見ぬふりで通していかなければならないんだ。
 だが、俺たちが力及ばず全滅したことで、ゲイルたち異形の兵士が攻めて来たりでもしたら、もう意味がなくなってしまう。
 それゆえにルースは陰で陳情していたんだ。どうにかしてリオネングの兵隊を貸してもらえないか……って。

 弱腰騎士がゲイルと対峙している間に、ルースがぽつりと「ただ、条件が二つありまして」と付け加えてきた。
「一つは、今回の戦いの首謀者、ゲイルとティディさんの生け捕りと連行、そして……いや、これは私たちが無事に帰れたら、その時にでもきっちり話します」

 寂しげな笑みを浮かべながらルースは俺に応えていた。
 ああ、分かる……あいつのかなり重そうな、その決心を。

 

32話

 思ったとおり、雨がぽつぽつと降り始めてきた。そしてだんだんと勢いを増し、周りは血と泥で形容しがたい色に染まっていた。
 リオネングの騎士団が加わってくれたおかげで、あれだけ手こずっていた異形の連中もあっという間に片づけられてしまったことで、張り詰めていた俺の気も一気に抜けていた。これほどまでに暴れたのは何年ぶりだろう……もう、当分は立てねえな。

「んで、一体俺をどうするつもりだ?」縄、いや、暴れないように鎖で縛られたゲイルが、キッと俺たちの方を睨みつけている。俺がボコボコにしたとはいえ、まだまだ余力はありそうだ。
「あなたとティディさんは私たちとともにリオネング城へと来てもらいます」ルースの言った通り、こいつは今回の首謀者だ。連れていかれて一体何をされるのかは分からない、けど獣人から人間へと変わったという経緯があるから、死刑になるのだけは避けられるだろう。まあ良くて一生檻の中だろうな。

 で、問題のティディだけど……
「あたしも連れてかれちゃうの?」ティディの言葉に、ルースは無言でうなづいていた。雨に濡れてべったりとぬれた前髪をかきあげながら。
 そうだ、あいつはゲイル以上に重要な生き証人。なんたってマシャンバルという未だ未知の国の、しかもお姫様なんだし。
 もてなされるわけはない。俺から引き離されて、やはり、一生……
 雨脚が強くなってきた。もうルースの声すら聞こえないほどに。
「ラッシュと、もう一緒にいれなくなっちゃうんだ」
「はい……もう」
「やだ、あたしラッシュと結婚したのに、ずっと同じところでいたいのに、ダメなの?」
「はい……」
「やだよ! あたしもうマシャンバルじゃないもん、ゲイルとも一緒じゃないもん! それなのに……」
「なんであろうと、ティディさん、あなたはマシャンバルの重要な生き証人なのです。いくら私といえども、これには逆らえません……ごめんなさい」
 ティディの両肩から、力がすとんと抜け落ちた。

「いいじゃねえか姫様、リオネングではまた一緒になれるぜ」ゲイルのその言葉にも、ティディは一切応えなかった。

 豪雨の音に交じってあちこちで勝どきの歓声が上がってきている。そうだ、終わったんだな。
「ケーキ、また作りたかったな……」
 俺の胸の中で、ティディの涙交じりの声がささやく。もう一度抱きしめてやりたかったけど……くそっ、両腕すら上がってくれねえ。

 ルースのお手製爆弾を間近に受けたときは、ジールたちの言う通り……不思議と傷が癒えていたっていうのに。
 そう、この前教会のとこで戦った時もだ。ルースの息が止まった時も、なぜか時間が巻き戻ったかのように俺たちの傷が治っていた。
 ディナレって女の言っていた加護だとしてもだ、今は全く傷は癒えちゃいねえ。なぜだ?
 まあいいや、とりあえず、帰りたいな……ティディと、いや、まだ帰ってきていないジールやアスティと一緒に。
 すると突然、雨音に交じって誰かの大きな高笑いが聞こえてきた。
 そうだ、それは誰でもない。ゲイルだ。
 この野郎、この期に及んで一体何なんだ、頭おかしくなったのか⁉
「へっ! まだまだ分かっちゃいねえようだな。お前ら」大きな笑いとともに、がんじがらめのゲイルがゆっくりと立ち上がった。
 その姿……目の錯覚か? さっきより身体が大きくなっているような気がする。
「ディズウ神王様は俺様を見捨ててはいなかったようだな……見ろ! クズども!」
 膨れあがった身体とともに、ゲイルの失われた右腕がだんだんと再生してきていた。肩から生えてきた肉の塊がみるみるうちに伸びて……
 だがそれはさっきまでの新たなゲイルの身体の一部じゃなかった。以前の、毛の生えた獣人の腕だ。
 それ同様に、顔つきも変貌を始めていた。平たく大きな鼻にたてがみ。
 そう、人間のゲイルではなくこいつは以前の姿に戻ってきていた。
「気持ちいいぜ、それに身体じゅうから力が湧いてきている……!」
「な……⁉」
 新たに生えた右腕は軽々と鎖を引きちぎり、その姿に驚愕していたルースの小さな身体に一撃を加えた。
 ゴッという音とともに、ルースは遠くへと弾き飛ばされていった。
「ルース!!!」が、その声はもう届かなかった。

「ふっ、こうなったらもう実力で行くまでよ、あばよラッシュ!」
 ゲイルの膨れ上がった巨躯が、馬よりも速いスピードで俺たちの前から走り去っていった。

 その方角……俺たちの……そうだ、リオネングの街だ!

33話

 初めて知った。雨っていうのはこれほどまでに、痛いほど激しく、しかも大量に降るもんなんだって。
 なにを話しても聞こえないくらいの大きな雨音。誰かが以前言ってたな「バケツをひっくり返したような雨」ってたとえ話。
 でもこれはバケツなんてモンじゃない。どちらかというならば、池とか川とか湖の水をそっくりそのままぶちまけたみたいな、それくらいすさまじい雨だ。
 天井には大穴が開いていて、床はもう一面びしょぬれ。
 そんな中、俺の眼前にはあいつが。そう、ゲイルの姿が。
 人の姿から、元の俺たちと同じ獣人の容姿に戻ってはいるが、その身体は筋肉だか脂肪だかよくわからないもので倍くらいに膨れ上がっている。
 特に俺がルース爆弾で吹っ飛ばした右半身なんて異形そのものだ。左右非対称な醜いバケモノへと、そうだ、今でも身体の中に変な生き物でも飼っているんじゃないかっていうほど、ボコボコと皮膚の下で動いている。
 そして、奴の左腕には……チビが。
「よお、意外と早かったじゃねえか」

 ああ、帰ってきたんだ。俺の家に。
 騎士団の馬を借り、ゲイルの後を追い……着いた場所は、そう。いつもの場所。
 奴が来るのならば絶対ここにしか来ないだろうと思っていた。
「チビを……いったいどうする気だ?」ここへ来るのならば絶対人質を取るのだろうとも、俺は薄々考えていた。
 トガリか、ジャエス親方か、最悪……チビか。
 そして思っていた通りの最悪パターン。
 そしてこっちはもっと最悪かもしれない。正直ヤツに話しかけるのもやっとな俺に、同じく消耗しきっているジールとアスティ。そしてまだ意識を失ったままのルース。
 唯一ピンピンしているのは俺の嫁、ティディだけだ。
 あと、ジャエス親方はというと……ゲイルに真っ先にやられたのか、部屋の隅に倒れていてピクリとも動かない。
 その背後の壁は大きく崩れている、奴の渾身の一撃を受けて叩きつけられたんだろう。
「正直俺も最初は疑ったさ、まさかこの子が鍵だなんてな」泣き言一つ上げずにガタガタと震え怯えている傍らのチビに向かって、ゲイルはそう答えた。
 しかし、鍵って一体どういうことだ……?
「ゲイル、チビを放して。私と交換ってことにしよ、それで済む話」
 その言葉にニヤリと、ゲイルは醜い笑みを浮かべた。
「しかし人が悪すぎますぜ姫様も。この子がそうだなんてなぜ最初に言ってくださらなかったんですかい?」
 ぴちゃり、ぴちゃりと一歩ずつゲイルの元へと歩みながら、ティディは話した。
「ううん、最初はきっちり言おうと思ってた。父上の元にも、ゲイルにも。だけど……」
 その足が止まった。
「ラッシュとチビの幸せそうな姿を見ていたら、言い出せなくなった。ううん、逆に守りたくなった」
「それがあの野郎との結婚ってわけですかい」
 ティディはその問いかけに無言でうなづいていた。

「おい、俺を差し置いて一体何なんだ⁉ チビのことを鍵とかなんとか言って」
「ちょっと待って、ってことは……この子を拾った時に襲撃を受けたこととか、あれも全部……?」
 俺とジールの言葉にそうだよ、とティディはつぶやいた。
 チビはあの時から狙われていたってことなのか、だとすると合点がいく。しかし、なんで……
「チビはね、リオネングでもオコニドの地の人でもないんだ……」その言葉に俺は息を飲んだ。っていうことは、チビの正体は、いったい……?

「この子は、マシャンバルの祖の血を引く子なんだ」

34話

「この子は、マシャンバルの祖の血を引く子なんだ」

「で、祖ってなんだ?」
「うん。つまりチビはマシャンバル人。だけどもあたしより、父君ディズウよりずっと血が濃いんだ。言うなれば……」
 俺の問いかけに、ティディは大きく息を吐きながら答えた。
「まじりっけナシの、本物のマシャンバル人……いうなればこの世界で最も忌まわむべき存在にして、最も神聖な存在」
 だんだん言ってることが分からなくなってきた。忌み嫌われてるのか、それとも尊いのか……
「神王様はこいつの力を欲しているってことさ。こいつの、チビの血を手に入れることによって、あのお方は真のマシャンバルになることができるんだ。肉体も、さらには忌むべき力も!」
「チビの力……?」
「ラッシュとルースはチビの力を知ってるはず」言われてふっと思い出した。もしかして、教会の前で俺とルースが襲われて重傷を負った時か。けれども直後に何もなかったアレか。胸を貫かれて死んだと思っていたルースまで生きていたあれが、チビの力だというのか⁉
「まだ無意識だったと思う……けど、すでにチビは力を使えるの。自分を守ってくれている人を護るための……だけどそれは自然の摂理に反した禁忌の力」
「そうだラッシュ。お前のバカな頭でも分かっただろ? 何が起こったかが。こいつの力は……」
「治癒……とか、死んだ奴を生き返らしちまう力か?」
 ティディは大きく首を横に振った。
「事象を無にするんだ。あったことをなかったことに……そう、ルースは死んだけど、死んでなかったことになった」
 理解できねえ、全然だ。すでに起きちまったことをなかったことに……って、そんなことまず有り得ねえことだ。
「ってことだ。正直もう姫様は必要ねえ。チビだけ頂いて俺はマシャンバルへと一足先に帰らせてもらうさ」
「だめ!」ダガーを抜き、またティディは一歩ずつゲイルの元へと近づいていった。
「チビは返してもらう、例えゲイルと刺し違えてでも」
 危険だ、あいつは……ティディは死ぬ気だ! 俺と違ってゲイルの野郎はまだまだ有り余るほどの力を持っている、ティディ一人じゃ絶対に勝てない!
 だが、もう正直手の指一本動かす力だって残ってねえ。こんな時にかぎって、くそっ!

「チビは……返してもらう!」
 雨の轟音の中、聞きなれた誰かの声が耳に飛び込んできた。これは親方……ジャエス親方か⁉
「おやっさ……!」崩れて積み重なったテーブルを踏み台にして、ジャエス親方はゲイルの背後から大槌の一撃を浴びせた。
 ゴッ、と鈍い音を立てて、醜く膨れ上がったゲイルの頭部が大きくへこむ。
「があああああああああああああああああああああああああ! このジジイいいいいいいいいい!」
 だが親方の渾身の一撃もこの異形と化したゲイルには全く通じなかったようだった。
 もう一撃浴びせようとした親方の小柄な身体を、筋肉の塊のような右腕が包むように掴んだ。チビと同様に。
「ジジイいいい! 死んだンじゃなかったのかァァァァァァ!」ぎしぎしと親方の骨のきしむ音が聞こえる。
「……ん? あ、いや、そっか……もう話してもいいか。どうせもう俺このまま帰るしな」
 つい今まで怒りの形相をしていたゲイルが突然、微笑んだ。なんなんだコイツ一体。怒ったり笑ったり……
「この前話したよなラッシュ。ガンデ親方がなぜ死んだか理由を教えてやるって、な」
 そうだ、思い出した。このクソ野郎が話していた交換条件。親方がなぜ死んだかっていうことを。
 ずっと、ずっと俺は老衰だとばかり聞かされていた。年を取ると人間も生き物もみんな細く弱く白くなっちまうんだって。
 だが、そうじゃなかった。ゲイルいわく、親方は……
「ゲイル、お前まさか、あのことを知っ……⁉」ゲイルの右腕に捕まれたジャエス親方の顔が、焦りで引き攣っていた。

「おうよ、そういうことだ。ガンデ親方はな……」

「お、おいゲイル、つまり、まさかジャエス親方が殺し……」

「それ言うと思ったわ。残念だな。お前の答えは大間違い。親方を殺したのはな……」
 誰なんだ……ジャエス親方じゃないとしたらいったい……⁉
 ゲイルはポイとゴミのようにジャエス親方を放り捨て、その丸太のような人差し指で、俺をぐっと指さした。

「お前だよ、ラッシュ」

35話

 …………
 ……
 当たり前のことかもしれないが、雨が降ろうが大雪の日だろうが、来る日も来る日もバカデカくって思い鉄の棒を振る訓練をしていた。
 手のひらにできた血マメが潰れてボロボロになろうが、親方はそんなことお構いなしだった。
 それが終わったら実戦だ。親方の剣の振りをどのようにしてさばいて、俺が拳を叩きこむか……もちろん親方は容赦しない。
 目の動きから、足さばきから、腕の筋肉の盛り上がりから。全部をきっちり読んで俺を殴れ、と。当然小さかった俺には無茶な要求だった。何度も木刀でブッ叩かれ、日が暮れる頃には声すら出なかった。
 一度や二度成功したくらいじゃ喜んでもくれなかった。それが確実となるまで。
 毎朝日が昇る前から、とっぷりと暮れるまで。ずっと裏庭の練習場から出ることもなかった。
 寝床と食堂と練習場と。そう、ここが俺の世界だった。
 けれども俺は泣くことがなかった。
 ああ、そっか……あの頃の俺は泣くということを知らなかったのかもしれない。
 息が詰まって血が混じった反吐を吐いて、なんでこんな毎日なんだろうという疑問すら持たなくて。
 ひたすら死ぬ寸前の毎日を生きて。

 それでも俺は、この場所が、そして腹いっぱい食えるメシと親方が大好きだった。

 だから、なんで、俺が……

「結構ショックだったみてえだなラッシュ。けど俺は一切ウソなんかついてねえぞ。それだけは信じろ」

 ウソってなんだ? 信じるってなんだ?

「んー。じゃ追い打ちってわけでもねえがもう一つ事実をプレゼントしてやるわ」

 俺の後ろからジールのやめてという悲痛な声が聞こえる。
 さらに後方からばしゃばしゃと駆けつけてくる足音が……ああ、恐らくアスティだな。やっと戻ってこれたか。

 ああ、そうだ、おれ、なにしてたんだっけ。

「正しく言うとな、お前が殺したっていうよりか……お前は忌まわしい種族なんだ。そう、このチビと同様のな」

 最後の最後までとっておいた身体の奥底の力が、どっと抜けてくるように感じられる……なんなんだ、一体どういう意味なんだ⁉

 おれがいったいなにをしたっていうんだ?

「《黒狼》ですか……ラッシュさんって、もしや」
 俺のもとによろよろとアスティがたどり着く。だけど今度はなんだ、黒狼ってまた……次から次へとワケの分からねえこと言うんじゃねえ。

「そう! なかなかに博学だなそこの兄ちゃん。まさにその通りだ。ラッシュはバカ犬なんかじゃねえ。狼なんだなこれが。しかしただの狼族じゃないんだよなぁ~これが」
「だとしても……ラッシュさんは尊敬できる、僕がずっと憧れていた戦士なんだ! 」
 腰に下げていた剣を抜いて、アスティがゲイルの前へと躍り出た。
「無理! だめアスティ!」ティディの叫びが耳を打つ。

「ハァ…せっかく褒めてあげたっつーのにバカじゃねえの? ひょろい人間の分際で」
 その言葉通り、アスティはゲイルの拳の一撃で簡単に弾き飛ばされた。
 声の一つも出せずにその小さな身体は、赤く染まった水たまりの中にうつぶせに浮いていた。
「言えよ……さっさと残りを言えよゲイル……俺はいったいなんなんだよ。俺の存在とか、なぜ親方が死んだのか、全部言ってくれよ、包み隠さずによ」

 アスティの最期の姿を横目にしながら、俺はようやく言葉が喉を通ることができた……だがもう、それ以上のことを、何もすることもできねえ。

「いいねえその顔、ラッシュがそんな絶望に満ちた顔するなんて生まれて初めてじゃねえのかな?」

 ああ、そうだ、ここですべてを聞いて俺は終わるんだ。
 大丈夫だ、もう何を聞いても怒らねえから。

37話

「早く起きてよ、ラッシュ!」
 突然だった、聞きなれたいつもの声が俺の鼻先にガン! と。
「もう、いつまで寝ぼけてるのさ、食事できてるんだから。冷めたハンバーグは嫌いだっていつも言ってるじゃないの」
 トガリだ。あいつ眉間にしわを寄せて俺に説教を始めやがった。
「だいたいさ、最近仕事多いからって要求多いんだよ、スタミナつくもの食わせろって、朝からもう夕食作ってるのと変わりないもん!」
 分かったから、早く俺の前からどけ。
 ………って、トガリ、なんか変だ。
 メガネにはヒビが入ってるし、なにより頭から血が流れてる……俺が力いっぱい殴ったからか?
 いや、そんなハズはない。こいつが流血するのなんて今まで見たことなかったぞ。トガリの頭は鉄より硬いんだし。
 しかし、それをやつに問おうとすると、なぜか言葉が出ない。
「いくらおやっさんが亡くなったからって、ずっとふさぎ込んでるのも身体に悪いよ……」
 え? いつの話だいったい、トガリの姿といい……俺はどこにいるんだ?
「みーんなここから去っちゃったけど、大丈夫、二人ででもがんばっていけるよね、ラッシュ」
「え、俺……は」
「平気だよ、僕はここから出たりしない。ほかに行くところもないしね」
 いつしか俺のいた場所は食堂へと変わっていた、じゅうじゅうとハンバーグが焼ける匂いが俺の鼻をくすぐる……

 だけど、なぜかトガリは俺の前から離れてくれない。

「いつまでそんな気の抜けた姿でいるの?」
 傷だらけのトガリは、そんなひどい姿なのにもかかわらず俺にいつもと変わらない笑顔を向けてきている……
「分かってる、辛いのは……だけどラッシュがたとえ独りになったって、僕はラッシュの仲間だよ、ずっとご飯を作ってあげるから」
 独り……そうか、俺は、そうだ、独りだ。
 ゲイルの言う通り、俺は親方を殺したかもしれない忌み嫌われた独りなんだ。
「だから……早く立ち上がってよラッシュ! 足が動かなかったら這ってでも動いて! 」
 その言葉に俺の全身に稲妻が走った感じがした。しびれるような、なにかに貫かれるような。
「誓うよ、ラッシュがどんな大悪党でも、世界を滅ぼそうとする存在でも……僕はついていく。だからさあ、立って! 立って一緒に食事しよう!」
 ガタガタだった俺の両足に、わずかに力が戻ってきたような気がした……
だが、あくまでもそんな気がしただけだ。
「全くもう……これでもまだ立てないの? 意気地なし」
 トガリはムッとした顔で、今度はなにやら首から下げていたペンダントを外していた。あいつが肌身離さず着けていたやつだったな。
「これあげる、だから、もう一度踏ん張って」そういってあいつは、俺の首にそのペンダントをかけてくれた。

「なにがあろうとアラハスは裏切らない。これを僕だと思って、さあ!」

 ………………
 ………
 …
 あたりはまた轟轟と雨の降りしきる食堂の中だった。
 俺は……一体なにしてたんだたっけか、確か、トガリが……
 俺のずっと先では、ティディとジールがゲイルと対峙している。
 そうか、俺……あいつに。そうしたらアスティが……
 だが、奴に散々やられた身体はもうピクリとも動かせられない。情けねえ、こんなところで!

 ……ふと、握りしめていた右拳の中に、小石のような固いものがあるのが感じられた。
 震える手をゆっくり開いてみる……それは、真っ赤な丸い植物の種だった。
 そうだ、これトガリがいつも大事に首から下げていたガダーノとかいうスパイスの種だったか。親から仕送りがわりにもらったって話してたな。
 でもさっきまでこんなの握ってなかったはず。トガリがいつの間にかくれたのかな、と慌てて俺はあたりを見回した。
「トガリ、お前どこ隠れていやがるんだ、とっとと……!」

 諦めかけていた矢先に、視界の隅にあいつはいた。
厨房の崩れたガレキの隙間から……あいつの長い爪の生えた右腕だけが。
 ああ、そうだ、トガリだ。全然姿見せねえなと思ってたら、あいつ……あいつ!!! バカ野郎!!!

 俺はトガリのくれたガダーノの種を口に放り込んだ。
 奥歯で思いきり噛み締める……苦いような、それでいて舌が痺れるほどの強烈な熱さが俺の口の中を、いや、身体中を駆け抜けた。
 その熱さがだんだんと俺の力に変わってゆくのが感じられた、
 足も腕もまだまだ動く……そうだ、あいつが俺に力をくれたんだ!

「さあ、トガリ……立ち上がったぜ俺は!」
 そうだ、例え相打ちになったって、俺はあのバケモノを倒してみせる!
 水の中に沈んでいた俺の斧を引き上げる……めちゃくちゃ重いが、大丈夫、やってやる!

「ああ、俺もお前を裏切らねえぜ!」

38話

 面白いもんだな、とっくに最後の最後の力まで使い果たしちまったっていうのに、まだ歩ける力が残っていただなんて。
 あと一撃……それだけでいい、あのクソ野郎の首を刎ね飛ばすだけでいい。右腕以外はもう動かなくてもかまわねえ。
「おとうたん……」目をこらすと、チビが俺に何か言ってるような、そんな風に見えた。
 ああ、怖かったよな。俺がそばにいなかったおかげで、こいつに捕まっちまってずっと怖い思いしたんだよな。
 お前がマシャンバルとどういう繋がりであろうが関係ねえ。そうだ、俺はお前の親なんだ。命に代えても必ず救い出してやる。
「ふっ、やっぱり起き上がってくれたか。そうでなくちゃ、それでこそ見込んだ甲斐があるってもんよ!」
 滝のように降りしきる雨の中、ゲイルもまた俺の元へと近づいてきた。
「できれば、お前と組みたかったんだけどな……神王様のもとでこの世界を手に入れることができれば、どんなに最高だったことか!」
「どういう意味だ……?」
「お前だってわかってるだろうが、この国の、この世界の奴らは俺たち獣人のことなんざゴミ程度にしか思ってないのさ、今まで散々味わっただろ? 人間どもの冷めた目、陰口、目いっぱい働いたのにもかかわらず僅かしかもらえねえカネ……まだまだいっぱいある、なぜ獣人ってだけで俺らはここまでひでえ扱いを受けなきゃならねえんだ⁉ だから俺はマシャンバルへ行ったんだ。そりゃ俺だって警戒してたさ、あそこは獣人嫌いなオコニドの連中もたくさんいるって聞いてたしな。だがよ……あそこの国の連中は俺に優しくしてくれた、種族の垣根なんてなかったんだ、あそこには。だから俺はマシャンバルに尽くそうって決めたんだ。神王様のために、より良い世界を創ろうってな!」
 どう返していいかわからなかった。確かにコイツの言う通りだ……が、言うほど俺は差別ってこと自体にピンとくる頭がなかったんだ。親方だって、街の連中だって俺に分け隔てなく優しくしてくれていた。
 それに……そう、アスティなんか俺のことを英雄みたいな目で見てくれていたんだ。俺のファンだって、憧れの存在だって。
 頭の中までクソみたいな人間の傭兵、それにリオネングのクソな騎士団や城の連中くらいなもんだった、俺たち獣人を白い目で見ていたのは。
 でもそんな些細な連中までいちいち憎んでいたところでキリがねえ。どうせ俺よりちっこくて、華奢で、口だけの連中。
「俺は……俺を信じてて、そして好きな奴らだけを大事にしていけばいい……そう思ってずっと生きてきただけだ。この国の奴らがどうとかなんて微塵も考えていなかった……お前みたいに賢い頭なんて持ち合わせちゃいなかったしな」
「ほう、分かってンじゃねえかラッシュ」機嫌を良くしたのかゲイルは、俺の前へと手を差し出してきた。
 奴の元へ行くのかどうするのか、ふざけるな。もう答えなんて決まっている。
 俺は奴に応えるべく、その手をグッと掴み返してやった、渾身の力で。
「な、ちょ。おま……力入れすぎ!」
 不思議だ……力を込めれば込めるほど、さらに俺の身体の奥底から力が湧き出てくる。それはまるで俺の怒りに同調するかのように、ふつふつと、まるでこれから噴き出る溶岩みたいな感じに似ていた。
「分かってるかゲイル、お前は俺の大事なもんを奪ったんだ……!」
「や、やめてやめてラッシュ……手が折れ……!」直後、ゲイルの手首がボゴっと鈍い音を立て、明後日の方向に折れ曲がった。
「これはアスティの! そして……」
 返す手で俺は斧を掲げ、残ったゲイルの腕をぶった斬った。
「ぎゃああああああああああああああああああ!!!!」

「これはトガリの分!」

39話

 ゲイルの両手をダメにした程度じゃ俺の怒りは到底治まることがなかった。
 止められない怒りってこと自体、生まれて初めて……そうだ。仲間とか、友達とか、愛する人とか俺には何もなかった。唯一親方だけが全てな俺だった。
 そんな仲間を立て続けに殺された。アスティとトガリが……それもあっさりと。
 親方が死んだ時と同じくらいに俺は叫びたかった。
 だが叫ぶ声が枯れた代わりに、今は抑えようのない怒りが俺の身体を支えている。
「な、な、落ち着けよラッシュ。俺もう両手がないんだぜ、これ以上もう戦えないし……な」
 この期に及んで薄ら笑いを浮かべて命乞いか。ふざけんな。その態度が許せねえんだ!
 応えることなく俺はゲイルの顔面に拳を叩きこんだ。何度も何度も。
 どうせまた腕は生えてくるんだろうが、どこぞの王様にもらった力で。
 だから俺は容赦することなんて全然考えなかった。恐らくこいつを殺したって俺の気持ちは晴れることはないだろう。
 ジールもティディも部屋の隅で倒れていた。俺が意識を失っている間に恐らく力を使い果たしたんだろう。
 ああ、もう俺には誰もいないんだ。止める存在も、泣いてくれる存在も……だから、俺もここで……
「やめて! おとうたん!!」
 聞き覚えのある声が突然、豪雨の中から聞こえた。耳がおかしくなっちまうくらいの雨の音の中、その声だけが、はっきりと。
「おとうたん……」チビだ、チビの声だ!
 振り向くとそこには、ぐったりとしたルースの肩を支えているチビの姿が。
 そうか、さっきゲイルの腕を斬り落とした時、逃げ出すことができたのか。
「ラッシュ……さん、そこまでです……」ゲイルに殴り飛ばされたときにもう死んじまったとばかり思っていたが……だが左腕は力なくぶらりと垂れ下がり、洗濯したての服のような白い毛は血と泥に汚れていた。
「奴は、殺しちゃダメです……」チビの手を離れたルースが、ふらふらと俺の元へとやってきた。
「なんでだ? こいつはトガリを、アスティを殺したんだぞ! それなのになぜ殺しちゃいけねえんだ!」
「それが、条件なんです……」
「条件……?」
 そうか……そういや、騎士団連中連れてきたとき、こいつはなにか言ってたっけ。だがそれ以上のことなんて今はもう思い出せない。
「リオネング王直属の騎士団を動かせられるなんて、いくら私にでも無理なことでした。だけど、だけどラッシュさんだけじゃオコニドの何千もの兵と戦うなんてそれ以上に無謀なこと。だから僕は直訴したんです、王子と……」
「条件付きで、ってことか……」その言葉にルースは小さくうなづいた。
「一つはゲイル、そしてティディの身柄を引き渡すこと。そしてもう一つは……」
 オイ待てよ、ゲイルはまだいいとして、ティディも、なんで……⁉
 そう言おうとした俺の言葉をさえぎり、ルースは雨音にかき消されそうなほど小さな声で、ポツリとつぶやいた。

「ラッシュさん……あなたを《リオネングの厄災》として刑に処することです」

ラッシュ、敗ける

1話

 戦争は、終わった。
 だけど、俺っていったい何なんだ?   
 それをずっと考えながら、今、俺は書いている。

 これまでの経緯を。

 目が覚めたのは、例の騒動から数日が経った朝だった。
「ようやく起きましたかい、ラッシュ様」聞きなれない声が部屋の隅から聞こえる。
 でもあれだけボロボロになったのにもかかわらず、凄く軽い。身体が、手足が。
 いや違う、俺は今まで一体何をしていたんだっけ、確かどっかで仕事を……ん、どこでだ、誰とだ?
「医師も驚いてましたよ、肋骨は折れてて背中も全部皮が焦げていたっていうのに、一日で何事もなかったかのように治っていたって」
 がしゃりがしゃりと金属同士のこすれる音。ああ、こいつ重そうな鎧着ているのか。でもこいつは誰だ?
 思い出そうにも、考えようにも頭の中に分厚い霧がかかっているみたいで全然ダメなんだ。
 俺の名前は……ラッシュ。
 親方の下で傭兵をしている。仕事は戦争の手助け、自分のいるとこが勝つように、襲い掛かってくる連中をみんなぶった斬っちまうだけ。
 そう、それだけの簡単な仕事。
 それと「俺自身が死ななければいい」だけだ。
 ずっとそれだけを言い聞かされて生きて働いてきた。

 落ち着け、落ち着け……だんだん思い出せてきたじゃねえか。
「やっぱり獣人っていうのは我々とは身体のつくりが違うんですかね。普通そこまで痛めつけられていたら、もう治るどころか死んでいますし」
 誰なんださっきっからずっとここで話してる奴は。俺には人間の知り合いなんて……親方くらいしかいないぞ。
 いや、親方だけだったっけか? もう2.3人知ってる人がいたような。
「いつまで呆けているんですかいラッシュさん。王直々にお呼ばれがかかっていることを忘れているんですか?」
 王? 俺が一体何したっていうんだ。そんな奴の顔なんて生まれて一度も見たことがねえぞ、だいいち俺には一生縁がない存在だって親方は言ってた。
 ああそうだ、ここ俺の部屋だろ、早く親方に挨拶しなきゃ……あれ? 親方は死んだはずだよな? 何年も前に、老衰ってやつで。

 老衰? 親方はそういう名前の病気で死んだんだったっけか? 違うだろ、誰かが言ってたな。親方が死んだのって……
 死んだ原因って……

 !!!

 その瞬間、身体じゅうからどっと汗が噴き出してきた。
 と同時に、頭の中の霧がみるみるうちに消えていった。
 ジャエス親方は? アスティは? トガリは? ジールは? ルースは? ティディは? いったいどこに行っちまったんだ⁉
 なんで俺一人しかここにいないんだ、そうじゃないここはいったいどこなんだ!
 見回すと、いつも俺が寝ている部屋でもなかった。すごくきれいな白い清潔な、大きな部屋。
 壁のいたるところに花やでっかい絵画が飾ってあって、薄汚い俺の部屋とは全く違う。

 それに、チビは……どこだ? いつも俺の傍らですうすう寝息をたてていたあいつが、チビがいない。

 なんなんだここは、俺はいったいどうしちまったんだ? まさか俺はもうとっくに死んでいるとかか⁉ ここはあの世なのか?
 じゃあここにいる鎧着た野郎は誰なんだ……って、こいつ会ったことがある!

「まーだ頭の中が混乱しているんですかいラッシュ様。起きることできるんだったら早く身だしなみ整えましょう。会はいつでも始められますんで」
 会ってなんなんだと聞いたら、そいつはあきれ顔で軽くため息を一つ。

「ラッシュ様、あなたは裁かれるんですよ」

2話

 俺を待ちかまえていたのは、いつもとは全く違う世界だった。
 さっきまで寝てた部屋から半ば追い出されるようにして向かった先は、壁はおろか廊下や屋根までピカピカに磨かれた石造りの広間。
 そういや、俺以前ここと似た場所に行ったことあるな……なんて思ってると、一緒についてきた鎧の男が「思い出しましたか?」と。
 言われてみたら……! そうだ、ここ城の中だ。以前マシャンバルの化け物と戦ったトコに似てる!
 っていうか、こんな場所で俺裁判を受けるのか……?
「これから王にお会いになるために、まずはそのきっっっっったねえ身体を洗ってもらいますから、覚悟してくださいラッシュ様」
 うん。こいつなんかまだ俺に因縁残ってるみたいだ。

 すると、奥の扉からわらわらと人間の女が入ってきた。
 年齢は様々に見えるが、みんな動きやすい服を着てて、これからまるで人作業するみたいだ。
「ラッシュ様、いっさい抵抗はしないでください。ここは城内でありますがゆえに、大声もたて……」
「がああああああああああああ!!!!!」言ってるそばから俺は叫んじまった。
 生まれて初めて体験した風呂。しかも俺の鼻には少々障る、香水にも似ためちゃくちゃ泡立つ石鹸で、全身くまなく洗われた。
 そんな中、洗っていた女の一人がぼそっと口にしてたな。
「まるで泥の固まりを洗ってるみたい」
 大きなお世話だ。つーか俺が泡の固まりになるまで何度お湯を浴びせられたことか……それほどまでに俺の身体は汚れていたに違いない。
 きれいに洗われた後は、今度は毛づくろいという拷問が待っていた。
 どこぞの国から取り寄せられたという油で、俺のガチガチの硬い毛はきれいに撫でつけられ、そしてつやつやに揃えられた。

 ここまで俺は腰にタオル一枚。

 次に控えし拷問は……服だ。
 身体をきれいにされた時点で俺にはもう抵抗する余力も残されちゃいなかった。まるで寝たきりのジジイみたいに周りの女に抱えられ(奴は侍女と言ってたっけ)身だしなみを整えられていった。
 金持ち連中が着てそうな、きめの細かい黒い布で作られた、大きな襟のある長い裾の服を着させられ、靴は……うん、合うサイズがなかった。っていうか靴なんて履けるか。
 そうしているうちに、今までなにを聞いても愛想笑いで誤魔化していた侍女って奴の一人が言ったんだ。
「さあ、あちらで息子さんがお待ちですよ」って。
 息子……? その言葉に俺は居てもたってもいられず、一目散に部屋のドアを開けた。

 そこには……そう、まぎれもなくチビだ! いつもと変わらぬ……いや、俺とお揃いのパリっとしたシワ一つない服に身を包んだチビが立っていた。
 よかった……チビは無事だったんだ。たまらず俺はチビをぎゅっと抱きしめた。大声は出さずに。
 ルースやジールはまだどうなっているのか分からない。だけど今はチビが無事だっただけでうれしかった。
「おとうたん……」俺の胸元でチビが口を開いた。

「このお洋服……やだ」

 ああ、俺もそう思ってたところだ。

3話

 さてさて……そんな中あれこれ侍女の連中にそれとなく聞いたところ、だ。
 リオネングの今の偉い奴ーつまりは王様ーの名前は「リブス五世」と言うそうだ。そしてこいつのあだ名は「沈黙王」。
 その名の通り、死んでるのかと思っちまうくらいの無口で、人前に姿を現しても、基本は息子の王子が代弁を勤めているんだとか。
 気難しい顔で何度かゆっくりうなづくだけ。賢王ということは臣下や街の人たちに知れ渡ってはいるものの、いつも眉間に深いシワを寄せていて、近づきがたい雰囲気を醸し出している……それがここで聞いた全てのことだ。
 年齢は50後半。親方も生きてたらそのくらいになっていただろうな。
 例に漏れず、この騎士の野郎も王様がしゃべっているところは一度もないそうだ。
「くれぐれも、王の機嫌に障るような振る舞い、言動を犯さないように」
 って念を押された俺は、逆に怒らせたらどうなるんだと聞き返してみた。
「ならばいつも貴様がやっているように試してみるがいいさ」
 そっか、そう答えざるを得ないよな。
 しかし、俺はこれから一体どんな裁きを受けるのだろうか……
 鞭打ちとかならまだ耐えられそうな気もしないでもないが、その場で首を落とされたりとかとなると……そうなってしまうと、やはりチビや俺と一緒にいた連中も同罪になるんだろうか。
 まあ、あの世に行ってトガリやアスティに詫びるっていうのも悪くはないかな。なんていろいろ考えてたら、いつしか目の前に巨大な扉が。
 金で縁取られた豪華な作りしてやがる。さすがは王様のいる城だな。
「ここからは一人でいけ」とは言うものの、やはりチビは放ってはおけないので、いつも通り俺は抱っこした。

 ……相変わらずの心配そうな目で、チビは俺をじっと見続けている。
「おとうたん、こわくない?」
 いや俺だってめちゃくちゃ怖いさ。王様に会うだなんて人生初だしな。
 だけど、今俺の胸の中はとっても落ち着けてるんだ。
 不思議だよな。これから俺は死ぬかも知れねえっていうのに。
 さっきまで、ふざけるんじゃねえバカとしか頭の中にはなかったんだぜ。

 親方もトガリももうこの世にいないからか?
 ゲイルの野郎を負かしたからか?
 それとも、ケッコンっていうのができたからか?

 ……あれこれ考えていてもどうにもならないし、俺はそのまま一歩歩みを進めた。
「いいのか? 子供も一緒で」
 悪いな、こいつは俺にぴったりとくっついたまま離れねえんだ……と、最後に騎士の野郎と会話を交え、俺とチビは追うという巨大な怪物が待っている広間へと向かった。
 気のせいかな、前を見続けているチビの顔が、急に凛々しく……いや、かっこよく思えてきた。さっきまで情けない顔していたのに。
 もしかしたら俺らはこれでおしまいかも知れないのにな……
 なんて思うと、ふとチビを抱いている俺の手にもぐっと力が入ってきた。

 相変わらずふわふわとした気持ちの悪い触感のじゅうたん。同じように鼻の奥の方に重くのしかかるいろんな種類の香水の臭い……
 ああ、分かる。中にいる連中はみんなアホみてえな金持ちの人間どもだってこと。何十人もの奴らが俺のことをじーっと見てる。まるでさらし者みたいだ。
「来たか、傭兵ラッシュ」俺の前には、分厚い本を小脇に携えた中年の痩せた男が、俺の方をいっさい見ずに話しかけている。こいつも獣人嫌いなのかな。
 いや違う。こいつもそうだ、みんなそうだ。
 俺が初めてこの仕事をやった時から感じていたピリピリする視線、雰囲気……どっかの遺跡だかで目にした闘技場ってヤツだったかな。そこで戦わせられる奴隷の戦士ってところか。飾りの重そうな服を着た金持ちどもにじっと見られて……
「本来ならば貴様のような獣人風情が王に会われることなぞ……」
ルノート、言葉が過ぎるぞ!」
 周りが瞬時にざわついた。

 前方へとまっすぐ延びている真っ赤な絨毯のさらにずっと奥。そこには上り階段が続いていた。
 その先にそいつがいた。
 痩せ男の言葉を遮った、凛とした声の若い男……ルースやトガリとかと同じくらいの年齢だろうか。金色のカールがかった髪の毛が、いかにも王様っぽい雰囲気を出している。
 その隣には……うん、一発で分かる。機嫌の悪そうな顔をしたヤツが。
 こいつがリオネングの王子と王様か。

 

4話

 ルノートっていうこのいけ好かねえヤツの言うことを、俺は我慢しながら黙って聞くことにした。この王子が止めてくれなかったら、恐らくこの場で殴り殺していただろう。
 さて、ここに連れてこられた理由。
 つまりはこうだ。俺の鼻面についている十字傷……そう、とっくの昔に死んでいるはずの狼聖母ディナレが現れて、加護と一緒にこの傷を付けてくれたアレだ。
 どうもこの城では、だいぶ前からディナレの加護を受けた奴が居たってことでいろいろと噂がでていたらしい。
 で、ようやくそれが俺なんじゃないかってことで、ここに呼ぼうか呼ぶまいか議論されていたとか。
 どうも、このディナレの歴史における立ち位置は、リオネングのお偉い連中どもの間で真っ二つに分かれているんだ。
 ディナレを聖女として崇めている方……つまり、俺が以前足を運んだ教会、あそこの人間を筆頭としている派閥。
 それと、彼女を全ての災いの根元として忌み嫌っている派だ。おまけにこの連中はディナレ、ひいては獣人そのものを「災厄を呼ぶもの」と信じているんだそうだ。
 追い打ちをかけるように、こいつらは年々支持者を増やしているらしい。

 まあ、リオネングも一枚岩じゃねえってことだ。
 今んとこは王様たちも中立を保っているから表だったトラブルは起きていないって言う話だが……今回のゲイルの一件が引き金になり、こいつらたまっていた怒りが爆発した。
「獣人傭兵、ラッシュは災厄の聖母ディナレの生まれ変わりだ」
 そう、それで俺をここに引きずり出し、処刑しろ……と。
 だが、それに異を唱えたのは他でもない、この王子だ。
「まだ分からないのかルノート。この長きにわたるオコニドとの戦いに終止符を打ってくれたのは彼であることを!」
「しかし王子……こやつは新たな火種であるマシャンバルと内通をしているとの噂も出ているではありませぬか。疑わしき存在はことごとく罰せよと申されたのは、王子……あなた様では?」
 ルノートが上目遣いに王子を見据え、早口でまくし立てている。
 あ、言われずとも分かる。この野郎は反ディナレ派だっていうことはな。
 王子の顔にかげりが見えた。
「ラッシュ、貴様は敵国マシャンバルの将軍ゲイル、そしてその妻であるティディとの間に浅からぬ関係があると伺っておるぞ。よもやそれは違うとは言わせぬぞ」
 戦友とは言わないまでも、俺とゲイルは短い期間ではあったが一応ギルド仲間ではあったし、ティディとは……あいつとは結婚までしちまったし。
 …………
 ……って、ゲイルの妻がティディ!? どういうことだ!
「分かるか? 貴様は新たな戦争のきっかけを、ここリオネングにもたらしてしまったのだぞ」
「だから俺の存在そのものが災厄ってことか……オコニドとの戦争を作っちまったディナレのように」ルノートは黙って首を縦に振った。
「おとうたん……どうなっちゃうの?」胸の中で心配そうに見ていたチビが声を上げた。
「さっき言ったとおりだ。我が国に背いた重大な罪。死をもって償え」
 ルノートのその言葉に、周りで見ていた連中が一斉に声を張り上げた。

 ーそうだ! 死刑だ!
 ー奴はマシャンバルのスパイだったんだ!
 ーさっさと死刑にしろ! 獣人の分際で人間に逆らうな!

 だんだんと声は大きくなり、この大きな部屋を埋め尽くすまでになっていった。
 だけど……不思議と俺の心の中は落ち着いていた。
 なるほどな、結局は獣人だからってことにされるワケか。
 俺が初めて仕事に行ったとき、そしてこの城に初めて出向いたとき……そう、あの突き刺さるような視線は何年経っても変わらないまま。
 おまえら人間と違うってだけでこの有様だ。
 なんだったんだろうな、俺が今まで生きてきた意味って。

「静まれ!!!」

 突然の言葉に、瞬時に群衆が静まりかえった。
 咳払い一つさえ聞こえない。そう、一斉にだ。
 その声を発したのは……王子じゃなかった。
 もっと年をとった男の声。王子の隣にいる、苦い薬を飲んだような不機嫌極まりないツラ構えをしている王だ。
 静寂の中ゆっくりと立ち上がり、王は俺の元へと歩み寄ってきた。

 そして、俺の前でこう言った。

「ラッシュとか言ったな……今からこの私と戦え」

「な……に?」

 

5話

「ラッシュとか言ったな……今からこの私と戦え」

「え……?」

 戸惑う俺に、王は吐き捨てるように言った。おおよそ王様とは思えない口調でだ。
「お前にはこいつらを黙らせるほどの力があるのか?」
「ンなもの……ねえよ」
「なら答えは一つしかない。戦ってこの私を殺せ」
「え、いや、だからなんでだよ! あんた王様だろ? この国で最高に偉い奴なんだろ? 戦うだなんて、そんな……」
 なに考えてるんだこいつ。口を開いたかと思ったらいきなり俺と戦えだの殺せだのって……考えがおかしすぎる!
 俺の言葉をまるで聞いちゃいないかのように、王は身につけていた重そうなマントを脱ぎ捨てた。

 その体躯に俺は一瞬息を飲んだ。
 遠目じゃよく分からなかったが、上着の上からでもはっきり分かるその体つき……そうだ、実戦で剣や斧を振るったであろう、締まった肩の筋肉が。
 親方が俺に稽古付けてくれたときに見せた、それと同様のヤバい体つきだ。
「ルールは一つ。私とお前のどっちが死ぬまでだ。もしお前が勝ったらその疑いも罪も全て帳消しにしてやる」
「いやいや、待てよ王様! あんたが死んだりしたら次の王様は一体どうするんだ!?」
 その言葉に、王はちらりと顔を階段の上へと向けた。
 視線の先には、そう、王子が。
「父上……」
「お前はもう全てを学んでおる。私がいなくとも立派にリオネングを統治できるはずだ」
 心配そうな顔で、王子はゆっくりうなづいた。

 そうしている間にも王は壁に掛けてあった剣をとり、戦いの準備を着々と進めていた。
「手ぶらでこの私と渡り合うのか?」
 その言葉に思わず振り向くと、リオネングの鎧を来た騎士が二人がかりで、白い布に包まれた何かを抱えてもってきてくれた。
 この長さ……そうだ、俺の斧だ。
 布を解くと、きれいに手入れされて磨き込まれた白銀の刃がきらりと輝く。血曇りも汚れも全く見当たらない、もはや新品同様だ。
「ワグネルの鍛えた業物か。剣は何度も見たことはあるが斧は初めてだな」
 ワグネル……って、そうか、俺の斧を作ってくれたジジイの名前だっけか。
「知ってるのか? ワグネルって奴のこと」そうだ、あのジジイ……もう一度会いたかったんだ。
「神の腕を持つ刀工……としか私も知らん。いずれにせよ、お前はワグネルが認めてくれた戦士でもあるわけだな」
 神……そうなのか? あのジジイ宝石あげたらあっさり作っちまったけどな。

 斧を手にしてウォーミングアップをはじめる。身体を動かすたびに服の肩口や尻のところからビリっと破ける音がするが……まあしょうがねえか。今着ているこの服がキツすぎるんだ。
「準備はいいか、ラッシュ」
王はそう言うが、まだあいつは剣を抜いていない。
「剣は抜かないのか?」
 俺の言葉に、王はニヤリと悪戯っぽい笑みを見せた。

「お前ごとき、この剣を抜かんでも勝てるわ」

6話

 やはり俺がここに入ってきたときに感じた、既視感ってヤツ。
 闘技場だ。俺を裁くために王と一騎打ち。これはまるで罠にでもかけられたみたいだ……

 支度を終えると、ずっと静まりかえっていた貴族連中がざわざわと騒ぎはじめてきた。そばで見守っていた騎士の奴らも。
 みんな、こいつが俺の心臓に剣を突き立てることに期待しているのかな。
 俺の味方はここにいるチビ一人だけだし。きっとここも血なまぐさい場所になるだろう。そんなモンこいつには見せたくないし。
「ううん、おとうたんが戦うとこ見てたい」
 チビを外へと連れだそうと手を引いたとき、俺の思いとは逆にここから離れようとはしなかった。
「おとうたん絶対に勝つもん!」
 そか、そういやこいつ見てたんだっけ、俺のことを。
 ボロボロになって戦っている俺のことを。
 あの大雨の中。
「本当にいいのか?」最後に告げた言葉に、あいつは俺の目をしっかりと見据え、うん! と力強くうなづいた。
「貴様の子供か? それにしては毛も生えとらんし、全然似ても似つかないな」嫌み交じりに話してきたルノートの顔をにらみつけて黙らせた。
 チビは特別なガキなんだ。なんとかの始祖……と言いたかったがそこはガマン。これがバレたら結構ヤバいしな。
 群衆の声が大きくなりはじめた。全員が王を称えている。
 そんな中あいつはというと、未だに剣を鞘から抜いてすらいない。なんなんだこの余裕っぷり。

 開始の声もそこそこに、俺は王の脳天めがけ、思い切り斧を振り下ろした。
 ………………
 …………
 ……
 が、かすりすらしなかった。こいつ全然動いてもいないのに。
 空を切った白銀の刃は、赤い絨毯に深々と突き刺さっていた。
「え……?」思わず変な声が。
 体勢を立て直し、もう一度全力で振り下ろす……
 突き上げ、横凪ぎ、蹴り、タックル……
 って、なぜだ!? こいつは。王はさっきっから剣も抜かずただ突っ立っている、俺の渾身の斬りも、技も全然ダメだ。まるで空気をつかむかのような手応えのなさ。
 ワケわからねえ……この野郎、マジメに俺と戦う気あんのか!?
「どうした? もう息が上がったのか」
 飄々とした王の言葉に、おれはうるせえとしか返すことができなかった。
 もう一度、もう一度!
 だが何回踏み込んでも、ひょいひょいと軽妙にかわすだけ。
 くっそ! やる気あるのか!

 そうこうしているうちに、俺の心臓がバクバク音を立てているのが聞こえた。ゲイルとの戦いを終えて以来、どのくらいブッ倒れていたんだっけか……その分俺の身体はナマっちまってる。
 いつもより早く息が上がる……これじゃあっちの思うままだ。
 なにか策を考えないと……
「ふん、無い知恵を振り絞ってからに、お前に策なんぞ練れるのか?」
 こいつは挑発だ、乗るんじゃねえ俺!
 手が止まってしばらくすると、群衆がどっとヤジを飛ばして来やがった。
 ーこいつの息のを止めろ!
 ー王に逆らった奴なんかさっさと殺せ!
 その声はだんだん大きくなり、俺の頭の中でガンガン暴れ回ってきた。

 弱気になるな……俺! そうとも、劣勢に陥ったことなんて今まで何回もあったじゃないか。
 でもあの時は、周りには仲間とはいえないけれども友軍がいた。一応の仲間。ああ、なんでだ……今はどうして俺だけがここまで攻められなきゃならねえんだ。
 いや、獣人である俺が、だ。
 ラッシュとしての俺じゃない、獣人だからここまでボロクソに言われてるのか。
 どうして、ここまで……!

 ーおとうたん!

 負の心の声が響く頭の中で、ふと、チビの小さな声が聞こえた。
 水滴がぽつりと静寂を打ち破るかのように。

 ーがんばっておとうたん!

 振り向くと、チビが一生懸命に声を上げていた、がんばれ、がんばれ……って。
 ああ、そうだっけ、俺はただ一人の獣人じゃないんだよな。
 でもこいつは人間だ、だけど……このクソ野郎たちしかいない中で、たった一人の俺の味方であり、仲間なんだ!

「お前の唯一の味方……か」
 まるで俺の心の中を読みとっているかのような、王のその言葉。
 あいつがゆっくりと歩み寄ってきた、今度はそっちの番か!?

「今のお前のその姿……ガンデの奴が生きてたら、なんて言うだろうな」

 ガンデ……? ちょっと待て、ガンデって、それ俺の親方の名前じゃねえか!
 なんで、あんたが親方の名前を知ってるんだ!?
「知りたいか、ラッシュ」
 そして、ゆっくりと口を開く……

「ガンデと私は、共に同じ村で育った親友であり、そして……」

 いつの間にか王の顔からは、あの険しさが消えていた。
「戦友だった……」

 

7話

 いつもの俺ならば「ウソ言うな! きさまフザけるんじゃねえ!」と逆上していたかも知れない。
 だがこいつには、王には……全て納得するだけの理由がもう最初から見えていた。
 この身体つきといい、俺の渾身の打ち込みを全部かわしたことといい。それによくよく思い返してみると、なんか懐かしささえ感じられるんだ。そう、親方と手合わせしているみたいで。

 親方は片足がオンボロの木の義足だったから、走ったり飛んだりすることが苦手だった。だから必然的に効率よく避けることを得意にしていたんだ。
「さあ、俺の脳天に一発打ち込んでみろ!」って、来る日も来る日もこんちくしょうって思いながら、親方に立ち向かっていったっけ。
 手足のマメが潰れて、息もできなくなって、それでも、ずっと同じ練習をやり続けた。

 だけど一度だけ、親方の頭に一発当てたことがあったな……
 どうやったんだっけ、あの時……
「いいかバカ犬。いかなる剣の使い手だろうと剣豪だろうと、一つくらいは構えに自分のクセを持っているんだ。もし一対一で強いやつに立ち向かうときがあるかも知れん。そんなときはな、まず最初にそのクセを見極めるんだ。そうすりゃどんなやつだって倒すことができるぞ」

 そうそう。確か親方が口にしていたっけ。
 足さばき、身体の軸の動き、息づかい……
 それらを全て目で視るな。全て感づかれるから。
 だから、全身でそれを視ろ! って。

 いつでも飛びかかれるように俺は姿勢を低くし、構えた。
 肩の力を抜け。呼吸を整えろ。全身の感覚を澄ませるんだ。
 そうすれば、だんだんと奴の息づかいが見えてくる……!

 息を止め、俺は一気に相手の懐へと飛び込んだ。
 奴の動きがブレた隙を狙って、俺はまず奴が着ている服の大きな飾りのついた襟元をギュッとつかんだ。
「しまっ……!」その声を俺は聞き逃さなかった。このまま投げ倒して……
 と思った瞬間、王は手にした鞘の先端を俺の足の甲に突き刺した。
 思わず「がっ!」と激痛で呻き声を上げる。
 そしてそのまま、今度は剣の束の部分で、鼻の先をゴン! と思いきり殴りつけた。

「なかなか落ち着いたいい動きだったな。ガンデの若いころにそっくりだ。足下が留守になりやすいところもな」
「ぐっ……ぞ!」吹き出す鼻血を止めるのに俺はもう精一杯だった。
 瞬時に足の甲を攻撃して動きを止めたり、鼻を殴ったり。
 こいつ……俺たち獣人特有の急所を知ってる!?

「だが、な……」王の剣がいつの間にか抜かれていた。
 その白く冷たく光る切っ先は、俺の首筋にぴたりと。
「お主の負けだ。ラッシュ」

 俺は、負けたのか……

8話

「だめーっ!」俺の首に切っ先が突きつけられた時だった。
 王との間に立ちはだかって、両手を大きく広げた小さなその姿……チビだ、なんでお前……
 だが、そんな抵抗にあっても奴の剣はピクリとも動かなかった。
「おとうたんきっちゃだめ!」
 チビのその一声に、あたりが一斉に静まり返った。
 あんだけ俺を殺せだの斬れだの騒いでいた野郎どもが……全員だ。
「チビ……」そして俺もこれ以上は言えなかった。

 そういえば、こいつの……チビの背中って今までほとんど見てなかった気がする。
 いつも頼りなさそうな上目遣いで、俺のことをじっと見つめていた。
 そんなチビが、俺を守ってくれている。
 小さな背中が、足元が怖さでガタガタと震えている。だがチビだってやっぱり怖いんだ。
「おとうたんわるいことしてないもん! まいにちそとであそんでくれるし、いっしょにめしくうし、おべんきょうだってしてくれるし、それに、それに……」
 涙でぐずついた声が漏れ出る。
「おとうたんはせかいでいちばんつよいんだもん!!!」
 ひときわ大きな声が空間を揺るがした。この小さな身体にそぐわないほどの、頭の中までキンキンするほどのでかい声で。

 そしてその声に折れたのか、王の剣がゆっくりと下がった。
「……坊主」対する王の優しい声。さっきとは全然違う。
「お父さんのことは大好きか?」
 その言葉に、チビは黙ってうなづいた。
「どのくらい大好きだ?」
「うん……えっ、と……」

 しばらく考えたのち、チビは口を開いた。
「おうさまよりだいすき!」

 その言葉に、周りの騎士から貴族連中から、どっと笑いが起きた。
 だが、それ以上にガハハと大口で笑っているのが一人。
 そう、ずっと不機嫌な顔でいたあの王が、だ。
 チビの声より、さらに大きく響く豪快な笑いで。
 その姿に俺とチビだけは呆気に取られていた。

「参った、俺の負けだ。降参だ」
 チビの前で王はドン! と座り込んだ。なんなんだいったい?
「いや、ラッシュ……おまえとの勝負には勝ったが、坊主には負けた……ってことかな」
 リオネングで一番偉い男、王様が、あろうことか俺たちの前であぐらをかいている。
 チビのおかげで俺は勝てたのか……? まだイマイチ王の言っていることが分からないままだ。

「すまなかったな、お前を試そうとして」
「え?」その言葉に、つい俺は変な声を上げてしまった。
 じゃあ、この一対一の戦いっていうのは一体⁉ と言いたかったんだが。鼻血がひどくてここまで話すのがやっとだった。
「お前を呼びつけて色々話そうとしたのは本当のことだ。だが私はお前を処刑しようとするつもりは毛頭なかった、全ては……」
 王はまた不機嫌な目で、周りの貴族どもを……いや、さっきまで俺を殺さんと囃し立てていた観客をにらみつけた。

「ここに集まっている馬鹿どもを、とにかく黙らせたかっただけだ」

9話

 その夜、俺は王にまた呼びつけられた。今度は食事会だとか。
 本当ならチビと二人で向かう予定だったんだが、あいにく当の本人はあの時の緊張からか部屋に戻るなり大いびきをかいて寝ちまった。
「食事会とは言ってたけどな……どんなメシなんだか」そんな雑な通達だ。俺もついつい疑ってしまう。まだ心の奥ではイマイチ信用していない。
 万が一のことを考えて、俺はいつもの革鎧を身につけて出て行った。
 しかし……この鎧も、いつも着ていた服も、城の侍女たちに念入りに洗われたおかげで、なんか鼻が落ち着かねえ。人間にとってはいい香りかもしれないんだがな。

 通された場所はえらく小ぢんまりとした部屋だった。さっきとは全然違うまるで個室みたいなところだった(それでも広いことは広いんだが)。
 同様に小ぶりな白いテーブルの向かいには王様が。そして手前の席には俺が。
「まだ警戒しているのか。大丈夫。俺とお前以外ここにはおらんぞ」
 そういやさっきもそうだったか、いつの間にか自分のことを俺って言ってるんだ。最初は私だったのにな。

「ふう……何十年ぶりかだな。こうやって心を許せる奴と会話ができるのは」
 王はグラスに注いであった赤い酒を、一気にグイっとあおった。
「ガンデの忘れ形見……そう、お前という存在に出会うまで、毎日が息苦しく、周りにも憔悴していた」
「王サマっていうのも結構疲れるんだな」少しうなづき、そうやって俺のあだ名が生まれたんだと話してくれた。

 色々話そうかと思った矢先、俺の後ろのドアが開いて懐かしい臭いのする大皿のメシが運ばれてきた。
「王よりご要望のありました、アラハス風スパイス煮込みでございます」料理長らしき老人がそう話した。
「さあさあ食え、ナイフもフォークもどうせ使えないだろ?」
 そういうなり王は、皿から骨の付いた肉をつかみ取り、一気にかぶりついた。
 そして同様に俺も……って、あれ? この味どこかで……
「昔な、ガンデと二人で戦場を転々としていた時だ。盗賊の襲撃に遭っていたアラハスのキャラバンを救ってやったことがあってな、その際にやつらがお礼でもてなしてくれた料理がこれだったんだ」
 おおよそお偉いさんとは思えないがっついた食いっぷりに、俺も肩を並べて付き合った。
 残念ながら酒には付き合えなかったけどな、けど親方の懐かしい思い出がいっぱいよみがえった。

 当たり前だが、俺には初めて聞いたことだらけだ。
 親方が片足を失った本当の理由とか(つーかなんで親方は俺にウソを教えたんだ?)、ジャエス親方は結構臆病で、2人と違ってほとんど前線には出なかったとか。
 そして……

 なぜ王は、親方と違う道を選んだのか。

「昔とちっとも変っちゃいねえ。お前たち獣人たちはいつも人間に虐げられて辛い思いをしてきた、そんな光景ばかり見ていた……だから」王は俺の両肩をがっしと掴んだ。
 同じだ。力強くて、それに手のひらから熱さが伝わってくる。
「どうにかして変えたかったんだ。俺も、ガンデの奴も」
 変える……っていったい?
 いや、つまりそれって、まさか⁉
 そうだ。と王は大きくうなづいた。
「反獣人を旗印にしているオコニドを倒して、そして作りたかったんだ。俺は傭兵から出世して、貴族に取り入って……猛勉強してここまで来ることができた。中から変えていきたかったのさ。ガンデは傭兵ギルドを立ち上げて、外側から」
 俺の肩をつかむ手のひらに、一層の力がこもっていった。

「獣人も人間も差別のない、真の自由の国をな」

10話

 ガンデが亡くなる前にな……いや、あいつと会うこと自体がもはや叶わなかったんだ。身分が離れちまったから。
 息を引き取る直前、あいつは描いていた思いのすべてを俺に話してくれた。そう、お前のことをな。そして満足そうな顔で目を閉じたよ」
「え、その時に……あんたは、王様そこにいたのか⁉」
「お忍びで行ったんだ。うまいこと変装して。それにお前ともその時に会ったぞ。覚えてるか?」
 そんな奴に会ったかなと思い、俺はあの時のことを思い返した。
 親方が死んだって聞いて、急いで家へと向かった時、確か玄関の前にいた男に聞いて……って⁉
「あ!!」
「そういうこった。あれが俺だ」
 王も噂には聞いていたそうだ。獣人の傭兵で活躍してるやつがいるってことを。しかしそいつがガンデ親方の育てた……つまり俺ということを知るまでには至らなかったそうだ。
 そう。親方と最期に話すその時まで。
「獣人に嫌悪感を抱いている連中の壁っていうのは、そう簡単には壊せねえ……ディナレの時代からな。それは一番お前が分かっていることだろ。だからだ、見つけたかったのさ、チャンスを。お前と腹を割って話すことができる機会を」

 ふん……それが今日のことだったってことか。

「マシャンバルの存在についてはこっちも薄々ながら感じ取っていた。だがこんな事態にまで陥ってしまったのは我々のミスだ……すまぬ」
 それによって、また……とつぶやきながら、王はベランダに面した大きな扉を開けた。
 満月が光り輝く澄んだ夜空が、俺の視界一面に広がった。どす黒い空と滝のような大雨だったあの時とはえらい違いだ。
 涼しい風に吹かれながら、俺は大きく身体を伸ばした。
 しかしこういう景色っていうのも生まれて初めて見るなぁ……いや、見下ろすこと自体が初めてかも。
 両手を広げたって全然足りないくらいの広大さ。こんなにもリオネングって大きかったんだ。

「獣人排斥を掲げている貴族どもがまた増えるきっかけを作っちまった。マシャンバルの出現によってな」
 ゲイルの野郎と、ルースの弟……ラザラス司教か。
「まぁ、どっちみちもう引き返すことなんてできねえ。お前たちの仕掛けた今回の戦いで、しばらくの間はあちらさんも静かになってくれるはずだ。なんせこっちは将軍と姫さんを預かっていることだし」

 そこでだ。と王は俺に告げた。

 ここから始まるであろう俺の人生のことを。

「リオネングの王から直々に、獣人傭兵ラッシュに命ずる」
「え、えええ⁉ なんなんだよいきなりかしこまって?」

「この国から立ち去れ。いや……貴様を追放とする」

11話

 面食らった。なんなんだいきなり追放って⁉
「忘れたかバカ犬。お前は俺との勝負に負けたんだぞ? なんでも言うこと聞けって言ったよな」
 え、そうだったのかと改めて思い返してはみたものの……そんな取り決めだったかあの勝負って?
「それにこれはガンデの遺言でもあったんだ……<あいつは俺がいなきゃまともにケツすら拭くことのできない野郎だ。だからあいつをどうにかして突き放してやってくれ。自分が選んだ路を外れることなく歩けるように>ってな」
「親方が……そんなことを」
「まあな、追放っていうのはいささか大げさかもしれんが、しかし今のお前は背負っちまっているんだ。この世界の重要な道しるべをな!」
「道しるべ……? 俺がいつの間にそんなモンを?」
 俺の言葉に、王はやれやれとため息をついた。
「マシャンバルの姫さんが話してくれたぞ……あの坊主のこともな。あの子がここにいる限り、またマシャンバルは攻めてくるだろう。それほどまでにあの子が持っている力は危険なんだ……そう、おまえが寝ている間にすでに何人かの家臣、それに息子が目の当たりにしちまっている。お前の持つディナレの聖印といい、教団が嗅ぎつけたらいま以上に事態は大ごとになるぞ」
 ティディ……チビのことを話していたのか。
「いいか、おまえはこの国を出てもっと力を……そして見聞を深めるんだ。外の世界を見て、お前自身が、坊主が、生きる意味を見つけ出すんだ!」
 王は俺の背中をドン! と力いっぱい叩いた。
「ガンデと俺が……いや、リオネングが為せなかったことを!」

 

番外編 あめのよふけに

前編

 夜明け前から降り続いていた雨は、結局その日の終わりも止むことがなかった。
 真っ暗な空を見上げながら、雨はあんまり好きじゃない。と一人愚痴る。
 自慢の嗅覚は鈍るし、お気に入りのこの髪も、湿って重くなってしまうし。それに何より嫌なのがぴちゃぴちゃ跳ねる足音だ。と彼女はいつも思っていた。
 少なくとも、仕事の時だけはね…と付け加えながら。
「はあ」と、冷たい風の吹き抜ける中、酒混じりの息を吐く。ふわりと白い霧が宙に浮かび、それは瞬く間に降りしきる雨のひと粒へと変わってゆく。
 顔にかかった濡れた前髪を細く長い指で掻き上げても、視界の先には何も見当たらず、またため息が一つ、雨に消えた。
 いつもなら飲み友達や、仕事をさぼって遊びに繰り出してきた衛兵がちらほら見受けられたりするのだが、この長い雨で今夜は早々に家路へとついてしまったようだ。
 後ろを振り返ってみても行きつけの店の木戸は閉まったまま。仕方なく、ぬかるんだ道を小走りで駆け抜ける。もう少し長居できそうな店を探しに。
 その後ろには、"音無し"特有の小さな足跡が点々と続いていた。
 だんだんとその足は早さを増していく。水面の上を小石が跳ねていくように。
 やっぱり雨は嫌いだ、それ以上にぬかるんだこの地面が大嫌いだ、と舌打ちしながら。
 一歩一歩足を踏みしめるたびにまとわりつく、この独特の感触。爪先が沈むごとに重く、しつこくー。
 鉄のブーツや革靴を履いている人間たちならば、こんなのはそれほど難く感じないだろう。重くなったら、洗うなり履き替えれば済むことなんだから。でも自分らは違う。靴なんて履くことがないから。
 それだけに、よけい気分が悪い。
 積み重なった屍の上を、流れ出た血だまりの上を歩いているような感じがして。
 酔っているから、必要以上に"それ"をより一層思い出してしまうのかもしれない。でも、
「とっとと止んでくれないかな…」
 って、独り言が漏れでてしまうくらい、今の彼女は、この雨そのものに嫌気が差していた。

 暗い街をしばらく走り続ける中、ようやく雨宿りできそうな軒先が視界に入ってきた。彼女はさらに足を早め、唯一の濡れない場所へと、その身体を素早く潜り込ませた。
 いつしか雨脚は強まり、遠くからは季節外れの雷の音が聞こえ始めてきた。
 水を含んで重くなった愛用の革ジャケットを脱ぎ、軽く絞る。
 少しでも身体を乾かしたい、髪も、服も。
 頭を勢い良くぶるっと振ると、ようやく自慢のカールがかった髪が元通りになってきた。
「飲みなおせるトコなさそうだな…」三度目のため息のあと、ジャケットの胸ポケットから残った小銭をかき出す。
 だけど手のひらの上には、古びた小銭が三枚だけ。
「ありゃ、あたしそんなに飲んだっけ?」良いで曖昧になった記憶を手繰り寄せてみる…が、一向に思い出せない。それほどまでにたくさん飲んだということか。

「お嬢ちゃん、人間じゃないね」ふと隣から、しわがれた老人の声が聞こえてきた。
「そうだよ、獣人は嫌い? それだったらごめん、出るよ」獣人嫌いの連中にはもう慣れっこだ。しかしそれなりに絡んだり楯つくような輩ならば、急所に一発鋭い蹴りでも見舞うところだが、相手は老い先短そうな老人だ。
 でも一体いつの間に…?と本人も内心驚いてしまうくらい、この老人の気配はなかった。
 密偵紛いの仕事を何年も続けているから、職業柄…いや"音無し"固有の感覚ゆえ、これくらいの人の気配、すぐに気が付かなければいけないはずだった。
 一気に酔いが覚める。それと共に胸元に隠してあるナイフへとゆっくり手を伸ばす。
「ほっほほ、安心せい。お嬢ちゃんの命を取る気なんてこれっぽっちもないわ。なんせこんな目玉じゃからの」
 彼女の顔を見上げ、老人はにっこり微笑む。
 ーが、その目は白く濁っている。おそらくほとんどものは見えないだろう。とはいえ自身の緊張を解く気はない。脱いだジャケットの袖口、いや裾にも、襟にも無数のナイフを仕込ませている。商売道具だ、これだけは絶対身から離さない。
 過去にもそういう連中には何人も会ってきたから。

 雷の音はどんどん近づいてきた。大粒の雨は、ぬかるみに刻まれた彼女の足跡を消してゆく。仲間のラッシュの言葉を借りるとしたら「濡れるのはこれ以上カンベンだ」か。
 それにこの雷、もはや外にでることは危険だ。しかしこの謎の老人と一緒に雨宿りしているのはもっと危険かもしれない。自身のことを何も問わず、むしろ隣にいることを楽しんでいるかのようにさえ思えてくる。この盲目の老人、かなりの手練だったのかもしれない。そう思うと、背筋には戦場に似た緊張感が走って行く。
「ふむ」老人が口を開く。「お互い黙りこくっているのもつまらんしの、どうじゃ、お嬢ちゃんのことをこのわしが占ってみるというのはどうかの?」
 こういうのってよくある流れだな。注意をそらす、緊張をほぐす、場を和ませる…いわゆる常套手段だ。なんて考えると、思わず吹き出しそうになってしまう。
「いいよ、でもって占うのはあたしの過去? それともこれからのこと?」
「お望みとあれば全部でも。ささ、手を見せてもらえんか」
 乗りかかった船だ。しかもこの場にいるのは2人だけ。だけど万が一のこともある。右手はジャケットの奥に隠し、左の手のひらを老人へと差し出した。